キャラクター新論 まとめ
どうもこんにちは、各駅停車です。
今回は小池一夫の『キャラクター新論』という、キャラクター論の本を紹介します。
本に書いてあることを元にしながら、思ったことを書いていく文章になります。
キャラクター新論
この本は、漫画原作者の小池一夫(かずお)による、実践的なキャラクター論です。キャラクターとは何かと定義したのち、ソーシャルメディア時代にいかに魅力的なキャラクターを生み出すかを語ります。
エンターテイメント=キャラクター
小池はこの本の中で何度もキャラクターの大切さについて述べます。
小池はある時、小学館の編集長小西湧之助(ゆうのすけ)にこんなことをいわれたそうです。
「小池ちゃン、君に欠けているのはキャラクターだよ」
「キャラクター=漫画、漫画=キャラクターだよ」(p19)
小池はこの言葉をきっかけにキャラクターについて考え始めます。
そしてヒットしている作品ほど、キャラクターの魅力があることに気付きます。
読者は物語よりもキャラクターを求めている。キャラクターの力が第一に必要なんだと小池はその時気づいたそうです。
お話はどこかで見たようなお話でもいい。というか、お話は基本的にパターンが限られているから、別に読者は毎回違うパターンのお話を求めているわけではないんですね。
読者は、またそのキャラクターに会いたい。そのキャラクターといっしょにハラハラドキドキしたり、ときめきたいから、その漫画を手に取る(p20)
キャラクターの力を全面に引き出すこと、だからこそ「漫画=キャラクター」なのだと小池は述べます。
そして、小池は「漫画=キャラクター」を発展させ、いまや「エンターテイメント=キャラクター」(p9)なのだと言い切ってしまいます。
キャラクターは、あらゆるメディアで人を惹きつけ、今や映画、小説、テレビ、広告へとその活動範囲を広げています。もはやキャラクターの力はエンターテイメント全体へと通用するのだと小池は考えます。
この小池の議論は、キャラクターを第一に考えすぎな気もしてしまいますが、確かに納得できるところはあります。
僕の好きなバーチャルYouTuber、月ノ美兎(つきのみと)で例を挙げてみます。
彼女は現在YouTubeでの配信の他、cm、書籍、楽曲と様々なメディアで活動しています。
彼女には「清楚な学級委員長」という設定があります。しかし、彼女が人気の理由はそういった設定よりもむしろ、YouTubeの配信上に現れる彼女のキャラクターが魅力的だからだと思います。
「清楚な学級委員長」という設定は小池のいう「お話」のようなものでしょう。確かに僕は小池の言う通り月ノ美兎の「お話」=「清楚な学級委員長」を求めているのではなく、配信上の魅力的な月ノ美兎のキャラクターを求めています。
そして、月ノ美兎のキャラクターが好きだからこそ、僕はメディア横断的に彼女のコンテンツを受容しています。
小池のいう「エンターテイメント=キャラクター」は僕にとっても当てはまるところがあるのかもしれません。
小池の考えるキャラクター
「エンターテイメント=キャラクター」だと豪語する小池。
では小池のいうキャラクターとは何でしょうか?
