当シリーズは、『「姓名判断は中国四千年の歴史」は本当か?』の続きとして読んでいただくと、より話が分かりやすくなります。
さて、「現代の姓名判断」と聞いて、数霊法を思い浮かべない人はいないでしょう。姓名の各文字の画数を足し合わせ、その合計数で運勢の吉凶を判断するという あれ です。今や姓名判断の代表的な技法として、すっかり定着しました。
ですが、姓名判断に数霊法が登場したのは明治中頃なので、まだ100年くらいの歴史しかありません。比較的あたらしい技法ということです。
●明治中期までの姓名判断
字画数を使った姓名判断は、数霊法が現れる以前にもありました。「梅花心易」という易を用いた技法です。
一般に知られている易は、筮竹をジャラジャラやるか、サイコロやコインを振って卦を立てますが、この梅花心易は「数」で卦を立てることができるのです。そこで字画数の占いに応用されたのです。[注1]
易を用いた姓名判断は、数霊法が出現して以降、人気が低迷しています。現代でも消滅したわけではありませんが、平成以降に姓名判断で易を用いる占い師はごく少数です。
とはいえ、歴史的には易の方がずっと古く、少なくとも江戸前期には知られていました。『韻鏡秘事大成 五』(小亀益英著、1679年)の第十九「易卦之事」には易を用いた姓名判断が記されていますから、かれこれ350年間も続いていることになります。[*1] [注2]
●梅花心易の姓名判断への応用
梅花心易といえば、『聚類参考 梅花心易掌中指南』(馬場信武著、1697年)が有名ですが、それより50年以上も前の1643年に、中国渡来の原著『家伝 邵康節先生心易掛数』が翻刻されているそうです。[*2-3]
こちらのほうが『韻鏡秘事大成 五』より文献的に古いので、小亀益英も同書を研究した可能性があります。ただ、原著にも馬場信武の『掌中指南』にも姓名判断への応用はでてきません。小亀益英か、誰か別の日本人が創案したのでしょう。
両書には「西林寺額占」という占例がでています。これは 西 林 の二字で占う方法ですが、これにヒントを得たのかもしれません。というのも、当時は「人名反切」という占いがあり、実名(名乗)の二字で吉凶を占うのが普通だったからです。
武家や公家の男子は元服すると、幼名を改め、実名を付けました。これが名乗ですが、別名「二字」ともいったそうで、「西林寺額占 → 二字の姓名判断」はすぐに結びつくアイデアです。小亀益英の方法はまさに 二 字 だけの姓名判断です。
●「人名反切」とは
ちなみに「人名反切」とは、漢字の字音(読み方、発音)を示すための「反切」を、名前の吉凶判断に応用したものです。こちらは字画数こそ使いませんが、梅花心易よりさらに古い歴史があります。[注3]
すでに消滅した技法ですが、最も古くは12世紀の『江家次第』に記録があり、少なくとも大正期(1920年代)までは用いられたので、この人名反切は800年近くも続いたことになります。[*4] [注4]
このほかにも、江戸庶民に親しまれた一種の姓名判断がありました。「姓名判断」とは言っても、運勢を占うわけではなく、生まれた年と名前の相性によって、単に吉か凶を判断するだけの超シンプルな占いです。[注5]
ついでながら、15世紀中頃に成立した『壒嚢鈔』には、各種の姓名判断的なネタが集められています。ただこちらは、語呂合わせ、字謎、あるいは連想による吉凶判断ばかりです。技法と呼べそうなものは出てきません。[注6]
●「人名反切」の衰退
昭和に入り、いまだに反切が人名に誤用されているとして、過激な批判文を書いた占い師がいます。業界きっての毒舌家にして、姓名判断書でただ一人、発禁処分にあった人物、根本圓通(円通)氏です。[注7-8]
ここで非難の矛先を向けているのは高橋成允氏ひとりですが、別のところでは同業者を片っ端から切り捨てます。
いやはや、なんとも凄まじく、根本氏の毒舌はとどまるところを知らない、といった観があります。
後半の引用は人名反切に限った批判ではありませんが、この勢いで攻撃されたら、「800年の歴史」もたまったものではないでしょう。なぜ人名反切が現代まで生き残れなかったか、その理由が分かったような気がします。