玉水物語(全訳)
昔々、鳥羽のあたりに高柳の宰相という人がおりました。三十になっても子供ができず、なぜいつまでも授けてくださらないのですかと神に仏に問い続け、子宝を願い続けていましたところ、ご利益があったのか北の方に懐妊の兆しがありました。二人は喜び、赤ん坊が生まれてくる日を今か今かと首を長くして待っておりました。
果たして十月の初めごろ、かわいらしい姫君がお生まれになりました。蝶よ花よと育てられた姫君はどこをとっても美しく、姫のいるあたりには光が差して見えるほどでした。こうしてすくすくと育った姫君はやがて十四五歳の乙女になりました。吹く風や立つ波などを見ても心を動かしては歌を詠み詩を詠じ、ちょっとした遊びにおいても比べるものがない様子に、父も母もわが子がかわいくてたまりません。ここにおいて何もさせないのはもったいない、宮仕えに出そうかとも考えました。
姫君は優美な心をお持ちでした。前栽の花々が咲き乱れ、周囲の山のほとりが霞んでいる美しいある日の夕暮れ、乳母子で一番親しい女房の月冴と花園に出かけた時のことです。花と戯れ、無邪気に遊ぶ姫君を偶然見た者がありました。花園を住みかとする一匹の狐です。一目見たとたん姫君に目を奪われ、その目が離しがたくなってしまったのでした。
なんてきれいなお姫さまだろう、時々で構わない、遠くの物陰からそっとで構わないからあの方を眺めていたいなあ――。
木の陰に隠れて姫君を見つめる狐の、身の程を知らぬ恋心こそあさましいものです。花園を去ってゆく姫君に狐もはっと我に返って自分のねぐらへ戻りました。ねぐらに身をひそめ狐は悶々と考えます。どうして私は狐に生まれてしまったのだろう。こんな獣の身であの美しいお方に恋焦がれてどうすればよいというのだろう──ああでも、このまま思いを伝えず死んでゆくのは、あまりにも惜しい。
まず、貴族の男に化けることを考えました。人間の男になってお姫さまと結婚してみようか。しかし、と狐はその考えを打ち消します。私のような狐の妻になっては、あの輝かしいお姫さまの一生があだとなってしまうだろう。お姫さまの父母も悲しむだろう。お姫さまを自ら不幸にはしたくない。ならどうすればいいものか。
寝ている間も起きている間もずっと姫君のことを思うあまり、餌ものどを通らなくなった狐はだんだん弱っていきました。身を起こすのもやっとながら、姫君に会うことを期待しては花園に出かけ、そのたびに人間に見つかって礫や矢をくらいました。それでも姫君の姿が心から離れないのです。
こんな有様でも生きているものだなあ、露と消えてしまっても構わないのに、と狐は思います。姫君に近づく方法を考え続け、そして狐はひらめきました。
このあたりに、男子ばかり生まれて娘のいない家があります。息子のうち一人くらい娘になってくれないものかねえと嘆いているのを聞いたことがありました。その記憶を頼りに狐は十四五歳の美しい娘に化けました。うら若く目もあやな娘の姿で、狐は家の戸をたたきます。
「すみません、私は西の京のほうに住んでいたものですが、この度後見人をなくし、頼れる人がいなくなってしまいました。それで途方に暮れてここまでさ迷い歩いてきたのです。行くところも帰るところもない身でございます。どうか家に入れてくださいませんか」
家のおかみさんは狐が化けた娘を見て、
「おかわいそうに。ただ人ではないお姿ではありませんか、よくここまでいらしたものですね。私を母だと思ってここで暮らしなさいな。ちょうど娘がほしかったのですよ」
「そう言ってくださいますか。ありがとうございます。行くあてもないのでうれしい限りです」
おかみさんは大変喜んで、娘を家に迎え入れてかわいがりました。こんな器量の良い娘ならどれほどよい相手を見つけられることかと、いろいろな縁談話を持ちかけます。しかし当の娘はどんな相手にも打ち解ける気配もなく、時々こっそり涙ぐんでなどいます。
