馬鹿真面目にごちそうを
彼は馬鹿が付くほど真面目で、誠実な人間だ。
間柄としては、まだ幼稚園やら保育園やらに通うよりも前からの付き合い、いわゆる幼馴染というやつで、僕の周りには20歳になった今でも関わりがあるのは彼ぐらいしかいない。
物心ついたくらい、小学生低学年の頃には既に今の彼の人格のようなものは出来上がっていたように思える。遠足に行くと、クラス委員でもないのに持参禁止のお菓子を持ってきていないか全員分チェックし始めるような奴。「バカ」とか「ブス」とか言うような相手を見つけたら、担任の先生どころか校長先生にまで報告して断罪しようとする奴。クラスで飼っていたウサギが亡くなった時、わざわざ放課後にクラスメイト全員を集めてお葬式を開く奴。とにかく真っすぐな人だった。
中学に上がると、大多数は思春期という時期に入る。性に盛んになったり、暴力的になったり、その変化は様々ではあるけれど、彼は小学生の時からほぼ変化が無かった。強いて言うなら背が急激に伸びて、身体的にも目立つようになったことくらいだろうか。
彼の性格に対して、中学2年くらいから次第に周囲の反応が冷たくなり始めたのを覚えている。文化祭のクラスの出し物を決めるときに、多数決で決まったお化け屋敷を断固否定していた。それには明確な理由があり、クラスメイトの女子の中にホラーやお化けといったものが生理的に受け付けない人がおり、そんな人がいるクラスでお化け屋敷をやるなんておかしいという論理だった。もちろんわからなくはないのだが、中学2年生が多数決で決まったことに改めてディスカッションする心の余裕があるわけがなく、半ば強引に押し通されてしまった。
すると彼は、事のいきさつを新聞のような形で1枚の紙にまとめて、学校内およびその近隣にビラを配りまくったのだ。これはもちろん単独犯による行動である。事態は予想以上の広がりを見せ、学校全体どころか地域の自治会で取り上げられることとなった。思い立ってからの行動力に関しては、彼の右に出る者はなかなかいないだろう。
結果的に話し合いを重ねた末、クラスの出し物はたこ焼き屋に変わった。しかし、クラスの半数以上の生徒がボイコットを起こし、これまた問題に発展してしまう。彼はなんと、わざわざボイコットした一人ひとりの家まで出向き、対話しようとしたのだ。不審がった親御さんたちが、警察を呼んでしまう騒ぎにまで発展した。
なんとか文化祭は終わったが、次第に彼は周囲からはじき出され、完全に一人になってしまった。僕は違うクラスからそれを見ていて、正直助けられるような状況ではなかった。唯一彼を救えるはずの、事件の発端となったホラー嫌いの女子でさえ、彼を遠ざけたのである。彼の誠実さ、正義は返す刃となり彼自身を突き刺してしまった。
それから彼は不登校になってしまった。僕は、彼の実家まで何度か足を運んだが、毎度インターホンを押す手前で勇気が出せなかった。正直、とても怖かった。幼馴染として、彼を救えたかもしれないのに。不登校になってしまった後で「大丈夫?」なんて声をかける資格は自分に無いと思ってしまった。何度も家の前まで出向いては、踵を返す日々だった。
時は経ち、僕は高校を卒業して大学生になった。高校時代、結局一度も彼に会うことはなかった。家も歩いてすぐのところにあるのに、一回たりとも姿を見ることは無かった。しかし、確実に僕の心の中には彼の存在があり、それはしこりとして永遠に残り続けるんだろうと思っていた。
去年の冬、中学の同級生で作られたグループで急に盛んに連絡を取り始めることになった。そう、成人式である。成人式ではここぞとばかりに小学校や中学校の時の同窓会を企てる輩が跋扈するが、僕の周りにももちろんそんな奴らがウヨウヨしていた。流石に顔は出しておかないとな、と思いながら返事を返しているうちに、ふと彼のことを思い出した。普通に考えれば中学の同窓会なんてもちろん来るはずが無いだろうし、小学校の同窓会すら顔は出さないだろう。…でも。
僕は成人式の日の同窓会をすべて断った。理由は適当に取ってつけたようなものだったが、それはどうでもよかった。成人式を終えて、一通り昔の友人に挨拶をした後、スーツ姿のまま彼の家へ向かった。そして、あのインタ―ホンの前に立つ。表札は変わっていないが、彼が今家にいるかどうか、ましてやここに住んでいるかどうかも危ういわけで、しかし僕はどうしても居てもたってもいられなくなってしまった。すべての予定を断ってでもここに来るべきだと思った。まるであの時の彼のように、思い立ったら止めることは出来なかった。
深呼吸をしてから、インターホンを押そうと指を近づけた、ちょうどその時だった。ガチャッ、と重そうな扉が開いた。中から彼が出てきた。髪はぼさぼさで、髭が生えていて、ジャージ姿だった。とても、ぱっと見では自分と同い年とは思えないような風貌だった。だけど、顔は間違いなく彼だった。突然のことに驚いてしまった僕は、何も言葉が出てこなかった。硬直している僕に、彼はあの時のような真っすぐな瞳で「あの丘に行こうか」とだけ言った。
