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夕暮れ実習生

夕焼けの心地よい光が、クラスを射す。
ベテラン教師は、一枚のアートのように黒板の板書を終えてチョークを置く。生徒が板書を終えるのを静かに待つ。その間、私とほかの大人は不安定なバインダーで書き込みをする。この部屋には、シャープペンが机をたたく音しか響かない。

ハッキリと聞こえるちょうど良いボリュームの声が向けられる。
「この分野は難しく時間がかかるので、詳しい解説は次回に持ち越しますね。板書をしっかりとっておいてください。余裕がある人は、板書と教科書をみて予習しておけるといいですね」
50人ほどが座れるであろうこの部屋には、前方の席に10人ほどしか生徒はすわっていない。あとは、脇に立つ数名の大人と人体模型。
書き終わった生徒から、書きにくい黒テーブルにペンを置き、黒板側に体を向ける。日常の指導の賜物だ。

全員が書き終えたことを確かめてから、彼女は手招きした。明らかに私に目を合わせて。いきなり黒板の前に立たされた私を、彼女は次回からの授業を担当する教育実習生だと紹介した。そして、私にだけ聞こえる声量で言った。
「授業時間は残り20分あります。自己紹介など好きに使って構いません。ただ、責任をもって話してくださいね。」
その眼差しは、発言が嘘でも冗談でもないらしいことを示すには十分だった。その眼は信頼を映していたように見えた。彼女に教師としても人間としても信頼を感じ始めていたころだったので、私はそれに応えないわけにはいかなかった。

でも、20分という半端な時間を中学生相手にどう使えばよいかわからなかった。一瞬で脳内の動きが速まったのを感じる。何を思ったのか、私はこんな問いかけを始めた。
「みなさんは、今までどんな人と話したことがありますか」

自己紹介と軽い導入を想定されていたのなんて、数秒前に飛んだ。今あるのは中学生に何を伝えたいかということだけだった。

当然ながら、彼らは何を言っているんだろうというふうな表情をとる。それはギャラリーも同様だったと思う。
それでも続ける。
「逆に、どんな人と話したことがありませんか」
太陽はさらに傾いた気がする。
「例えば、職業。この中で教師と話したことがない人はいないでしょう。コンビニの店員とも全員が話したことがあるでしょう。それなら、宇宙飛行士はどうでしょう。総理大臣と話したことは?きっとこの中にはいないと思います。そんな極端な例でなくとも、校長先生と直接お話しした人ってどれくらいいるでしょうか。たとえば他に、お肉を捌くお仕事をしている人と話したことがある人はいますか」
スーツを着ている大人に視線は一切飛ばしていない。でも、ベテラン教師は頷いていたとわかった。
「どこまでを話すとするかはさておいて、話したことある職業の人って数えるほどしかいないでしょう?それでは、ほかの視点も挙げてみます。どの都道府県出身の人と話したことがありますか。どの年齢の人と話したことがありますか。どんな国出身の人とあったことがありますか。どんな言葉で喋る人とあったことがありますか。国を超えると、ずいぶん遠くに感じるかもしれません。でも、今少しだけ感じませんでしたか?」
スピードが上がってきた。ここで一拍をおいた。

「きみたちは、似たようなバックグラウンドの人としか話したことがないんです。それを責める気はまったくなくて、むしろ普通なんです。ただ、それを知ってほしいと切に願います。
世界には70億人もの人がいる。中学生でもSDGsを知っている。多様性がますます、ウザいくらいに、重要だと言われるでしょう。でも、今のきみたちには紙の上の、画面の上の話でしかないんです。それで知った気にならないでほしい。無関心にならないでほしい。だって、それは二足歩行の喋るネズミとあんまり変わらないから。明日夏祭りに行く約束をするような日常生活と、地球の裏側で紛争している世界は繋がっている。同じなんだと。戦地へ行けという意味ではなくて、分かった気にならないでほしい。きちんと知ろうとしてほしい。」

次々に口から出る言葉に、驚きと恥ずかしさがちょっとある。でも、紛れもない本心だ。

「身長が高い人のことを、私は本当に羨ましく思います。見ての通り、私は低いですから。だから、身長が高い女性に『身長分けてくれよ』なんて言ったことがあります。もちろん、それは冗談です。でも、彼女は今まで見たこともないような悲しい表情をしました。
『私だってこんなに身長いらない。なりたくてこうなってるわけじゃない』と。
そのとき私は中学生でしたが、初めて知ったんです。高身長で悩む人もいるんだと。そして、すごく後悔しました。私の些細な冗談が彼女を悲しませてしまったことにね。今考えれば、当たり前です。でも、身近な例で言えばこういうことです」
言葉選びに精神のすべてを使っていて、ほかに回す余裕がない。でも、生徒は聴いている。大丈夫だ。

「無知はときに人を傷つけるんです。そこに傷つける意図がなかったとしても。そして、知ることは痛みを伴います。今までの自分の行いに、採点するようなものだから。バツがつく可能性が十分にありますからね。だから、知ることは怖いことでもあるんです。
でも、知ることを辞めないでほしい。知らないことを怖がらないでほしい。
知らないことは知ろうとする。知らないことは知らないと言っていいんです。素直にわからないと言って教えてもらってください。中学生だからこそ、知らなくてもいいんです。恥ずかしいことなんてなにもないし、聞いてください。知ったかぶりが恥ずかしいでしょう?それです。
大人になると、なんでも聞けるわけじゃないという人もいます。確かにちょっとは理解できます。でも、そこでやめてしまう人もいて、私はしったかぶりをする大人の方が、ずっと恥ずかしいと思います。わからなければ調べて、聞いていいと思います。
わかろうとする努力は止めてはならない、と私は強く思います」

オレンジの光は、もうほとんど消えていた。
蛍光灯だけが、部屋を照らしていた。