おかみさんが「見初めた相手がいますなら、隠さずに教えてくださいな」と話しかけると、娘は涙をぬぐいながらかぶりを振って、そんなことは考えたこともありません、寄る辺ない身でございますから、と言いました。
「誰かと結婚するなどよりも、例えば美しい姫君のような、私はそういう方にお仕えしたいのです。どうか私を宮仕えに出してください」
おかみさんは「いい人と結婚しなさいな」と常日ごろから言っていたのだけれど、そう思うのなら仕方ない、娘の意思を尊重しようと肚を決めました。
「それなら美しく心優しい姫君が高柳の御殿にいらっしゃいます。私の妹がその方に仕えているので、話を通してもらいましょう。安心してお話しなさい、きっと聞いてもらえますから」
娘はそれを聞いてうれしがりました。
そうするうちにかの妹がやってきました。娘が宮仕えしたい旨を伝えると、その通りに話してごらんなさいと言って姫君の乳母の元に連れて行ってくれました。乳母に姫着に澪仕えしたいのですと告げると、
「それならすぐにおいでなさい」
喜んで身支度をし、参上した娘はすぐ姫君に気に入られました。愛らしい容姿から玉水の前という名をもらい、姫君の遊び相手として朝も夜もおそばに付き従います。お手洗いの時にも食事の時にも、姫君は玉水を呼んでそばに置かせるのでした。しまいには寝るときにも、乳母子の月冴と同じように姫君の袖の下で眠るようになりました。
四六時中そばにいるうち、姫君は玉水が犬を怖がることに気が付きました。庭に犬でもやってくれば顔色を変え、鳥肌を立てて固まってしまいます。食べ物ものどを通らない様子で尋常でなくおびえているので、姫君は心を痛め、御所中に犬を置かせないようにしました。怖がり方が異様で気味が悪い、姫君のご寵愛を受けているのが妬ましいなどと、陰口をたたく人も出るほどでした。
こうして日々を過ごすうち、いつの間にか五月の中旬になっていました。満月の夜、姫君が簾の近くに腰かけて曇りのない月を眺めています。その前をどこからか飛んできたホトトギスが行き過ぎていきました。
ほととぎす 君は下界で何を鳴く
姫君がそうおっしゃったので、玉水はすかさず、
心に秘めた深い思いか
と返し、続けざまに「私のように」とつぶやきます。口の中でもごもごと言っただけのことでしたが、姫君はそれを聞きとがめて、
「何か内緒にしていることがあるでしょ、恋の話? 人への恨み言? 怪しいわねえ」
と問いただします。玉水に向かって、
五月雨の時季も 雪色のほととぎす 彼の恋の色知っているかい
玉水はすかさず、
思い有ってここに降り来たほととぎす いったいいつまで鳴けばいいのか
言い切った後そっと表情をうかがってみましたが、姫君はとんと気が付いていない様子で空を眺めています。黒い瞳に輝く月が映っていました。
月冴はそうしてじゃれあう二人を横目に見ながら、
闇に溶ける山の端から出る月よりも夜闇に残る鳥の一声
三人はこうして歌を詠み交し、やがて夜も更けてきたので部屋の奥へお入りになりました。しかし玉水は月がまだ出ているからとその場にとどまっています。
来し方も行く末もろくなものではないけれど、とりあえず今はこうしてお姫さまのそばにいられる。しかし――私はいったいいつまでこうしている気なのだろう。これから先どうなるのだろうか。
知らぬ間に目から涙がこぼれ出て、袖を濡らしてゆきます。
不思議にも稲荷の山は今遠く 同じくはるかな月を眺める
思い有ってここに降り来た 望月のそばにいながら光届かぬ
止まらない恋の涙をせき止めて とっくに私はおぼれているのに
玉水の戻りが遅いことを心配した月冴がそばへ歩み寄り、玉水の歌う声を聞いて足を止めました。いぶかしんでしばらくじっと聞いていた月冴ですが、玉水の声が途切れた瞬間を狙ってこう詠みかけました。
知らずとも つらく聞こえる君の恋 胸の内にはいったい誰が
姫君はこれを聞いて、
知らぬまま 聞かぬままいるが人の道 この身に習ったわけではないけど
もう夜が明けてしまうわ、お入りなさいとおっしゃるその声に玉水は泣く泣く帰ってきました。月冴とともに姫君のそばで眠りについたものの、言えない気持ちをため込みすぎたのか、ちっとも寝付けませんでした。
