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たったひとりの


科学の進歩ってやつは、僕らを豊かにしてくれる。
ただ、時には残酷な選択肢を与えることだってある。


***


『―――、というわけで、世界で急速に普及し始めている”部分的記憶の削除”についてですが、日本でも今回のケースのように希望者は増え続けており…』

出社前、焦げかけたトーストにジャムを塗りながら朝のニュースを流し見している。専ら最近この手のニュースが増えた。ネットニュースでも、見出しは軒並みこの記憶の削除とかいうやつだ。

私もざっくりしか知らないが、科学的技術の進歩で人間の脳の研究がここ最近格段に進んだようで、実際何がどうやってなのかは全く知らないが人の記憶を一部削除することが出来るようになったらしい。

初めて聞いた時は、にわかには信じがたい話だった。ただ、現実としては急速に世界的な普及を見せているらしく、日本もここ半年くらいで既に何件か手術が成功しているらしい。

そんな中でこうやってマスメディアが問題として取り上げているのは、”リスク”と”非人道的行為”の2つについてのようだ。前者については、もちろん手術は100%の保証があるわけもなく、手術後にほぼすべての記憶を失ってしまった人もいるんだとか。それに加え、手術に伴う金額も庶民では手の届かないものだ。今のところ、相当な物好きしか手を出しはしないだろう。

後者の問題はさらに根深い。科学がいくら発達したからと言って、人間の記憶を改ざん出来るようになってしまっていいのかという議論が毎日のようにどこかしらで交わされている。確かに、実際に手術できるところまでこぎつけられているだけでも恐ろしい話なのではないかと思うほどではある。


「おはよう」

制服姿の娘がリビングに入って、静かに食卓に座った。テレビには目も向けず、スマホをいじりながらトーストをかじる。食事中にスマホをいじるのはお行儀が悪い、などとは今口が裂けても言えない。全くもって、関係は良好とはいえない。

現在、この家は私と娘の有希の2人しか暮らしていない。妻の真希が亡くなってからもう6年が経とうとしている。小学生だった有希は、高校2年生になった。中学に上がったくらいから、有希はほとんど私と口を利かなくなった。理由はわかっている。それは妻である真希の死因に関わっている。

妻がパート終わりで私を駅まで車で迎えに来てくれた際、その途中で交通事故に遭ったのだった。普段は私を迎えに来ることなど無かった。その日は偶然、酔っぱらった私がワガママを言って来てもらっていたのだ。有希は、「パパのせいでママは死んだ」と強く私を非難した。返す言葉などあるはずが無かった。次第に父娘の関係に溝が出来、思春期も相まって言葉を交わすことはほとんど無くなった。

何か話しかける取っ掛かりさえあれば、といつも思ってはいるのだが、なかなか重い腰を上げられずに有希はもう高校生になってしまった。まだ、おはようとおやすみくらいは律義に言ってくれていることをありがたく感じるべきだろうかと思いつつ、視線をテレビに戻した。


「私も、記憶消せたらいいのにな」

有希の言葉に、私の身体はひどく硬直した。それと同時に、見て見ぬふりを続けてきた心の奥底にある自責の念が、喉元まで湧き上がってきた。それをコーヒーで押し戻してやろうとしたが、そんなことをしたらすべて吐き出してしまいそうだ。目線をスマホからは一向に動かそうとしない有希を上手く見ることもできず、そそくさとテレビを消して食器を片付けようとキッチンへ向かおうとした。


「パパはいつも逃げてばっかり、もううんざりだよ」

「有希」

振り向いて放った声の先に、もう有希はいなかった。少し遅れて、玄関の扉が鈍く開く音がした。食器を持ったまま、私は佇むことしかできなかった。


出社してからもずっと、上の空だった。何も娘にしてやれていない6年間、妻の死とまともに向き合わないまま、ただ息を吸って吐いているだけの無様な生き物だった。娘にとって、私はもはや父ではなく憎しみの対象でしかないのだとしたら、一体どの面を下げてあの家で暮らしていればいいのだろうか。

「課長、取引先の方がお見えです」
「…ああ、すまない、今行く」

懇意にしている取引先との打ち合わせすら、すっかり忘れていた。重い足取りで、会議室へ向かう。その後の打ち合わせも、全く内容が頭には入ってこなかった。途中の雑談で、急に先方が記憶削除の手術について話し始めたところで、ふと我に返った。

「―――、そういえばこの記憶削除できる手術のモニターを秘密裏に募集してるらしくて」

「えっ」

思わず声を出してしまい、その場の視線を集めてしまった。すいません、と謝るも、先方は私が興味があるのではと勘繰ったようで、別れ際に一枚の名刺を手渡してきた。

「この手術をしている医師が私の遠い親戚でして。ご興味があればぜひ連絡してみてください。…ここだけでの話ですので」

してやったり、みたいな顔で先方は去っていった。その名刺を眺めながら、私は色んな可能性を考えていた。娘が望むなら、私という存在の記憶を消してやったほうがいいのだろうか。なんなら、私たち夫婦の娘だという記憶を消して、誰かに養子として引き取ってもらったほうがよっぽど幸せなんじゃないか。今朝の有希の言葉を、改めて胸の中で反芻した。あの子のためになることしてやらないと、そう考え始めていた。


