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ニ字姓と歴史の皮肉(1): ニ字姓ニ字名は姓名の標準型か?

●「無い」ものが有るという不思議

姓名判断の一部の流派には「一字姓、一字名には1を足す」というルールがあります。これは昭和前期に活躍した占い師、熊﨑健翁氏の創案です。

熊﨑氏はこの1を仮成数と呼びますが、彼がこの新ルールを姓名判断に持ち込んだのには、ちょっとした訳がありました。彼が組み立てた数霊法では、ニ字姓ニ字名を標準型にしないと都合が悪かったのです。

ここで数霊法を確認しておきましょう。占い師の多くは5種類の画数合計を使い、名前が「渡辺直美」 さんなら、次のようになるということでした。

  ① 渡(の画数)+辺(の画数)
  ② 辺(の画数)+直(の画数)
  ③ 直(の画数)+美(の画数)
  ④ 渡(の画数)+美(の画数)
  ⑤ 渡(の画数)+辺(の画数)+直(の画数)+美(の画数)

熊﨑氏は画数合計の④を「外格」と命名しましたが、これは「姓の外側にある文字と、名の外側にある文字の画数を合計したもの」を意味します。

そこで、④に着目すると、渡辺直美さんの外格は、「渡(の画数)+美(の画数)」で、確かに外側の文字の画数合計になっています。

では、一字名の「渡辺謙」さんでは、どうなるでしょうか。あれ?何か変ですね。名は「謙」の一文字しかないので、内側も外側もありません。「渡(の画数)+謙(の画数)」のようにできなくもないのですが、何となく気持ちが悪いです。

数霊法は明治・大正期からある主要な技法ですが、熊﨑氏以前の占い師は①③⑤の3種類しか用いませんでした。なので、このような問題は起こらなかったのです。

そこで、熊﨑氏が考えた秘策は「ニ字姓ニ字名を標準型にする」ことでした。『姓名の哲理』のなかで彼自身がほぼ次のように書いています。[*1]

姓も一字、名も一字という場合、外格となるべき対象がありません。しかし物には必ず内があれば外があり、裏があれば表があるのは当然です。たまたまそれが無いのは、無いのではなく、形に表れないだけのことです。

ですからこのようなときは、万有の基本である「一」をもって外格を仮成します。つまり、二字姓名〔一字姓一字名〕の場合は上下〔の仮成数〕を合わせて「二」が外格となり、一字姓の場合は上に一を加え、一字名の場合は下に一を加えて外格を作るのです。

『姓名の哲理』(熊﨑健翁著、春秋社、昭和6年刊)

●「無い」ものは無い!

しかし、いくら姓や名に二文字の人が多いといっても、これを標準とするには少々無理がありそうです。

それに、熊﨑氏のルールでは、姓や名が一文字の場合、①と③には1を加えるのに、⑤には加えないことになっています。このように一貫性が無いため、後の占い師の一部が仮成数の1を無用としたのもうなずけます。「無いものは無い」というのが彼らの主張です。

こんな無理をしてまでも四字姓名を基本としなければならない根拠はどこを探しても見出せない。

『占い大研究』(石川雅章著、広済堂出版、1977年刊) [*2]

では、渡辺謙さんの外格はどうなるかというと、「渡(の画数)+謙(の画数)」とするのです。そう、熊﨑氏が気持ち悪いと思った(かどうかは知りませんが)あの取り方です。彼らは、ありもしない1を足すほうが、よっぽど気持ち悪いと思ったのでしょう。

さて、このまま両者の見解を聞いているだけでは、らちが明きません。そこで、ニ字姓とニ字名が多くなった背景を調べることにしました。姓名判断的な合理性が何か見つかるかもしれません。

●二字姓、二字名の歴史的背景

姓名判断は「統計」とは言いがたい』で見たとおり、日本人の姓名に二字姓二字名が多いのは間違いないようです。ただ、そこには多くなるだけの理由があったのです。

特に二字姓については、ふたつの歴史的な事情が関係していたことがわかりました。ひとつは、姓がその昔、地名にもとづいて付けられていたこと。そしてもうひとつは、こちらが重要なのですが、もっと以前にこの地名が中国の影響で二字化されていたことです。