月はやがて沈み、戻ってきた日常は変わらず過ぎて行って、外は八月になっていました。今年初めての雁の声が玉水の胸に沁みます。あの声を聴くとなぜだか胸が痛くなってしまうのでした。育ての親であるおかみさんからはこまめに連絡があって、実の親子よりもかわいがってもらっています。普段着る服のほかに、鮮やかに見目良く仕上げた着物を送ってくれました。手紙にも、「時々は顔を出してくださいな。私は本当の親ではないから、寝るたびごとにお前のことを思ってはやるせなくなるのですよ」と恨み言が書いてあります。玉水が「私も朝を迎えては不安な気持ちになっています。本当の親ではないからなどと言わないでください、聞くだけでつらくなるので」などと書いて返すと、里の家ではおかみさんがそうでしょうそうでしょうつらかろうにと言って泣くのでした。
三年の月日がたち、十月、姫君と親交のある人々がたくさん集まって紅葉合を行うことになりました。もみじの見事に紅葉した枝をそれぞれもってきて、美しさを競い合うのです。紅葉合が翌日に迫り、人々が葉の多く染まりようが美しい枝を探す中、玉水は夜中にそっと部屋を抜け出して狐の姿に戻りました。鳥羽殿の南側の丘に、兄弟の狐が暮らしています。彼らを訪ねて行くと、兄弟はよろこんで
「三年もいったいどうしていたんだい、てっきり君はもう死んだものと思っていたよ」
「ちょっとこの辺で暮らしていたので。その、大事なお願いがあって来ました。明日重要な催しごとがあるの。そのために、なんとしても美しい紅葉の枝を探しだしてほしいのです」
兄弟狐は眼を細めていいました。
「お安いご用だよ。ここら一帯は知り尽くしているんだから」
「ありがとうございます。高柳の御所の南の対の隅に枝を置いておいて」
「それはいいけど、あそこには犬がいるだろう?」
玉水は一瞬不意を突かれた顔をしましたが、すぐにうち微笑み、心なしか頬を染めて答えました。
「犬はいないの。安心してください」
戻ってきた玉水を姫君と月冴が迎えます。
「何やらおかしな様子だこと、一体どちらにいらしたのかしら?」
と姫君がいたずらっぽく問えば、
「不思議の殿方と逢引きでございます」玉水が笑って答えます。
「本当かもしれませんよ、ずいぶん長い間かかったようですから」
「そうだとしたら嫉妬しちゃうわ。そんな相手がいるのなら、私はそのうち玉水に捨てられてしまうでしょうね」
「ご冗談を。どんなものが相手でも、あなたさまのおそばを離れてまで添い遂げたいとは思いませんのに」
「さて、どうかしらね」
くすくすと笑いながらじゃれる姫君を眺めて玉水は、また胸の奥に締め付けられるような痛みを覚えるのでした。
さて例の兄弟は、山の中で紅葉を探していました。するとすぐに年の近い弟が五寸ほどの枝を見つけました。枝についた紅葉葉の色は五色、それぞれに法華経の文字を摺ってあります。あくる日の昼過ぎに枝を取りに来た玉水は、磨き上げたかのように色鮮やかな紅葉の枝をみて感嘆のため息を漏らしました。献上すると、姫君も目を奪われた様子です。
「きれいな紅葉ね、これほど美しいものは見たことがないわ」
「外からも様々な枝が集められたと聞きますが、この枝にかなうものはないでしょう。さあ、この紅葉に歌をお詠みになってください」
「私が詠んでもあなたが詠んでも変わらないわね。玉水、詠んで頂戴」
玉水はあっけにとられて姫君を見つめ返しました。
「いえ、お姫さまがお詠みあそばすことが大切なのではないかと……」
姫君が聞く耳を持たないので、玉水は仕方がない、と思い切って筆をとりました。
「でしたら歌を書いてお見せします。その中から少しはましな歌を選んで、手直しをしてくださいませ」
姫君の父母もその紅葉を見に訪れては、感心して去っていきました。玉水は何とか歌を詠み終えて姫君に差し上げました。姫君はそのどれも素晴らしいといたく褒めます。五つの枝にそれぞれ歌を結びつけることになりました。