アニメ、漫画といったフィクションの登場人物だけでなく、芸能人やスポーツ選手といった実在の人物、そして身近な人間関係にもキャラクターという言葉は使われます。
小池はその前提を確認した後、キャラクターをこう定義します。
つまり、キャラクターとは、実在の人物でも、架空の存在でも、名前を言えば「ああ、あれか」と誰もがその顔や名前、性格などを思い浮かべることができるようなもののことだと思えばいいかもしれません。(p30)
小池はキャラクターを独自性、固有性を強く持ち合わせた存在だと考えているようです。
いささか定義が広すぎるような気がします。小田切博が『キャラクターとは何か』で述べた、最大公約数的なキャラクターの定義と近いです。
ただ、小池はこの後実践的なキャラクター作成論に移る際にほとんどマンガ・アニメのキャラクターの意味でキャラクターのことを考えています。それゆえ、現実世界の人々に対して使われるキャラクターは、あまり考える必要はないのかもしれません。
また、ここでキャラクターが「名指しされること」が前提となっていることに僕は注目したいです。
伊藤剛の提唱した概念、「キャラ」の定義の中でも、「キャラクターが名指しされること」(『テヅカイズデッド』p78)が強調されていました。
また、斎藤環は『キャラクター精神分析』において、「キャラ」を成立させるのに重要なのが「名前の同一性」であると考えています。(『キャラクター精神分析』p285)
キャラクターが成立するにあたって、名前は必要とされると言い切ってもいいのかもしれません。
そして、僕がさらに考えたのは、キャラクターにつけられる名前というのは事後発生的でもいいということです。
噛み砕いて説明します。
例えば、『鬼滅の刃』のキャラクターの中に「サイコロステーキ先輩」という人物がいます。
このキャラクターは、登場してすぐ敵に殺されてしまう、いわゆるモブキャラです。しかし、敵にサイコロステーキ状に切り刻まれるというインパクトのある殺され方をしたことによって、ネット上で人気になります。「サイコロステーキ先輩」というのはその時につけられた名前です。
このキャラクターの本当の名前は「累に刻まれた剣士」というのですが、その名前で「サイコロステーキ先輩」のことを呼ぶ人はいません。
ネット上のノリで事後発生的に誕生した名前が、ここではそのキャラクターを指す名前として定着しています。
キャラクターが成立する際に必要な名前も、変わりゆくものであると僕は考えました。
(ちなみに、サイコロステーキ先輩はネット流行語2020で13位になりました。)
キャラクターに感情移入すること
小池は人がキャラクターに感情移入してしまう理由を、「人間の本能」だからだと書いています。
小池のいう「人間の本能」には大きく分けて二つあります。
一つは、人はコミュニケーションをするときに、非言語的にメッセージを受け取っていると言うもの。
人間が話をする時、言葉だけでなく表情や仕草からも相手の感情を読み取ります。表情や仕草といった非言語的なメッセージを感じとる能力が、キャラクターの図像をみたときに感情を駆り立てるのだといいます。
「人間の本能」の二つ目に、そもそも人間がキャラクターを感じ取りやすいということが紹介されています。
小池はこう述べます。
人類は自らを取り巻く世界を「キャラクター」の集合体として捉え、理解できない現象や理不尽な出来事を、神や魔物、精霊、妖怪などとしてキャラクター化し、様々な現象は、それらのキャラクターの意思であると理解するようになったのです。(p31)
昔から、人の心がキャラクターを作り出し、それを感じ取っていたのだといいます。
(小池が例に挙げている曼荼羅(まんだら)、色々な仏様が人間のキャラクターを見つける本能によって描かれていったと小池は考えている)
非言語的メッセージを受け取ること、様々な事象にキャラクターを感じること、この二つの本能により、人間はキャラクターに感情移入移入するのだといいます。
そして、キャラクターへの感情移入を強く誘うことの条件として、小池は「キャラクターを起(た)てる」ことを挙げます。
キャラクターを起てる
小池のいうキャラクターを起てるとはどういうことなのでしょうか?
