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「姓名判断は我が国百年の歴史」が本当だ(4)

自分以外の人物を元祖とする説もありますが、判断を保留せざるを得ません。間接情報が多く、検証が困難なためです。代表的なものをいくつか紹介しますが、真偽の判定はお任せします。

最初のグループは、著名な実業家で易学者の高島嘉右衛門を元祖とする説、それと加賀藩で重きをなした暦学者 関氏の一族であろうという説です。

●高島嘉右衛門を元祖とする説

八切止夫氏は『八切 姓の法則』の中で、姓名判断の元祖は、あの高島嘉右衛門かえもんだと書いています。それも、明治3年以降に姓が普及したのに目をつけ、「思いつき」で考え出したものだそうです。[*1]

なんとも姓名判断のありがた味が損なわれる話です。それでも、どこかの怪しげな占い師ではなく、易聖と呼ばれるほどの高島嘉右衛門の「思いつき」ということなら、いくらか救いにはなりますが。

高島嘉右衛門(1832-1914)といえば、易学者として有名なだけでなく、旅館経営や土木事業で成功するなど、若いころから実業家として名を馳せた人です。安政2年の大地震のときは、易占で異変を察知し、材木を買い占めて莫大な利益をあげたそうです。

それほど商才に長けた人なら、姓の普及を絶好のビジネス・チャンスと捉えたのかも? いや、それは無いはずです。彼は占いを商売にしなかったので、金銭目当てはあり得ません。そもそも大実業家だったわけですから、ケチな金儲けには興味なかったでしょう。[注1]

では、純粋に易学研究の副産物として「思いついた」か? 『高島易断』の序言からすると、それもなさそうです。大体こんな内容が書かれています。[*2]

今の世は、科学技術は進歩したが、人々は神に通じる道を忘れたため、未来を知ることができなくなり、ものごとの結末を見通せなくなった。そのため、あれこれと間違った方向に思いを巡らし、自分も周囲も不幸に陥っている。

易占は神と人が連絡するための電話であり、『易経』は神の啓示を解釈する辞書である。私が、『易経』の解説書として、この『高島易断』を著すのは、人々に易占を伝え、未来を予知してもらうためである。

『増補 高島易断』(呑象高島嘉右衛門著、八幡書店、2005年)

高島嘉右衛門にとって易占は、単なる「占い」ではなく、神とコンタクトするための神聖な儀式だったように思えます。易占も『易経』も必要としない姓名判断とは、本質的に異なるもののようです。

●加賀藩 関氏の一族を元祖とする説

石川雅章氏は、上記とはまた違った説を紹介しています。それは石川氏が易学家の山口凌雲氏から直接聞いたものだそうです。[*3]

山口氏は金沢の人であるが、学生時代(明治43年頃)に旧藩主である前田侯爵の駒場の邸での東京学生の会にたまたま集まったひとりだった。

その中の1人が、前田邸の蔵書の中から『氏名考』という古びた筆写本をみつけ・・・その本を借りて克明に写し取った。それは半紙三十枚くらいの和綴の小冊子、著者名として、単に「関」の一字が記されていたそうである。

この本の内容は、歴史上の人物の名を列記して、その姓名の字画数にいちいち吉凶を付し、その数の奇・遇に、陰・陽の符号をつけたもので、最期の章に、「これはたくさんの氏名を調べた結果の結論である」と記されてあったとか。

そのことから、数学者のやりそうな仕事だと思い、たぶん、加賀藩で重きをなした暦学者・関氏の一族の著であろうと皆で評定したそうです。

そして翌明治44年に、山口さんは初めて「易断」というものの存在を知り、齧ってみるとなかなか面白い。第一、「予言」とか「アテモノ」が的中したときの優越感と、その推理のスリルは、なにものにも増して若い哲学書生の好奇心をくすぐったという。