まだ青さが残る葉に、
もみぢ葉の今はみどりになりにけり 幾千代までも尽きぬためしに
黄色い葉に、
もみぢ葉の色は黄色に移り行く 人の心は移らぬままに
赤い葉に、
紅に何度この葉を浸したら これほどまでの赤になるのか
白い葉に、
野や山が真白く染まるそのときも この葉の色はきっと変わらぬ
紫の葉に、
残りの葉には姫君がお詠みになった歌を結びつけました。
いよいよ今日は紅葉合の日です。それぞれ色鮮やかな紅葉の枝を持った人々がやってきては、工夫を凝らして歌を詠みかわしました。言葉にできないほど美しい紅葉、技巧を凝らした歌が次から次へ現れますが、姫君の紅葉にかなうものはありません。互いの紅葉を比べ合わせること五回、とうとう姫君に勝るものはありませんでした。
このことは帝の御耳にも入りました。帝のお召しで紅葉を奉ります。それをご覧になった帝は、紅葉だけでなく姫君もこの目にかけたいものだとお思いになりました。かくして姫君の元に、宮中に参るようにという仰せが舞い込んだのです。
「ありがたい仰せでございますが、姫を宮中に差し上げるにはそれなりの費用もかかりますから」
姫君の父である高柳がそう申し上げると、帝はすぐに三か所の土地をお与えになりました。姫君を宮仕えに出すことはかねてからの願いでもあります。父も母も大変喜びました。出仕の用意を素晴らしく整え、お手柄である玉水には津の国のかく田という土地を与えました。これは姫君の持参金の一部です。
「私は身寄りのない者ですから。あわれと思って恵んでくださるのはうれしゅうございますが、このようなものは受け取れません」
玉水は繰り返し繰り返しそう申し上げましたが、認めてもらえなかったために仕方なくおしいただくことにしました。里に残してきたおかみさん夫婦に預けると、二人そろって喜びました。
あるときのこと、おかみさんが物の怪に取りつかれ臥せっているという知らせが入りました。さまさまに祈祷をしても、月日が過ぎるほどに重くなる病状をくい止めることができません。夫や息子たちがそれぞれあつまって看病しているとおかみさんがこういいます。
「宮仕えに出したあの子にもう一度お会いしたいものですねえ。ああ、あの顔を見れば気分もよくなりそうだ」
玉水にもこのことが伝わりました。そこでしばしのお暇をもらい、顔を見せに行くと、おかみさんはそれはそれは喜びました。
「前世でどのような因縁があったのでしょう、朝も夜もお前のことを思っては心苦しく、宮仕えもいつまでかともどかしくなるのですよ。お前の顔を見て少しは心も休まりました、ありがとう。思いがけずこんな病にかかってしまったからには私ももう長くないでしょうが、ただ一つの心残りはお前を後に残していくことです」
やつれやせ細った手を差し出し、玉水をなでては泣くので、周りの看病人も何も言えずただ泣くばかりでした。玉水が絶えずそばに付いているので息子たちも休む暇ができ、ようやく一息つきました。
おかみさんは少しでも落ち着いているときには心細げなことなどを話し、そうかと思えば物の怪がついた様子を見せて狂いました。落ち着いている時にようやっと言ったことは、
「この様子なら、私はもうすぐ死んでしまうでしょうね。私までいなくなって、お前はいったいどうなるのでしょう。母からもらって大事にしてきた鏡があります。それを形見に差し上げましょう」
それが済むと、さあ、もうお戻りと言って玉水を帰そうとします。見捨てて帰ることなどできずに一日二日ととどまって、もう三日になりました。姫君から手紙が来ています。
「お母さまが苦しんでおられるよう、苦しいことでしょう。もう大丈夫そうならば帰っておいで。いったいどうしているのか、お前が心配で私の心も暗くなってしまいます
年の風に母は吹かれて 葉は落ちて残るこずえはどうなることか」
ちょうど容体がよかったおかみさんにこれを見せると、
「ここまで思ってくださる方がいるとは。お前を宮仕えに出さなければこうして認められることもなかったでしょう。実の子よりもかわいい子だまったく」