6年ぶりに会った彼と、小学生の時からよく遊んでいた小高い丘にある小さな公園へ向かった。彼の家から歩いて15分くらいだったが、一切会話は無かった。昔から同じ、歩くときは彼が前で、僕が後ろ。それさえなんだか懐かしく思えるほど、久しぶりの再会だった。
公園に着くなり、彼はベンチに腰掛けた。どうすればいいのかわからなくなってしまってオドオドしている僕を、「隣、座れば」と彼はあの時より少し低くなった声で呼んだ。失礼します、と反射的に言ってしまった僕に「なんだそれ」と冷笑する彼。
そこから10分ほど、体感では1時間にも2時間にも思える間沈黙が続いた。何か話し出そうとしたが、喉の先まで出そうになって引っ込めての繰り返しだった。落ち着かない僕とは対照的に、彼は終始落ち着いているように見えた。ただ、彼からもなかなか話し出そうとはしなかった。流石に痺れを切らした僕が喋り出そうと、声にならない声を出したくらいのタイミングで、彼が重い口を開いた。
「来てくれてたよな、ずっと」
えっ、と自然に声が出てしまった。
そうか、彼は僕がインターホンの前まで来て、すごすごと帰っていく様を家の中から見ていたんだ。もしかしたら、と思っていたことは現実だった。彼は、そこからぽつりぽつりと話し始めた。何度か彼から僕に声を掛けようとしたこと。勇気が出なかったから諦めたけれど、そんな自分が情けなくて泣いていたこと。昔の彼からしたら想像もつかないような姿だった。
「怖かったんだ、誰かに否定されることが。俺はずっと自分が正しいと思ったことを言ってきたし、してきたつもりだった。俺の正義は、みんなの正義だと思っていた。でも、そうじゃなかった。俺にとっての正義が、誰かにとっての悪になることもあるんだって、理解できなかった」
彼は、丘から見える街の夜景をじっと見据えながら話し続けた。
「自分を出したら、自分が正しいと思ったことを口に出したら、それが否定されることを考えたら恐ろしくて、何も喋れなくなった。人に会えなくなった。外の世界が怖くなった。幼馴染のお前にでさえ、話す言葉が何も見つからなかったんだ」
一旦彼は息を整えてから、思いの丈を改めて口にした。
「大体1週間に1回くらい来ていたお前が来なくなったころ、俺は本当に死のうと思った。ワガママだよな、でもそう考えてしまうくらいに追い詰めてしまっていた。このまま人に成れないまま死ぬのなら、お前や、俺を虐めていた奴らが”成人”する今日に死んでやろうと思った。考えて考えて考えて、ようやく決心がついて外に出たら、お前がいたんだよ」
彼の声を聴きながら僕も視線は夜景に落としていたが、ふと彼の顔を見やると、頬には涙の跡がくっきりと見えた。昔の顔より、少し落ち窪んだ頬を次々に涙が伝っていった。
「お前のせいで、いや、ごめんな。こんなことを言いたかったわけじゃない、でも、お前のせいで俺はまたどうすればいいかわからなくなっちまった。こんな俺が生きていくには、この世界はひどく窮屈なんだよ。なあ、どうすればいいんだろうな」
彼は泣きながら、笑みを浮かべた。感情が入り乱れて、収拾はついていなかった。それは僕もそうだった。久しぶりに会った彼が、会わなかった間にこんなにも滲み、潰れてしまっているなんて。固く太い一本の線のような男だったはずなのに。
僕はベンチから腰を上げ、空を見上げた。この街の空には、特にこの丘からは綺麗に星が見える。冷たい風が流れる今日は、雲もなく清々しい星空だった。
「僕が言えたことじゃないけどさ、」
免罪符みたいな書き出しで、僕は言葉を連ね始めた。
「僕は君に憧れていたよ、ずっと。その真っすぐな君に。どうしたらああなれるんだろう、いや、なれないな、凄いなってずっと思っていた。でも、君の言う通り確かにこの世界は君には難しすぎると僕も思うよ。だけど、」
一度僕は息を飲んでから、彼に向き合った。
「その難しい世界を、僕は君と歩きたい。あの時差し伸べられなかった手を、ここで差し伸べさせてほしい。いや、そんな大層なことでもないな。とりあえず、髪を切って髭を剃って、一緒に美味い飯を食べに行こう。君の好きなデミグラスハンバーグをたらふく食べてから、この先のことを一緒に考えようよ」
彼は僕の言葉を聞き終えて、少ししてからふっと息を吐いた。その顔には、幼いころに見た無邪気な笑みが戻っていた。
「わかった、死ぬのはデミグラスハンバーグの後だな」
彼は僕の幼馴染。成人した今でも、やっぱり僕は彼に憧れている。
居なくなってほしくないから、しょうがないけど彼にデミグラスハンバーグを奢ってやることにしようと思う。