映画「水平線」 鑑賞後の感想
昔からわかってはいたものの、映画館によくある”サービスデー"という割引を最近よく活用させてもらっている。
どこもそうなわけではないのかもしれないが、毎週水曜日は大幅に鑑賞料金が割引されるというものである。今では大体2,000円くらいが当たり前となっている映画鑑賞の一般料金、やはり高すぎる。そのため、このサービスデーを使わない手は無い。
月に1~2回の頻度で映画を見に行っているが、noteにも記した「福田村事件」のように、映画を見終わった後になるべく感想を残しておこうと思っている。
この試み、自分で見返すこともできるし、鑑賞後のまだホットな感情のままで書き残しておくことは貴重だと思っているので、続けていきたい所存である。ちなみに、私はサブスクで映画を見るのがあまり好きではない。途中で止めることが出来る、というのは個人的にはあまり映画を見る環境として好ましくない。それこそ、こうやって感想を書き記すにしてもなるべく頭から最後まで一気に見たほうがまとまりやすいということもある。
たまにネトフリ独占の映画とかある時はしょうがないけれど…映画館はいいぞ。皆さんもぜひどうぞ。元映画館勤務より。
さて、今回鑑賞した映画は「水平線」。今年3月1日に公開した、比較的おニューな映画である。監督は俳優としても活躍する小林且弥、主演はその小林監督からの熱烈なオファーがあったというピエール瀧。この二人は映画「凶悪」で共演していることで知られている間柄でもある。
小林監督としては初の監督作品ということで、フラットな目で見やすい映画なのでは、という第一印象。ここからはあらすじと、この映画への個人的な感想をつらつらと述べていく。
ネタバレもあるので、これから観るというような方を含め、閲覧に関してはご自身の判断でお願い致します。
あらすじ
散骨という”ビジネス”について
この映画でキーになってくる「散骨」。私には全く身近なものではなかった。それこそ映画やドラマ、漫画なんかで海に骨を撒くみたいなシーンを見たことはあるけれど、実際にそういった場面に立ち会ったことはもちろん無い。
作中で、遺骨を砕いた後に水溶性の紙にパッキングし、小包のような形で海にドボンと落とすのを見て、私の中にあった散骨のイメージからはかなりかけ離れていると感じた。それだけ今までの私の人生に馴染みが無いというわけだ。
私の親族の遺骨は、基本墓地に埋葬されている。今回散骨について軽く調べてみてわかったが、コスト的には散骨のほうがかなり安上がりだ。震災で多くの人が無くなった福島という映画の舞台では尚更、遺骨の処理に関してはコストパフォーマンスが考えられているのだろうと推測される。これはビジネスとして成立しているわけである。
”ビジネス”と”感情論”の距離感というのは、個人的に凄く難しいものだと思っている。例えば自分も経験があるが、感情を全面に押し出してプレゼンをすることで勝ち取ることのできる仕事というものも少なくない。私が現在従事しているエンタメ業はまさに”人”で仕事をしているというか、利益などが全く度外視されているわけではもちろんないが、それ以外の部分、特に人間の感情で左右されることが往々にしてある。
しかし、仕事に感情を持ち込むな、という場面も多く存在する。やはり多く利益を得られればそれがビジネスとしての成功となるわけで、結局100%その側面にフォーカスされることだって多い。ケースバイケースでの感情論の押し引き、みたいなことはビジネスにおいて難儀な部分ではないかと思う。
散骨、遺骨を扱うというのは人間の感情を大きく伴うものだと初めは思っていた。無論、鑑賞後でもその気持ちはある。ただ、散骨ビジネスにおいての遺骨はひとつの商品であり、商品でしかないとも言える。
その遺骨は、どういった人物のものなのか?それにフォーカスすることは、このビジネスにおいて大きな障害になってしまう。今回のストーリーのように、凶悪な殺人犯の遺骨だったら、逆に国民の英雄の遺骨だったら、そういった感情論によってこのビジネスのスキームはぶち壊される。
だからといって、遺骨を処理するということに感情論を持ち出してはいけない、ということは果たして実際には出来るのだろうか?
