見出し画像

蛍の光


私が子供の頃、蛍が見ることができる場所というのはかなり限られていた。
蛍と言えば、私の記憶では「水が澄んでいる小川や池などがある場所の近くで見られる」という認識だった。

私の出身地はそこまで都心から離れてはいないものの、自然が多く若干の田舎っぽさが残る街だった。普通に家の近くに畑や林が点在していた。なんなら自動精米所もあった(これは田舎の象徴だと思ってしまっている自分がいる)。

そんな街には●●谷戸という場所があり、夏にはそこで蛍が見られるという話を子供の頃に伝え聞いていた。谷戸、というのは小さな山や丘が続く緩やかな谷のことを指す。確かに自然溢れる場所で、湧水による小川や人の手があまり入っていないであろう草むらが多く在る場所だったことを今でも覚えている。

小学生の頃、ゲームもそこまで買い与えられていない頃はやはり外で遊ぶのが主流だったため、時たまその●●谷戸へとチャリンコを走らせることがあった。夏以外の季節でも、やはり自然が生い茂る場所は子供の遊び場として最適だったと思う。とはいえ、私は虫が大嫌いだったのでそこまで乗り気ではなかったが、友達がみんなして行くもんだから着いていかざるを得なかったという実情がある。


さて、ある夏の日のこと。夏休み中で遊び呆けていた私は、大抵決まったメンバーで昼過ぎに近所の公演に集合していた。多いときは私を含めて6人、少なくても3人は集まっていたと思う。その日は珍しく6人揃っていた。

メンバーの一人、T君が●●谷戸に行かないかと言い出した。私は若干嫌だった。先述した通りの理由だが、加えて夏場は虫が多い。T君は虫が大好きだったので、そりゃあ天国のような話かもしれないが…。私は特に同意も否定もせず押し黙っていたが、他のメンバーであるY君がこんなことを呟いた。

「今日天気も良いし、夜は蛍が見られるかもね」

私はそれまでに蛍を生で見たことが無かったので、その謳い文句には妙に心惹かれた。蛍も虫ではあるが、やはり見たことないものに関しては興味をそそられてしまう。それに、シンプルに綺麗なものを見たいという気持ちが強かったのかもしれない。

とはいえ、夜まで待たなければいけないとなるとメンバーの中には難しい人もいるわけで、結局夜に蛍を見に行く作戦を実行できるのはT君とY君、そして私だけだった。他の3人とは普通に鬼ごっこや缶蹴りなんかをして夕方まで遊び、解散した。

●●谷戸は私たちが住む街の少し外れにあったので、各々が一度帰宅してチャリンコを取ってから現地集合となった。親にも伝えたが、Y君やT君が一緒なら、と特に心配もしていない様子で送り出された。


そうして私たち3人は夜に●●谷戸に集合し、蛍を探し始めた。辺りはとても静かで、虫の鳴き声と川のせせらぎがダイレクトで耳に届くのみだった。騒いだら蛍が何処かへ行ってしまうのでは、と思っていたので3人ともひっそりと捜索していた。

どのくらい経ったかわからないが、だいぶ探しても蛍は見当たらなかった。それこそ小川の近くをくまなく探していたけれど、光るような物体は見つけられなかった。一度●●谷戸の入り口まで戻り、3人でこの後どうするかを話し合った。Y君はもういいや、と言って帰ることを提案してきた。T君はどうも諦められなそうで、沈黙していた。私はというと、T君寄りだった。もう少し粘ってみたいと思っていた。しかし、Y君が帰るのであれば…と心は揺らいでいた。

T君は半ば強引に「俺はもう少し探してみる」と言い放って、一人で真っ暗な●●谷戸の奥へと入っていってしまった。Y君は呆れた顔で、「僕はもう帰るね」と言ってチャリンコに跨り、帰路へと着いた。

私は取り残されてしまった。とはいえ、結構なビビりな私は改めてとんでもなく真っ暗な●●谷戸を見て尻込みしてしまった。今のようにスマホを持っているわけでもないのでライトで照らせるわけでもない。肉眼をどうにか暗闇に慣らして…とは思えど、さすがに暗すぎる。さっきまでこの中に自分がいたとは思えない。

だが、現状としてT君は●●谷戸の中へ入っていってしまった。それも少し心配だった。ミイラ取りがミイラに、ということまで私の頭は及ばなかった。恐る恐る、私は暗闇の●●谷戸へと改めて足を踏み入れた。


先ほど辿ったはずの道でさえ、舗装されているわけではないのでイマイチわからない。牛歩の如く足を進めていくと、人影らしきものとその気配を感じた。T君だと思い、声をかける。すると、明らかに子供の声ではない低い声がした。

「子供か?」

私の体は硬直して動かなくなった。まるで金縛りの如く。
T君ではない、誰か。いったい何者なのか、視覚情報が全く無い中で、こちらに近づいてくる足音がする。恐怖が全身にまとわりついて離れない。汗という汗が全身から噴き出しているのがわかる。
その影は私の顔の近くまで来た。幾分かこの暗闇に目が慣れてきているはずなのに、相手の顔は全くわからない。顔らしきものが私の顔の近くに来ている。

「ここで何か見たか?」

影は私に迫りながら、地を這うような低い声で問いかける。私は勢いよく首を振りながら、カラカラの喉を絞って「見てない、蛍、見てない」と返した。影が小さな声で、蛍?と呟いたように聞こえた。

10秒ほどだろうか、とはいえ私には1時間にも2時間にも感じるような沈黙が流れた後、影は踵を返して暗闇の中へと戻っていった。束の間の安息かと思われたその時、足音がぴたりと止んで先ほどよりも強く深い声が私に向けられた。

「今すぐにここから出ていけ、戻ってくるな、全て忘れろ」

そう言うと、影は見えなくなるまで奥へと消えていった。気配がしなくなって、私はやっとまともに呼吸をすることが許された。その場にしゃがみ込み、数分は立てなかった。何とか気を持ち直して、来た道を急いで戻った。


●●谷戸の入り口にはT君がいた。青ざめた私の顔を見て、凄く心配そうに声をかけてきた。どうやら、T君はあの影とは出会っていないらしい。取り急ぎ二人とも足早にその場を去ることにした。

「光ってはいたけど…多分あれは蛍じゃないな。だって光が強すぎたし、白い光だった気がする。懐中電灯みたいな…」

帰り道で、T君は私にぶつぶつと不満げにそう漏らしていた。私はその話を聞きながら若干身震いしていた。それが懐中電灯で、持っていたのがあの影だとしたら…影は何かを探していたのだろうか?蛍を探していたのだとしたら、あんな反応はしないはずだろう。

T君はわざわざ私を気遣って家の近くまで送ってくれた。別れ際に、T君は街頭に照らされた私を見て驚いた顔で、「怪我でもしたの!?」と私の足元を指さした。私は転んだり怪我などしてはいなかったが、

右足の靴とズボンの裾が赤黒い血のような色で染まっていた。


それから、あの●●谷戸には入っていない。
今はどうなっているのかも知らない。

あれが血だったのかどうかも知らない。親には言わず、靴もズボンも捨てた。ただ、捨てる前に嗅いだ匂いからは鉄のような匂いがしたことを今でも覚えている。

いいなと思ったら応援しよう!