満ち足りた人生
いつも思うんだが、どうすればもっと満ち足りた人生が歩めるんだろう?
そもそも、それは可能な事なのか?
今の自分は、過去の自分に比べると、ずいぶん気楽で安易な毎日を送っている。
収入的には過去の自分に比べようも無いが、それでも飢えるわけでもなく、安全な住処もあり、相対的にストレスも少ないと思われる。
そして、何よりも過去の自分に比べて、自由な時間が圧倒的に多い。
これは悪い事では無いのだが、おそらく、これが原因で、満ち足りた気分になれないのではないか思うのだ。
要るするに、内省する時間が多過ぎて、いつも何かしら考えているのだ。
時間に追われ、忙しく働いていた現役時代には、人生について無駄に思い悩む時間が、比較的少なかった。
それが今は常に、頭の中で考えている。
自分は典型的な唯物論者なので「人の一生」に意味があるとは思ってない。
全ては偶然の産物で、自然選択が積み重なって今が在る・・・と考えている。
もちろん死後の世界も信じてはいない。
リーバーマンの「人体600万年史」を読んで思ったのだが、類人猿から進化したホモ・サピエンスが、どうして高次な脳機能と文明を手に入れたかというと、その究極の答えは「食糧を確保する」ためだったらしい。
食糧を確保するためにホモ・サピエンスは、家族や仲間と連帯した。
そして、連帯するためには「自己犠牲」や「献身」「協調」「思いやり」といった感情が必要となり、その見返りとしてドーパミンやオキシトシンなどのホルモンを放出する事で満足感や恍惚感を得るようになった。
しかし、その副産物として「自分が生きる意味」まで考える脳を持つに至ったわけだ。
だが実際には、全てが自然淘汰の産物であるなら、自分の人生その物に深い意味は無い。生きて子孫を残した者が選択され、現在に至っただけなのだ。
「選択」という言葉も誤解を招く。自然淘汰に主語は無い。
誰かが「選択」したのではなく、勝手に、自動的に「選択」されたのだ。
例えていうなら、コンピュータ・プログラムによって、自動でオセロをプレイさせるようなもので、一定のルール(法則)に従って「選択」がなされていった結果が現在なわけだ。
しかし、この場合、人間がコンピュータをプログラミングしているが、自然界に於いては、自然法則のみがプログラマーという事になる。
じゃぁ、その自然法則とは何なのか?
結論から言えば、因果律だ。原因と結果である。
この因果率も量子力学の世界では通用しない場合が有るらしいが、とにかく、自分が言いたい事は「人生に意味など無い」という事。
そう信じているはずなのに、なぜ毎日のように人生について自問自答しているのだろう?
進化の過程でホモ・サピエンスに備わった「社会性」に於いて、「自己犠牲」や「協調」「思いやり」などの感情が、脳の報酬系に作用するために、それらの感情が満たされないと「人生の喪失感」を感じてしまうのではないだろうか?
つまり、人類600万年の歴史の中で培われた「社会性」のために、人は「孤独」に生きている限り、いつもどこか満たされない思いに駆られるのかもしれない。
「孤独」は、現代社会に於いて悪い事では無いと思う。
今は、仲間と連帯せずとも生きていける世の中なのだから。
しかし、もし「満ち足りた毎日」を送りたいなら、人類の社会性に起因する「連帯感」を感じる事が必要なのかも知れない。
だから、自分の利益のためだけでなく、第三者の利益のために行動すべきなのかもしれない。「情けは人の為ならず」。