手紙には月冴の言葉もあります。
「初花のつぼめる色のくるしきに いかに木の葉の色をみきくに」
このような温かい言葉を見ても、玉水の心は晴れませんでした。浮かぬ心で筆をとり、
「温かいお言葉、本当にうれしゅうございます。お礼のお手紙を差し上げようにもうまく言葉が出てまいりません。姫君のことが心に浮かばない日はなく、はやくあなた様の元に参上したいと思っておりますが、母のことを見捨ておくわけにはいきません。容体がよくなりしだいそちらへまいります」
姫君への返歌に
「散りそうな古木の花が落ちたなら こずえもいつか朽ちるでしょうか」
月冴への返歌に
「守り木の桜朽ち果て滅ぶとき つぼみも褪せて色は残らじ」
などと書いて姫君に差し上げるのでした。
そんな折におかみさんに物の怪の発作が起こったのでみな集まって心配し、各々世話を焼いていました。どうにか様子もよくなっておかみさんは寝息を立て始めます。緊張の糸が緩んだみなは一休みしました。
夜が静かに更けていく中、玉水一人がおかみさんの枕もとでまんじりともせずに座っています。そこに、体中の毛が裸に禿げた古狐が現れました。変わり果てた姿でしたが、その狐が玉水の父方の叔父であることに玉水は気がつきました。
玉水は古狐を追い払います。狐が遠ざかると、おかみさんの息遣いがすこし楽になったようでした。古狐と玉水は目を合わせて互いに問います。
「これは不思議なことだ、どうしてお前が」
「それは私の言葉です、叔父上」
玉水は続けて、
「お願いでございます。いささかわけがあって、この病人に実の親にまさるほどの恩があるのです。どうかここから立ち去って、この者の苦しみを止めてください」
「それは無理な話だ。お前がかばうその病人の父はね、私の子を殺したのだよ」
古狐の眼は暗く燃えていました。
「私が手塩にかけて育てた子だ。殺されるような咎は何もなかった。それなのにわが子の命をたやすく奪った、あの人間に何とか思い知らせてやりたいと思ったんだ。それならば」
古狐の眼が布団で苦しげに寝息を立てるおかみさんのほうを向きます。
「同じように愛する娘を殺してやるのが道理だろう」
玉水は必死で訴えかけました。
「おっしゃることはわかります。しかし、仏様の教えは知っておいででしょう。私たちがなす業は私たちに跳ね返ってきます。このとおり私たちは卑しい獣です。前世の宿業のせいでしょうか、私もずっとこの運命を呪っておりました。それでも」
玉水の声が静かな家に響きます。
「それでも正しい道に背かず善行を積み重ねていたら、次の世こそは人の体を得られないわけがありましょうか。それに人は仏様の骸なのですから、この者だって間違いがなければ次は仏になる身なのです。何度もあるわけではない人生、一つの恨み言に引かれてすぐにこの者をとり殺してしまったら、その罪は大きいことでしょう。それだけでなく多くの家族が悲しみます。その報いがあなたに返れば、猟師の手にかかってしまうか、でなければ三途の川の向こうに追い返されてしまいましょう。そんなこと、やりきれないとは思いませんか。どうか、そういうわけですから立ち退いておかみさんを助けてください」
古狐は目をぎょろりと剥いてまくしたてました。
「人が世に生れるのも仏の教えによるものだ。人が死ぬのも仏のみわざだ。それならばこの世の人が私の恨みを買って取り殺されようとも、それは私の罪ではない。
過去の尊い御門でも、前世の業は免れなかったという。又播磨の書寫に住んでいた大蛇は、雀の子を助けてやったことから次の世は天皇の后にまでなったという。ならば今悪念を払い菩提心を起し、どんな罪人もお導きになる阿弥陀にすがり申し上げれば、次の世はなるほど保証されるだろう。しかしお前も獣、私も畜生の類なのだ。つまりは私もお前も過去になした罪によってこの姿に落ちた身なのに、お前はその説教で何をなそうというのか」
若い狐である玉水はこう返しました。