小池はこう述べます。
キャラクターを「起てる」というのは、一言でいえば、キャラクターを読者に強烈に印象づけることです。読者の心にインパクトを与え、興味を抱かせ、その魅力で惹きつけるのです。(p34)
とにかく、読者にキャラクターを徹底的に印象づけることこそがキャラクターを起てることだと言っています。
小池はさらにキャラクターを起てるための過程を三つに分けます。
まずキャラクターを「創る」(p35)。
キャラクターの顔や体の特徴、身につけているものや性格を考えることだと紹介されています。
これは伊藤剛のいうところの「キャラ」の強度、記号としてのキャラクターのインパクトを強めるための作業といえます。
そして二つ目にキャラクターを「動かす」。
キャラクターを行動させ、「生活や呼吸をさせながら活躍させること」(p36)が求められます。
これは伊藤剛の「キャラクター」、実際にマンガの中で生きる身体を持ったキャラクターの強度を上げる作業であるといえます。
あと注目すべきなのは、完全にキャラクター主導によって物語を動かすべきだとしているところです。
漫画家がよくいう「キャラクターが勝手に動く」状態こそがよい物語だということなのでしょうか。
そして最後にキャラクターを「活かす」。「創る」「動かす」で人気を得たキャラクターを、メディアミックスによって物語の外へと広げてゆく過程です。
ある特定の物語に結びついて人気を得たキャラクターは、人気になればなるほど別の物語で活躍する機会が増えます。
「活かす」ではそのメディアミックスへとキャラクターを開いていくことが推奨されています。
なるほど、「動かす」の過程で、そもそもの物語がキャラクター主導によって生まれたものであるならば、キャラクターがそこに居さえすれば物語は無限に駆動します。
特定の物語から離れて、メディアミックス的にさまざまなものがを渡り歩くことが、今のキャラクターたちには特に求められているのかもしれません。
キャラクターを起てる、つまり読者にうまく感情移入させるためには、「創る」「動かす」「活かす」三つの過程において、キャラクターの魅力を最大限にまで引き上げることが要求されています。
斎藤環も『キャラクター精神分析』で「キャラ立ち」について紹介しています。
斎藤環のいう「キャラ立ち」は簡単に言えばキャラクターが特徴的な部分を持っていることです。( 悟空の色が変わり逆立つ髪の毛、エドの義手)
これは小池のいうキャラクターを「創る」過程(キャラクターの顔や体の特徴、身につけているものや性格を考える)に対応します。
CGMでのキャラクター
小池はSNS(Twitter、Facebook、Instagram)や動画投稿サイト(Youtube、ニコニコ)のことを、CGM(消費者生成メディア)だといいます。
CGMというのは、ユーザーが投稿したコンテンツで成立しているメディアのことです。
例えばYouTubeは、YouTube運営が挙げたコンテンツで成立しているわけではなく、ユーザーが各々作った動画によって成立しています。
小池はそんなCGMが発展を遂げた現在の、キャラクターの新しい在り方を考えます。
小池はこう言います。
この世界(GCMの世界 引用者注)で活躍するキャラクターは、見た目が第一です。キャラクターの背景になる物語は存在しないから、最小限しか設定されていません。キャラクターを縛るドラマもありませんから、ユーザーがキャラクターを自由に動かしたり、キャラクターになりきって自由に作れるわけです。(p152)
小池はここでキャラクターの記号的な側面、見た目を主眼に置いていることがわかります。CGM上でキャラクターを「使ってもらう」には、物語や設定が最小限でよいとも述べています。
小池はCGM上のキャラクターの例として、初音ミクと博麗霊夢をあげています。初音ミクは年齢や身長、体重などの設定しかありませんし、博麗霊夢は元は物語性の少ないシューティングゲームから誕生しました。
CGM上のキャラクターは、見た目でユーザーを魅了し、ユーザーたちに自由に物語を設定してもらう「マイキャラ」としての性質を持たせるべきだと小池は説きます。
確かにSNSや動画投稿サイトといったCGM上で流行るキャラクターというのは、先程の「サイコロステーキ先輩」しかり、「偽マフティー」として人気となったガンダム映画『閃光のハサウェイ』のキャラ、「ハイジャック犯A」しかり、設定が少なく、特定の物語にあまり依存しないことで扱いやすくなったキャラクターである気がします。
まとめ
以上、『キャラクターとは何か』について見てきました。
小池は「エンターテイメント=キャラクター」だとみなし、キャラクターの重要性を強調します。
そして、キャラクターを起てる過程を「創る」「動かす」「活かす」の三つに分け、キャラクターを実際いかに成立させるかを説明しました。
さらに、GCM(ユーザー生成メディア)、ソーシャルメディア時代に求められるキャラクターの在り方も考えていました。
小池一夫が、実力ある漫画原作者の立場から、極めて実践的にキャラクターを考えたのが『キャラクター新論』という本であると言えます。