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電池が切れるまで すずらんの会

毎日本を読む9/20
電池が切れるまで
すずらんの会 (著)

私がかつてサラリーマンをしていた頃、長野県を担当していた時に
安曇野にある長野県立こども病院の院内学級の廊下で
子供の書いた詩に出会った。
本書のことを知る前の出来事で、非常に感動を覚えたことを覚えている。
その後この本に出会い、有名な話でドラマになったことも知る。

なぜこの本を手に取った?

院内学級の廊下に掲示されていた詩のひとつでした。
後輩と一緒に先生を待っていた時で、
こんな風に仕事してないぞって思ってめちゃくちゃハッとした。

こども病院で出会った詩

今はテングコーヒータカオサンという自家焙煎珈琲店をやっていて、豆とかかき氷とか売っていますが、あるときこの本の持ち主の方とその話になって、「電池が切れるまで」の本について知りました。

そして実際にもう一度病院まで行ってみました。

院内学級を訪問して、写真の詩を書いた人がわからないか、さらには予後がどうだったか知れないかと思ったからです。

病院に電話したら、やはり有名だからか慣れている感じで院内学級につないでくださって、訪問することができました。
丁寧に応対いただいて、残念ながら多すぎて誰だかはわからなかったんですが、ドラマ化した当時のお話を聞いたり、他の今の院内学級の作品などを拝見させていただきました。

私が本気の詩を見た時に、同時にもう一つ印象的だった詩があって、その作品は確か6年生くらいの女の子が、終始担当している看護師さんを心配して励ましている内容でした。
その場で涙が止まらなかったのを覚えています。
これは子供特有のものなんでしょうか?


最初の詩も、女の子の詩も
病院の特性上「ひょっとしたら余命が短い」子供かもしれず、
もはやこの世にいないかもしれません。


6月ごろ読んでいた本の「人生って短いんだよ、すぐ死んじゃうんだよ」という内容の本で出てくる余命の短い人たちは、多くはあーすればよかったこーしたかったなど「自分のこと」ばかり発している気がしました。
いまの日常を振り返ってみると、様々なSNSでの発信で「私」の発信が多い気がします。
実はこのnoteからの発信にも、そういう発信がものすごく多いです。
Instagramの映え投稿など最たるものですが、他者へのフォーカスや気配りという点で、非常に傲慢な評価経済社会になっているなと感じています。
これは、たとえばお店のクチコミなどに代表されるような、匿名になったとたんに他者批判を厭わないということともシンクロしているのではないか考えていて、同時に批判と議論の区別ができなくて、すべて否定に感じてしまうようなことも、個人的にはとても嫌いな風潮です。


病院という環境に不本意ながら隔離されているからこそ、人の本質からの声がそのまま発せられるものになる。
研ぎ澄まされた状況だからこそ、真理に近づいているような気がします。


いまでも、できればこの写真の詩を作った子に会いたいです。


本書は院内学級の子供たちの作品がいくつも並んでいます。
背景を想像してより重く響いてくるものばかりです。

だからといって、「だから私は恵まれている!」でもなければ
「あぁかわいそうに!」ということが言いたいんじゃありません。

ただただ、自分に問いかけるのです。
「おまえ本気でやってるか?」と。






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