「その理屈はよくわかります。しかし今は、子の仇を取ればすなわち悪、この者を助ければすなわち善なのです。よいか悪いかを決めるのは、殺すかどうかではありません、その怨念を持ち続けるかどうかです。いま敵討ちをあきらめその怨念を捨てれば、次の世に仏になることさえも可能でしょう。しかしそのままでいては仏様のお導きにもすがれません。それをわかっていらっしゃいますか」
すると古狐は瞑目して打ち頷き、
「こうしてここでお前に会ったのは幸運だった。その通り、この者を殺しても愛しい我が子は戻らない。私は山にこもるよ、後の弔いは頼まれてくれ」
古狐の姿は遠くなりやがて消えてゆきました。それに合わせておかみさんの容態もよくなっていきます。夢うつつながらおかみさんは、玉水が誰か人と話していると思ったようでした。病状が快方に向かう中、玉水はあの古狐のことを話しました。そしておかみさんの父が射殺した狐の子を厚く弔い、様々に供養をしてやったのでした。
ほっとした気持ちで姫君の御所に帰るころ、あたりは十一月になっていました。姫君が帝に嫁ぐための儀式は目を見張るほど立派です。女房は三十人、中でも玉水を一の女房として取り立ててくださいました。しかし玉水はこれをうれしいとも思えずにずっと沈んでいます。姫君はいぶかしんで玉水に声をかけましたが、玉水は風邪気味だなどと言ってごまかすだけなのでした。
「いったいどうしたの。私は玉水のことなら何でも知って助けたいのに、どうして隠してしまうの。慰みにでも話してちょうだい」
玉水は涙ぐみながら、
「いつかはお知らせしなければなりませんが、今はどうしてもお話ししたくありません。私が死んだ後にでも、あわれと思ってくださればそれで結構です」
姫君はますます心苦しく思いましたが、なすすべもないのでした。
姫君の婚姻の儀式はますます近づいていきます。玉水はつくづくと思い悩みました。
獣の身ゆえに姫君と契ることもできず、このままずっと誰かの下で幸せになっていくお姿を見るしかないのか。それで心を慰めるのはあまりに果てしなく辛いことだともうわかってしまった。姫君にはきちんとお知らせしなければ。しかし今まで知らせてこなかったのだ。恐ろしがられてしまうかもしれない。
あれこれと考えをめぐらしたのち、玉水は近々催される御内参りの折にふっと姿を消してしまうことにしました。考えてみれば今まで正体がばれなかったのも不思議なことだと考えつつ、風邪を理由に自分の部屋に閉じこもって手紙をしたためます。はじめから抱いていた恋心、今までのこと、書くことはたくさんありました。
手紙を小箱に入れて姫君の元に持って行き、
「どうなるとも知れない世の中が味気なく、頼りにならぬはかない物に思えて近頃ひどく物憂く思われるのです。夜のうちにでも消えてしまいそうな気がして、この箱を差し上げることにいたしました。私がもう戻らないと分かった後に、この箱をご覧ください」
さめざめと泣きながらそう申し上げるので、姫君は不審に思い、
「いったいどうしてそんなことを言うの。ねえ玉水、いつまでもそばで私の行く先を見届けてくれるのではなかったの?」
そう恨み言をおっしゃいますと、
「もちろん儀式にはお供いたします。もし万が一何か起こったらという不安からこのようなことはするのでございます。儀式の際は人目も多く、この箱を渡す暇がないのではと思いまして」
玉水はそういってはぐらかしました。そして、
「この箱はとても大切なものだと思ってくださいまし。そしてほかの誰にも、月冴にもお見せにならないでください。姫君がお歳を重ね、この世に未練がなくなったときにでも開けていただきたいのです」
姫君の目にも涙が浮かんでいました。
「いつまでもそばにいるという意味、玉水は本当にわかっているのかしら。そんな先のことを話すあなたが怖くてたまらないわ。私はその時まであなたといたいのに」
そうは言いつつも、姫君はしっかりとその箱を受け取りました。あとはお互い声も出なくなって、ともにむせび泣いていたのでした。
