成唯識論は名前の神秘性を保証したか?
ある辞書で仏教語の「名詮自性」を調べたところ、次のように書いてありました。
「名前は物そのものの本性(自性)をそなえ、そのものをよく言い表しているということ。名称と実質が相伴っていること。」
占い師は、この語句が姓名判断の根拠であるかのように引用していますが、はたしてそうでしょうか。仏典は、名前がもつ神秘的な作用について、論じているのでしょうか。
出典の『成唯識論』を紐解いてみると、そんなことはないようです。
●「ことば」は実体をもたない
「名詮自性」の語句は『成唯識論』第二巻の始めのほうにでてきます。とりあえず日本語訳をそのまま抜き出してみましょう。
このままでは何のことやらチンプン、カンプンです。そこで次の問題は、この暗号文には何が書いてあるかということですが、これが相当に手強い。
結論を先にいうと、『成唯識論』のこの部分は、「ことば」が実体をもつかどうか、ということを論じているのです。(孔子や荘子の名実論と似ていますね)
「ことばが実体をもつ」などというと、ずいぶん奇妙に聞こえますが、とにかくそのように主張する仏教学派が昔のインドにあったのです。そこで『成唯識論』の論者は、そうした他の学派の矛盾を指摘し、「ことばには、実体など無い」と反論しているのです。
「本当にそんなことが書いてあるのか?人が知らないと思って、いい加減なことをいっているのではないか?」
そういう疑い深い(大変結構なことです)人のために、少々遠回りになりますが、私が理解した範囲の仏教史を語ることにしましょう。思い切って話を単純化すると、次のようになります。
●釈尊は霊魂の存在を認めた
仏教の開祖である釈尊――釈尊とは、お釈迦さまの尊称です――は「無我」を説いたといわれます。ここでいう「我(アートマン)」とは、自己の核となる霊魂みたいな何かです。釈尊が説いた「無我」の意味は、「霊魂というのは、これこれだと説明できるシロモノではない」というのです。
それまでの様々な哲学思想では、人間には霊魂があり、その霊魂は不滅で固定的な本体または機能などとして考えられていました。しかし釈尊は、霊魂をそんなふうに不滅で固定的と考えるのは、誤りだとしました。[*2-3]
そうなのです、「霊魂は存在しない」などとは言わなかったのです。それどころか、釈尊は霊魂の存在を積極的に承認し、当時のインド社会で一般的な輪廻思想も認めていました。
ただ、霊魂の正体は何か、輪廻の主体は何かについて、具体的に説明しなかっただけなのです。きっと霊魂があまりに複雑なものなので、うまく表現する方法が無かったのでしょう。
ところが釈尊の入滅後、いつしか弟子達は「霊魂などというものは存在しない」と考えるようになりました。「・・・ と定義したものは霊魂ではない」から「霊魂は存在しない」というように、釈尊の教えが変化していったのです。
しかし霊魂を否定すると、こんどは輪廻や因果応報のしくみを説明しにくくなります。人間に霊魂が存在しないなら、輪廻の主体はどうなるのか?この私の善い行い、悪い行いの結果を引き受けるのは誰なのか?