自分事なのか、他人事なのか
ストーリーの中で、実際に散骨予定の凶悪殺人犯に実子を殺された女性が、ピエール瀧演じる散骨業を営む井口に迫るシーンがある。
「私の家は海が近い、海に散骨したら私たち家族は海を見るたびに思い出してしまいます」
「そこらへんに捨てたって、トイレにでも流したらいいじゃないですか」
遺族の女性は、海への散骨を断固として反対していた。ジャーナリストも、「震災で亡くなった方々が眠る海に、殺人犯の骨を撒くんですか?」と畳みかける。この場面を見ながら、思うことがあった。
まず初見では、この遺族やジャーナリストの意見とは対となるような考えが私の頭の中を巡った。散骨業者からしたら、そんなことは関係ない。ビジネスとして、お金をもらって散骨を行う。ただそれだけの事であり、誰の骨だから散骨しない、などという話にはならない。
ましてや、今回はこういった映画の脚本だから当たり前の話なのだが、もしこれが既に散骨済だったら、どうしようもないわけである。依頼の手続きの際に、遺骨の主がどういった人物だったのか等という事までは詳しく聞かないだろうし、依頼主もわざわざマイナスなことは伝えないだろう。過去を遡れば尚更だ。業者からすれば知り得ないことであり、知らなくて良い事である。良くも悪くも仕事であり、単なる処理なのだから。
では、これが自分に深く関係する人間の遺骨だったら、どうだろうか。
自分が強く恨んでいる人間の骨だったら、そう思うと、先述のような感情を抱くのだろうか。実際にそんなケースに陥る確率は限りなく少ないはずで、あくまでこれは推測の範疇になってしまうが、答えはNOだろう。他人事だと思えば簡単な話も、自分事になったら世間一般とは大きく逸れてしまう。それは自分がその立場に立たされないとわからないことだが、だからこそむやみやたらに物事を決めつけてはいけないと、考えさせられた。
思い返せば当たり前のような話だが、こうやって考え直す機会は多くないのではないだろうか。
必死に前に進むことの難しさ
ピエール瀧演じる井口という父、その娘奈生。似ていない様で似た者同士、彼らはどこかひたむきに”人生”というものにしがみつきながら生きている姿をこの映画では描かれている。
考え抜いた末に、殺人犯の骨を散骨すると決断した父は、倫理観や風評などの様々な葛藤に苛まれながらも、その責任を自らで背負いながらラストシーンでは丁寧に遺骨を砕く。
優しさから世話を焼いた同僚に裏切られた娘は、自分の優しさのせいで自分自身を苦しめている、という親友からの言葉を受ける、そして夜に何かを想いながら煙を吐く。
どちらも不器用だが、真っすぐな人間である。真っすぐだからこそ、損をする。しかし、その人生を生きていかなければならないと前を向く。進むことはままならなくても、前を向こうとする。足を進めることはとても難しい、環境や自分の信念が邪魔をして、なかなか先へと行けない。ただ、しっかりと前を向いている人間たちを、この映画では確かに映し出している。
振り返って感傷に浸ることは、幾分か簡単なことだ。しかし、この映画ではその必要はないのではないか、と問う。殺人犯の遺骨を散骨したことを詰問するジャーナリストへ井口はこう言う。
「過去なんて風化しちまえばいい」
震災の爪痕は今も大きい。最近では石川県の能登半島地震もあった。その経験は想像を絶するほど辛いものだろうが、生き延びた人々はそれでも生きていかなければならない。いつか思い出さなくなるくらいまで、必死に生きていく、それも亡くなった人や物への弔いになるのかもしれない。
当事者でない人間からしたら、その程度しか考えは及ばなかった。
終わりに
今回も長々と4,000字ほど…駄文乱文失礼いたしました。
私にとっては馴染みがないテーマだからこそ考えさせられる映画だったなと改めて感じました。
散骨、というものを知る。そこから派生する問題自体は私にも少しは関係するような内容もあり、良い機会となりました。
それにしても、ピエール瀧の演技…素晴らしかった。彼にしか出せない雰囲気や空気感というか、役者としては最高の武器となりうるものじゃないかなと思いました。脇を固める俳優の方々も随所にグッとくる演技が多く、映画自体をより味わって楽しむことが出来ました。
小林監督、初作品としてとても素晴らしいものだったと思いました。次回作品もあるのであれば、見に行きたいなと思います。
それでは、また別の映画を見たときにでもこういった記録を書こうと思います。以上。