月冴もやってきてあたりが忙しくなり始めたので、玉水はごまかしながらその場を去りました。姫君は箱をそっとお隠しになりました。
玉水は儀式の準備に紛れ、車に乗ると言ってどこへともなく消えました。高柳の宰相は帝の元へ姫君に付き添っていったのだと思い、人々は里に残ったのだろうと考えました。玉水が宮中の居心地悪さを嫌っていたことを皆知っていたのです。姫君はそのことを残念に思っていました。二、三日過ぎて玉水がどこにもいないと発覚したため玉水の親の家を探させ、しかしそれでも見つからないまま五日十日と過ぎてゆきます。いくら何でもそろそろ帰っておいで、どこからでも出ておいでと待ち続けますが、玉水は一向に出てきません。心配で、めでたいはずの姫君の胸の内は嘆きでいっぱいでした。女房達も口々に嘆きと心配を言い交します。何事につけても、玉水の存在が強くしのばれるのでした。高柳の宰相は中納言に昇進しましたが、名高い玉水のことがやはり心配に思われました。
姫君はずっと箱の中を見たがっていましたが、帝に離してもらえず暇がないまま暮らしていました。そんな折に官庁への御幸があり、今が絶好の機会だと開けてご覧になってみたところ、玉水のことが始めから終わりまでつらつらと書き連ねてあるのを目にしました。
姫君は息をのみました。自分のために侍女に化け、恋心をおくびにも出さずそばに控えていた狐。獣の身ながらいかに切なく、苦しかったことか。それでもここまで勤め上げた狐の、玉水の思いを考えるほどに涙があふれてきました。
手紙が書かれた巻物の奥には長歌が添えてありました。
束の間も 去り難かりし 我がすみか
君を逢ひ見て その後は 静心なく
あこがれて うはの空にも 迷ひつゝ
はかなき物は 数ならぬ 憂き身なりける
物ゆゑに すゞろに身をば つくし舟
漕ぎ渡れども 晴れやらで 浪に漂ふ
篠蟹の 糸筋よりも 微かにて
過ぎし月日を 数ふれば 唯夢とのみ
成りにけり 我が身一つは 如何にせん
君さへ長き 恨みをば 負ひなん事の
由なさよ 朝夕 君を見る事も
身の類ぞと 慰めて 夢現とも
別き難く 明し暮しつ 面影を
何時の世までも 変らじと 思ひ明石の
浦に出て 潮干の貝も 拾ふかな
蜑の焚く藻の 夕けぶり 棚引く方も
なつかしや 島伝ひして みるめ刈る
蜑の子どもに 有らねども 乾く間もなき
袖の上に 訪ひ来る風も ほしかねて
靡く気色を 余所に見て 思ひ知られぬ
身の程も 遂に甲斐なき 心地して
たゞ一筆を すさみ置く 玉章ばかり
身に添へて 長き思ひの しるしぞと
常に弔ふ 心あらば 後の世までの
掛橋と なりても君を 守りてむ
斯かる憂き身を 人知れず とぶらはしとは
をののやま またたついなや 花に出でて
また例なき たぐひをも 思ひ出でよの
心にて 只書きすさむ 水茎の
岩根をいづる 山川の 谷水よりも
処狭き 袂の露を 君は知らじな
色に出て言はぬ思ひの哀れをも
此の言の葉に思ひ知らなむ
・・・・・・・・・・・・・・
濁りなき世に君を守らむ
このような長歌の後に二種の歌を書きつけて、
「この箱は人に開けさせてはいけません。年をとっても夫への愛が増すことを願ってあなたへ奉ります。この世を見限り、出家しようと思った時などに開けてご覧ください」
とこまごまと注意が書いてありました。
姫君はいつまでも手紙を見つめています。月を見上げた晩や、紅葉合の玉水の手柄を思い出しました。病床の母を気に掛ける手紙のやり取りはついさっきのことのようです。自分になついた美しい侍女の娘のことを、その裏でつらい恋に身を焦がれていた一匹の狐のことを思いました。その次に玉水のことを考えようとしたとき、姫君は思わず目を伏せました。
やがて眼を上げ、どこにいるとも知れぬ玉水にあわれな愛しい子、とつぶやいたのでした。
獣の身にやさしい心を宿した、あわれな狐のお話でした。
(御伽草子『玉水物語』より。逐語訳ではなく、編集・省略・つけたしが含まれている可能性があります。)