●説一切有部の法(ダルマ)の概念
当時、仏教の一派に説一切有部というグループがありました。説一切有部とは変わった名称ですが、「一切(の法)は(実体が) 有る」と主張したことに由来するそうです。
彼らは「霊魂、つまり永遠不滅の我(アートマン)は実在しないが、我の構成要素である法(ダルマ)は実在する、その法が見かけ上の輪廻の主体を作り出している」と考えました。これで霊魂が無くても、輪廻や因果応報のしくみをうまく説明できると思ったのです。
「法」とは何か。これが実に理解しづらい概念なのです。自然界にある もの それ自体ではなく、「自然的存在を可能ならしめているありかた」とか、「存在の要素」などの意味とのことですが、どうもピンときません。[*4-5]
たとえば、ここにガラスのコップが置いてあるとします。この場合、コップの丸く細長い形は「色」という法、堅くなめらかな手ざわりは「触」という法だそうです。
説一切有部はこれらの「色」や「触」といった法が実在すると考えました。そして幾種類もの法の中に「ことば」までも含めました。「ことばは実在する、ことばには実体がある」と主張したのです。
●『成唯識論』は「ことばには実体がない」と説く
これに対し、唯識論を唱えた唯識派は、「我(アートマン)だけでなく、法(ダルマ)もまた実体がない。存在するのは「こころ」だけだ、これが輪廻の主体である」と主張しました。「識(こころ)だけがある」と説いたので、唯識というわけです。
一見、「我」を「こころ」に言い換えただけのようで、釈尊以前の霊魂実在説に逆戻りしたように思えます。
しかし、「我」は常住不変で固定的であるのに対し、「こころ」は瞬間的な生滅を繰り返しつつも、途切れることなくその生命を維持しているというのです。ちょうど川の流れのように、一瞬一瞬が変化しているようには見えないのです。この点が両者の違いのようです。
そういうことで、『成唯識論』はこの「こころ」の働きを中心に解説した理論書なのです。[注]
●「唯識三年、具舎(くしゃ)八年」
唯識についてのこれ以上の解説は、私の能力を超えることもあり、割愛させていただきます。
それに「唯識三年、具舎八年」という言葉があるそうです。「唯識論の基礎に相当する具舎論を八年学べば、唯識論は三年で分かる」という意味で、結局、唯識論を理解するには11年もかかるというのです。こちらとしても、そんなに長くは付き合っていられませんよね。
ところで、唯識派が「法もまた実体がない、存在するのは識だけだ」と主張するからには、説一切有部の「法は実体をもつ」を論破しなければなりません。
そこで、『成唯識論』はさまざまな反論を繰り出して、説一切有部が説く「法」を「それは実体がない」と批判するのです。そのひとつとして「ことばには実体がない」がでてくるわけです。
●「名詮自性」の解読
これで大体の背景説明は終わりました。次は、いよいよ本題の「名詮自性」 の解釈です。
仏教ではことばを名、句、文の三つに分類します。「名」 というのは、人名のことではなく、ものの名称または単語のことです。そして、句は文章または命題、文は音素または音節の意味だそうです。[*6-10]
たとえば「松は緑(色をしている)」 という文章を考えてみましょう。この文章全体は句であり、松や緑は名です。文章全体(句) や松・緑(名) の発音を構成する「ま」「つ」「は」 などは、文ということになります。
そして、「松は自性を詮し ・・・」といえば、「松は梅でも桜でもなく、まさに松であること」を意味します。[*10]
したがって、この場合の「自性を詮し」は「固有性・独自性を表現し・・・」程度の意味になるでしょう。こうして見ると、「名詮自性」の語句は、ことばを名・句・文に分解して、単に名の役割を説明しているだけのようです。
●文脈に沿った「名詮自性」の意味
念のため、関連部分の全体を概観してみましょう。こんな感じになるようです。
●「名詮自性」は姓名判断の根拠にならない
もし、上記の意訳が大筋で間違っていないとすれば、「名詮自性」 を姓名判断の根拠として引用するのは、孔子や荘子の引用と同じく、ピントはずれということになります。
仮に名(ものの名称、単語) を拡大解釈して、人名まで含めるとしても、『成唯識論』 を引用するのはまずいでしょう。なぜなら、「名が実体を持つ」 とは説一切有部の主張なのです。『成唯識論』 はこれを批判する立場です。
どうしてもこの議論を姓名判断の権威づけに利用したければ、説一切有部の論書から適当な文句を探さなくてはいけません。
ついでながら、「名は体をあらわす」 ということわざも、たいして深い意味はないと言えそうです。たいていのことわざには反対の意味のことわざがありますから。それをさまざまな場面で都合よく使い分けているに過ぎません。
たとえば、「鳶が鷹を生む(平凡な親が優秀な子供を生む)」 に対しては、「瓜の蔓に茄子はならぬ(平凡な親からは非凡な子は生まれない)」 というのがありますね。「名は体をあらわす」 に対しても、こんなのがありました。「名有りて実なし。(評判ばかりで実質が伴わない、有名無実)」
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