江戸幕府と気象の先達
阿部正弘と福山藩
青天を衝け、で前回急逝した阿部正弘老中首座、25歳で老中就任、27歳で老中首座となりその後10年間その役を果たしています。そして首座を退いてから2年で老中職のまま急逝されています。幕府もいまの官僚組織みたいなもので、老中首座はそのトップであり、今の官房長官のような役回りなのでしょうか。新政府側は若手中心でしたが、旧来勢力だった幕府側で、この若さで自分より25歳上の天保の改革の水野忠邦を追い出して首座となるなど、相当のやり手であったのでしょう。
雲の伯爵、阿部正直
さて、阿部家は福山藩主ですが、最後の藩主の次の当主が阿部正直、雲の伯爵とも呼ばれて、御殿場に観測所を設立して富士山にかかる雲を観測、自宅に風洞施設を設置して富士山の模型での風の乱れを実験したり、活動写真で雲の動きを記録したり、まあ、今でいう「雲野郎」ですね。実は、気象研究所の初代所長でもあります。水戸藩は、今の後楽園に上屋敷、東大の農学部あたりに中屋敷がありましたが、福山藩は今の文京区西片に中屋敷がありました。今、その付近に誠之小学校という名門公立小学校があります。この名前は福山藩校の誠之館と同じ由来で、阿部家はこの屋敷跡の西片の街づくりを支援しています。阿部正直も気象台退職後は幼稚園や公園を整備するなど阿部家当主としての務めをはたされています。
雪の殿様、土井利位
また江戸時代にもどり、阿部正弘とともに水野忠邦を押しのけて老中首座となった土井利位、こちらは顕微鏡で雪の結晶を観察して、それを記録した『雪華図説』『続雪華図説』では計183種類のスケッチがあり、今の科学から見ても正確なものとなっています。古河藩主であったことから、茨城県古河藩内で観測されたとすると、それほど降雪が多くない関東平野で10年、20年でこれだけの種類の雪の結晶を観察できたのでしょうか。江戸時代は寒かったから、という説明もあるようですが、そもそも冬の降水頻度が少ないので、どうでしょうか。
そもそも殿様といっても幕府のキャリア官僚なのでどれくらい地元に滞在できていたのでしょうか。さきほどの阿部正弘など、福山の地元に帰ったのは1度だけとのことです。実際1825年に寺社奉行となり、その後、大阪城代、京都所司代を経て1844年まで老中だったので、江戸、大阪や京都での観測もあったと思います。京都は、積雪は多くないとしても冬の降雪頻度は結構あり、また盆地で気温も低いので観測場所としてはよかったかもしれません。もしかしたら、寺社奉行も計10年近く担当されていたので、雪国の山奥の寺社に出張に行って観測することもあったのかもしれませんね。
初代、二代、三代、中央気象台長
まず、初代の中央気象台長荒井郁之助、幕末に幕府の海軍職にあり榎本武揚とともに箱館戦争を戦い降伏して牢獄生活も送った方です。その後、北海道開拓測量の経験を生かして地理局に入り、そこから独立した中央気象台の初代台長となりました。箱館戦争では、幕府の切り札だったオランダ製の軍艦開陽丸を江差沖の気象の急変で沈没させたことが、戦いの分け目になったと言われています。この経験が、中央気象台長となったきっかけになったのかどうかはわかりません。
さらに2代目中央気象台長の小林一知も、荒井郁之助とともに戊辰戦争を戦いましたが、操縦していた咸臨丸が暴風により沈没して一足早く降伏となりました。この二人が地理局で測量関係の仕事をしていたところ、ドイツ人のクニッピングを中心に暴風警報の開始に向けて測候所の開設や気象電報等の準備が急ピッチで進められ、この二人もこちらの仕事がメインになったようです。暴風警報の開始という仕事が幕府海軍の二人を引き寄せたような気がしてなりません。
3代目の台長は、中村精男、この方は幕府側ではなく、長州藩の吉田松陰の松下村塾の出身です。私も萩市の松下村塾の展示でここの出身であることを偶然知りました。この方は、東京物理学校、のちの東京理科大学の設立にも関わっています。このように3代までの中央気象台長が激動の幕末という舞台から誕生したということになります。この次、4代目は、「天気晴朗なる浪高かるべし」と日本海海戦での天気予報を出した岡田武松、5代目はお天気博士と呼ばれた藤原咲平、このお二人はいろいろなところで紹介されているのでここでは省略します。
アンサンブル予報と歴史の見方
気象予測の手法としてアンサンブル予報というのがあります。非線形相互作用と呼ばれるメカニズムを通じて、微小な違いが時間と共に大きく異なる時系列をたどることが知られており、一つの予報だけで判断するのではなく、さまざまな初期値から出発する多数の時系列を総合的に見て今後の推移の可能性や最悪のシナリオを想定する、そんな手法です。ですが、実際の天気の変化は一通りです。さまざまな可能性の中からたまたまその一つが選択された、と考えることができます。過去の気候変動も本当はさまざまな可能性がある中、現実の自然はその一つを選択した、まあ、神様の選択といってもいいのかもしれません。
歴史もミクロに見れば人間が作るもので、そもそも一人一人の人生、人と人との相互作用は偶然に左右されるものも少なくなく、まあ強い非線形現象です。その結果としての歴史も数多くの可能性の中から神様が選択したと考えてもいいのかもしれません。歴史を必然ととらえず、その時々の人の生き様から歴史を考えてみるのも面白そうです。今日のところはここら辺で終わりにします。
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