そこで写本『氏名考』を、当時易占家として著名だった柳田幾作とか、湯島・神誠館の柄沢昭覚とか、依田明山、手島磯門などという人たちに得々として見せて回った。

しかし、誰も思ったほどの反応を示さなかった。いささか拍子抜けしているところで、伝通院横の「天文堂」という古書店の主人に紹介された中村了凡という老易者に見せた。

すると、この先生、がぜん一膝乗り出して、即座に譲ってくれという。なにしろ貧乏書生のことだから、褒められた嬉しさにわずかの小遣い銭で売り渡したが、なんとその年の秋に、中村了凡著『姓名学』という金文字のタイトルがついて売り出されたという。

ところがその版元が、新野直臣という香具師の親分だったので、お手のものの街頭宣伝で、これが飛ぶように売れた。

それがそもそも姓名判断大流行の源をなしたというのであるが、山口氏は単なる興味で写しとっただけで「学」とか「真理」などと考えたわけではなかったので、これにはなかば呆れ、なかば自責の念も感じた・・・と思い出話をしてくれた。

『愛児のためのすてきな名前』(石川雅章著、日本文芸社、昭和51年)

この話は、大正初期に姓名判断ブームが起こった経緯を説明している点で、興味深くはあります。ただ残念なことに、中村了凡なる人物の著作は、どうしても探し出せませんでした。[注2]

ところで、「姓名の字画数にいちいち吉凶を付し、その数の奇・遇に、陰・陽の符号をつけたもの」という記述は、明治期の他の姓名判断書を連想させます。はたして、関氏の『氏名考』のほうが時期的に早かったのかどうか。

============<参考文献>==============
[*1] 『八切姓の法則』(八切止夫著、日本シェル出版、1980年)
[*2] 『増補 高島易断』(呑象高島嘉右衛門著、八幡書店、2005年)
[*3] 『愛児のためのすてきな名前』(石川雅章著、日本文芸社、昭和51年)
※『占い大研究』(石川雅章著、広済堂出版、昭和52年)にも同じ話がでている。

=============<注記>=============
[注1] 「高島」を名乗る、高島嘉右衛門とは無縁の占い業者
 『呑象顕彰事業に寄す』と題した、高島嘉右衛門の長子 高島長政氏の文章がある。高島家一門は占いを商売にしたことがなく、「高島易断」を謳う占い業者が高島家の縁者や門下生として誤解されているのは迷惑であると語っている。

「・・・父没後、次第に社会には高島を名乗る占業者が現われ、今日では、「高島易断宗家」とか「高島本家」などと恰も当家そのものかの如き印象を世人に与える人々が居るのです。然しこれ等の人々は悉く当家とは関係ありませぬ。当家縁類の者でもなく又、亡父が門下生でありし者でもありませぬ。
 高島家一門に於きましては曽て占業を行いし者は一名もなく、実は私など・・・主なる業は父が北海道に遺せし「高島農場」の開拓とその経営にありました。従弟の二代目高島徳右衛門が好んで筮を揲りましたなれど、彼は木挽町一円の地主でありましたから彼とて占業の要はなかった事で御座います。
 高島の姓は私共一門のみの姓でなく、従って他の高島姓の人々が自己の姓をその占業に冠する事は聊かも不服ではありませぬし、又私と致しましても彼等の営業を妨害する意図は微塵も有しませぬなれ共、それが「高島易断」を謳って当家又は当家縁類の者であるかの如く、又、亡父門下生であるかの如く社会一般に於て信じられ居る事は迷惑至極で御座います。」

『呑象顕彰事業に寄す』(高島長政著、『易学研究』昭和31年1月号所収) 

[注2] 中村了凡なる人物
 中村了凡氏は「大日本東京正名学会」を創設し、大正2年6月頃には会長の座にあったようだ。彼の弟子(杉原 副会長)が著した『正名の栞』という姓名判断書がある。そこに中村了凡氏とその邸宅の写真が掲載され、「会長 中村博士」として紹介されている。
 ちなみに、使っている技法は、「五則」のうちの「五行の組合せ(五気配合)」を除いた4種である。

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