見出し画像

未来を変えた?(2):邵康節の文字の魔術

●梅花心易とは
易占のひとつに「梅花心易」という占法があります。一説によると、北宋時代(11世紀)の儒学者で易の大家、邵康節しょうこうせつが創始したとされるものです。

あるとき邵康節が梅の木の枝で雀が喧嘩けんかするのを見て、隣家の少女が翌日の夕方、梅の花を取ろうとして怪我けがをするだろうと予言しました。果たしてそのとおりになったことから、梅花心易と名づけられたそうです。

サイコロや筮竹などの道具を使わずに、ものの状態(形、色など)や数、あるいは年・月・日・時間などから直接「卦」を立てるのが特徴です。

ここでご紹介するのは、梅花心易を使って文字にほんの少し手を加え、運気をガラッと転換させてしまったという、不思議で面白い話です。

●西林寺の額字画占

邵康節の達人ぶりを伝える逸話のひとつに「西林寺の額字画占」というのがあります。実はここに現代姓名判断の原型をみることができるのです。字画数を易卦に置き換えてはいますが、文字の画数で吉凶を占えるとする発想は、現代の最もポピュラーな技法「数霊法」と同じです。

ちなみに、この字画数を易卦に置き換える技法は、わが国でも明治以降に数霊法が流行するまでは、姓名判断でしばしば使われたものです。

さて、あるとき邵康節がたまたま西林寺という寺の前を通りかかりました。ふと寺の額字を見ると、西林寺の「林」の文字に両こうがありません。つまり、「木」の縦棒の先端が はねて いないというのです。私たちが学校で習う「林」は両勾がなくてよいのですが、邵康節の時代はそうではなかったようです。[*1-3]

●「西林寺」の運気

感じるところがあって、西林の二文字で占ってみると、「山地剥の三爻変」という易卦を得ました。変卦は艮為山、互卦は坤為地です。そこで「陰の気が多すぎて、陽の気をぐ徴候が出ているが、この寺には女性のわざわいがあるのではないか」と僧に問いただすと、邵康節の占断どおりだったというのです。

ここで易卦の解説を始めると長くなるので、ごく簡単に説明します。易占では、問題解決の糸口をつかむために、占って得た卦をある約束に従って変化させることがあります。もとの卦を本卦といい、ここでは山地剥が本卦です。そして変化させた卦がそれぞれ変卦、互卦です。

西林の二文字からどうやって「山地剥の三爻変」を得たかというと、まず西の画数を7画にとり、これを上卦(艮)とします。西はふつう6画ですが、面白いことに、中の勾も1画と数えて、7画とするのです。

つぎに林の8画を下卦(坤)とします。上卦の艮と下卦の坤を重ねて山地剥の卦を得ます。変爻は西の7画と林の8画を合計して15とし、これを6払いして3(15-6×2=3)となります。

●邵康節が易で魔術指導

ところで、この話には大変重要な続きがあります。西林の二文字で占って女性のわざわいを見通したというだけなら、単なる占いです。「さすが名人、風変わりな占いでズバリ的中!」

しかし、この「西林寺の額字画占」はそんなどうでもいいような話ではありません。なんと邵康節はこのとき、西林寺の運気を転換させる魔術指導をしているのです!

「西林寺の林の文字に両勾がないから、易卦は山地剥の三爻変となって、女性の禍を受けるのだ。林に両勾をつければ、山沢損の五爻変となり、将来は安穏であろう。」[*1-3]

寺僧はこの忠告を受けて、さっそく額字の「林」に両勾をつけたところ、はたして女性の禍は解消したというのです。

つまり、こういうことです。西の画数7を上卦(艮)とするのは先ほどと同じ。西は中の勾も1画と数えて、7画です。つぎの林は両勾をつけると10画となり、これを8払いした2(10-8=2)が下卦(兌)となります。

上卦の艮と下卦の兌を重ねて山沢損の卦を得るというわけです。変爻は西の7画と林の10画を合計して17とし、これを6払いして5(17-6×2=5)となります。

●文字の魔術は本当か?

林の字体をほんの少し書き換えただけで、このような魔術的作用がどうやって生じるのか不明ですが、この話がまったくのデタラメとも思えません。

額字から寺の女性問題を見抜いたというだけなら、邵康節を神格化するための後世の作り話ということもあるでしょう。ですが、魔術指導をしたとなると、もっと別の説明が必要ではないでしょうか。邵康節自身が創始したとされる梅花心易にもとづいて指導している点も見逃せません。

もっとも、梅花心易の神秘性を高めるために、この話全体がでっちあげられた可能性もないとはいえませんが・・・。それでもこの逸話、私にはどうしても気になるのです。 [注]

========<参考文献>========
[*1] 『梅花心易掌中指南』(中根松柏著、高島易断所本部神宮館、大正15)
[*2] 『梅花心易』(藪田曜山著、三密堂書店、昭和47年)
[*3] 『梅花心易秘伝書』(高木乗著、神宮館、昭和51年)

=========<注記>=========
[注] 「梅花心易」創案にまつわる伝説
 伝えるところでは、邵康節が易の理を極めようと、山林に隠居して日夜研鑚を積んでいたある日、一匹のネズミが出てきて騒ぎ立てた。ちょうど、くたびれて横になったところだったので、思わず、使っていた陶器製の枕をネズミに投げつけた。だが、ネズミには逃げられ、枕は割れてしまった。

 壊れた枕の破片をふと見ると、内側に何か文字が書いてある。「この枕は卯年の四月十四日の巳の時刻に、ネズミを見て破れるだろう。」 この年月日、時間、そして枕が壊れたときの状況は、まさしくその通りであった。これを読んだ邵康節はハタと自然界の秘密を悟ったというのだが、それは「万物は自然の道理にしたがっており、その道理には一定の数というものがある」というのだ。

 その後、この予言を書いた不思議な人物の子孫を探し出し、遺言に従って一巻の易書を譲り受ける。そして、この書を深く研究し、ついに「梅花心易」を編み出した、ということになっている。だが、この話はあまりにできすぎていて、いかにも嘘くさい。「西林寺の額字画占」も同様な作り話の可能性もある。

※読者の方のご指摘によると、「梅花心易は邵康節に仮託されて作られたもので、実際には明代に出来た占法というのが現在定説」とのことです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?