当たったのか?当たった気がしただけか?(2)
当たった気がしただけのアタリには、グレーゾーンの中のアタリのほかに、グレーゾーンからはみ出しかけているアタリや、完全にはみ出ているアタリもあるようです。
本来のグレーゾーン(どちらとも言えないアタリ) のほかに、「限りなくハズレに近いアタリ」や「グレーゾーンですらないアタリ」もあるのです。
●限りなくハズレに近いアタリ
ほとんどハズレなのに、ついアタリと考えてしまう危険な罠があります。無意識のうちに期待に反する情報だけを、より厳しくチェックしてしまうのです。
期待通りの情報ならすぐ受け入れるのに、期待に反するときは、注意深く粗探しをして、もっともらしい批判を加えるというのです。[*1]
たとえば、試験で悪い成績をとった学生が、自分の不勉強を棚に上げて、「試験が不公平」 だったせいにしたがっているとします。そこでこの学生は手始めに、試験問題に曖昧な設問がなかったか探してみます。
もし見つかれば、「試験が不公平」だったことが証明されます。見つからなければ、次は出題に偏りがなかったか調べてみます。もし見つかれば、やはり「試験が不公平」だったことになります。
見つからなければ、また別の何かを探し始めます。そしてこの作業は試験の不公平さが証明されるまで続けられるのです。
これを姓名判断に置き換えてみると、こんなふうになるでしょう。判断の結果と事実が合致しなかった場合、技法やルールを疑う代わりに、他の都合のよい理由を持ち出してくるのです。
旧字体の画数を用いた(あるいは用いなかった) ことを疑うのではなく、数の吉凶や意味が間違っているとか、他の画数合計が影響した、などと考えてしまうのです。
枠組み自体を疑うことをせずに、細部を修正することで不可解な事態を説明しようすれば、既存の流派が淘汰されるどころか、新しい亜流がどんどん増えていくのも自然の成り行きです。
●グレーゾーンですらないアタリ
ハズレを都合よく解釈してアタリと思い込む以外にも、より多く「当った」 気にさせる原因があります。
そのひとつとして、アイゼンクは「多くの人が自分では持っていると思い込んでいる性格がある」 といいます。たとえばアメリカ人なら、「あなたはユーモアのセンスがありますね?」といわれると、大部分の人は当ったと思うそうです。
ところが別の実験によると、アメリカ人の98%は自分にはユーモアのセンスがある、と考えているのです。つまり、「あなたはユーモアのセンスがありますね?」とは、誰にでも当てはまる性格描写でしかなく、グレーゾーンですらないのです。[*2]
このようにして、当った気がするケースはどんどん増えていきます。そして、たくさんの当った(と錯覚している)ケースに紛れて、どう理屈をつけてもアタリとは考えられないケース、つまり決定的な 大ハズレ がほんの少しだけ残ります。
すると、「こんなに当っているのだから、例外的にハズレが見つかっても、気にするほどのことはない」となります。こう考えれば、姓名判断で矛盾した解釈をする多くの流派が、なぜ淘汰されずに今も生き残っているか、説明がつきます。
しかし、以上の推論が正しいとしても、「姓名判断は当らない」と証明されたわけではありません。言えることはせいぜい、「当らない流派がたくさんある」という程度でしょう。
●アタリ・ハズレをどうやって調べるか?
では、姓名判断が本当に当るかどうか調べるには、どうしたらよいでしょうか。T.ギロビッチは『人間 この信じやすきもの』の中ですばらしい提案をしています。[*1]
姓名判断がどの程度当るか知りたければ、当った場合だけでなく、外れた場合についても考慮せよというのです。
それには、『超常現象をなぜ信じるのか』(菊池聡著)に従って図のような4分割表を作り、すべてのマスの割合を調べればよいことになります。[*3]
ふつうは表のAの情報だけで判断しがちですが、これでは当たったのが単なる偶然なのか、そうでないのか区別がつきません。そこで、すべてのマスについて調べる必要があるわけです。
もし、ハズレ(表のB)や指摘されなかった重要な事実(表のC)に比べて、Aの件数が少なければ、アタリというより単なる偶然だった可能性が高くなります。
これらの割合を正確に計算するには、アタリ・ハズレを厳密に定義しなければなりません。占い結果の時期、場所、内容、程度などを明確にし、グレーゾーンの結果をアタリ、あるいはハズレに分類しないよう注意が必要です。
さらに、グレーゾーンですらない結果(たとえば「あなたはユーモアのセンスがありますね?」など)も慎重に排除しなければいけません。
しかし、このような厳密で組織的な調査はそう簡単にできることではありません。というわけで、本格的な調査はなかなか実現しない、ということになります。
●アタリ・ハズレの調査は難しい
このことを自ら体験された和泉宗章氏は、『占いの謎』のなかで、占い結果の追跡調査がいかに困難であるかを書いています。
過去に鑑定した約4千人の依頼者データをもとにアタリ・ハズレの調査を始めたところ、すぐ頓挫したそうです。
というのも、調査対象者の4割ほどが鑑定を依頼した事実を否定したためで、しかも調査の継続には手間と時間と費用がかかり過ぎて、とても一人ではできなかったというのです。[*4]
和泉氏が調査したのは「算命占星学」という推命術ですが、姓名判断の調査でも同じことがいえるでしょう。ただでさえアタリ・ハズレの見極めは難しいのに、かつての依頼者から「鑑定を頼んだ記憶がない」と言われたのでは、お手上げです。[注]
では、依頼者がみんな協力的で、大勢の調査員と心理学者と統計学者が揃いさえすれば、姓名判断のアタリ・ハズレが分析できるでしょうか。それがそうはいかないのです。
●「姓名判断は当るか?」という問いは正しくない
一般に「姓名判断」と呼ばれている占いは、すでにお気づきのとおり、実際には無数の異なった姓名判断の総称です。そこには複数の技法とその組み合わせ方、占い師ごとに異なるルール、そして多様な、しかもしばしば矛盾する解釈がありました。
その中から、いったいどれを選んで調べたらよいか、という問題があるわけです。
科学哲学者のカール・ポパーは「ある理論が科学的かどうかは反証可能性にある」という主旨のことを書いています。その理論が正しいか、誤っているかテストできないようでは無意味だというのです。
なぜかといえば、「ほとんどすべての理論について確認例ないし検証例を得ることが容易にできる」からです。[*5]
姓名判断は科学ではないので、同じ基準を当てはめるのは筋違いかもしれませんが――姓名判断を科学だと断言する占い師もいるようですが、いくらなんでもそれはないとして――姓名判断には反証可能性どころか、検証するための統一された技法・ルール・吉凶評価・解釈さえもないのです。
つまり、「姓名判断は当るか?」という問いの立て方がそもそも間違いなのです。正しくは「占い師○○氏の方法は当るか?」でなければなりません。
そして過去において、あらゆる種類の姓名判断が厳密に調査された事実はないので、この問いの答えもまだ得られていない、ということになります。
白黒をはっきりさせたい人にとっては、もどかしい限りでしょうが、これが姓名判断の実状です。
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