帰宅すると、玄関には有希の靴があった。確かこのローファーは、中学の頃に買ったものだ。流石に年季が入っていて、少しはげている部分もある。どうせ足は大きくなるからと、少し大きめで長持ちしそうなものを買ったが、本当なら高校に入るときに買い替えてやるべきだった。

昨晩作り置きしておいたカレーを温め、並行してお風呂にお湯を張りながら私はずっと有希に何と言えばいいか考えていた。優柔不断な私ではあるが、今朝のこともありどうしても今日有希と向き合って話をしなければと思っていた。夕飯の食卓に着いた時には、絶対に私から話そうとは心に決めていた。

「ご飯、出来たぞ。カレーだ」

2階の部屋にいるであろう有希を呼ぶ。返事はないが、静かに扉の開く音がした。ゆっくり階段を下りてくる。私の心拍数は次第に鳴りを強めていく。有希がリビングに入り、いつも通り椅子に座った。やはりまだ、顔を上手く見ることが出来ない。しかし、言うと決めたんだ。いただきます、の前に私は声を絞り出した。

「有希、あの」

「パパ、今朝」

ほぼ同時に、有希と言葉が重なった。何と言ったか全くわからなかった。お互い俯いて、沈黙が流れる。有希が先に、何?と私に主導権を渡してきた。今は譲り返す余裕もなく、何度か咳ばらいをして話し始める。

「有希。…朝に言われたことを今日ずっと考えてたんだ。真希、ママが亡くなってから俺はずっと逃げてばっかりだった。有希ともママとも向き合ってこれていなかった。父親として、失格だ」

有希は何も言わず、じっと私の目を見据えている。娘の顔が見れない父とは、まるで違う。

「今日ニュースでもやってた記憶の話…あっただろ。知り合いのツテで、もしかしたらあの手術を受けられるかもって、実はそんな話があってな。もし…有希が望むなら、そういう選択肢もあるのかなって思った」

その時の私にはわかっていなかったが、有希は小さく震えていた。母譲りのかわいらしい大きな目にはうっすらと涙が溜まっていた。

「高校生とはいえ、もう有希も十分大人になった。俺という存在がただのストレスになるんだったら、いっそ―――」

話の途中で、有希は私の顔にコップの水をぶちまけた。今まで見たことがないような、怒りと悲しみに満ち溢れて涙を流す娘の姿があった。


「そうやってパパはまた逃げてるんだよ、分からないの?いくら記憶を消したって、私がパパの子供なことは変わらないんだよ」

濡れた顔も拭かず、ただただ見つめることしかできなかった。本当に久しぶりかもしれない。感情を露わにして、父親に立ち向かう娘を見るのは。

「ママが死んだのはパパのせいだって、本心では思ってるわけないじゃん。わかってるよ、そんなの。でも、どこかに押し付けないと、私が壊れちゃうから、そんなの押し付けられるのパパしかいないじゃん」

もうすでに、有希の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。鼻水を啜りながら、それでも次から次へと出てくる言葉を私に浴びせる。

「いつも朝起きたらご飯があって、帰ってきたらお風呂を沸かしてくれて、それがあたり前じゃないことにだってもう気づいてる。でも、言い出せなかった、ありがとうって。それはごめんなさい、でも、でももっとパパから私に向き合ってほしかった、だって」

有希は言葉に詰まった。それが照れからなのか、本当に涙からくる嗚咽で留まってしまっていたのかはわからない。

「私のたった一人の、家族なんだから」

嗚呼、なんて私は馬鹿なんだろう。世界一滑稽な父親なんだろう。結局、独りよがりだったのは自分だった、娘のほうがよっぽど自分より大人だったんだ。自然と涙が零れた、それは娘に引っ掛けられた水と混ざりあった。

私はようやくハンカチで顔を拭いた。改めて見ると、有希は顔を覆って泣きじゃくっていた。ここで素直に、本当にすまない、こんな思いをさせて、と娘を抱きしめてやるのが理想の父親なんだろう。でも、今まで父親として何もできていなかった私には、今まで逃げてばかりの私には、すぐにそんなことを行動に移す勇気が無かった。だから、私なりの父親としての一歩目を、幾分か震えた声とともに踏み出した。

「有希、カレーを食べたら、コンビニにハーゲンダッツを買いに行こう、父さんの奢りだ」

有希は涙をぬぐいながら、馬鹿じゃないのと小さく笑った。

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