二字化された地名がもとになって姓がつくられれば、二字姓が多くなって当然でしょう。

現代では姓も名字も同じに扱われていますが、昔は違っていました。姓は古代からあり、正式なものです。名字はそれより後世に作られ、通称として使われるようになったものです。[注1]

名字は姓より便利だったので、名字は急速に広まりましたが、姓はしだいに日常生活で使われなくなります。そのうち、姓と名字が混同されるようになり、明治に入ると、政府の布告で名字のみが用いられるようになったのです。[注2]

●姓と地名

古代では、「姓」を与えることは天皇の権限であり、姓を名のることは天皇支配を受け入れることを意味しました。そして古代豪族の姓は、およそ70%が彼らの居住する地名から起こっているといいます。

余談ながら、天皇は最上位者として姓を与える側なので、天皇には姓がないのだそうです。

●名字と地名

一方、平安時代末に武士の間で生まれた通称が「名字」です。中世の武士の多くは、自分が支配する領地の地名を通称(名字)にしていました。通称なので、勝手に名のることができましたが、名字は朝廷で正式には認められなかったそうです。[注3]

たとえば、北条時政の「北条」は名字で、姓は「平朝臣たいらのあそん」です。ということで、日ごろは「北条時政」と名のっていても、公式の場では「平朝臣時政」と称したそうです。

また、徳川家康の姓は源朝臣みなもとのあそんだったので、彼に位階や官職を与える文書には「源朝臣家康」と書かれました。

武家社会で名字が使われ始めると、すぐに普及しました。この頃になると、古来の姓である藤原などを名のる人数が多くなりすぎて、お互いの区別がつかなくなっていたからです。

誰も彼もがさん、さんでは、確かに不便だったでしょう。「おーい、藤原さーん」と呼んだら、10人くらいが一斉に振り向くというのでは、ややこしくてかないません。名字を持てば、姓が同じでも問題解決です。

また、特に領地の地名を通称(名字)とした理由は、自分がその土地の領主であることを誇示できたからだそうです。[*3] [注4]

姓と名字は起源が異なっていましたが、どちらも地名に深い関連があったわけです。[注5]

そのようにして作られた名字でしたが、もとになる地名が奈良時代に朝廷の命令で二字に変えさせられていたのです。(つづく)

=========<参考文献>========
[*1] 『姓名の哲理』(熊﨑健翁著、春秋社、昭和6年刊)
[*2] 『占い大研究』(石川雅章著、広済堂出版、1977年刊)
[*3] 『日本人の名前の歴史』(奥富敬之著、新人物往来社)
[*4] 『地名の研究』(柳田國男全集20 所収、筑摩書房)
[*5] 『名字と日本人』(武光誠著、文藝春秋)

==========<注記>=========
[注1] 名字と苗字
 名字と苗字も厳密には同じでない。ただ、ここでの議論にあまり関係がないので、一応、同じものとしておこう。

[注2] 明治政府の太政官布告
 明治政府は明治4年10月の太政官布告で、公用文書には姓でなく、名字のみを用いるよう指定した。同年4月にはすでに戸籍法が制定されていたので、この時から名字は個人の特定に決定的な役割を果たすようになった。

[注3] 地名と名字の関係は中国と日本で反対[*4]
 民俗学者の柳田國男は、地名と名字の関係は中国と日本で反対だ、と書いている。中国ではよその土地に移住する場合、「満州の平原などで村を作り、自分の家号を地名にして陳家屯ちんかとん楊家寨ようかさい柳家店りゅうかてんなどと呼ぶ」といい、引っ越し先の地名を勝手に変えてしまうそうだ。
 わが国は逆で、移住者はもとの名字を名のらず、「他人からは現在の居所の地名をもって呼ばせて」いた。「武田が上総・若狭に行っても、なお武田であるような風は鎌倉時代の末からである。すなわち日本では地名の方が不動で、家名が動いたのであった」という。

[注4] 名字の意味
 「名字」の「みょう」は領地をあらわし、「名字」とは「領地の地名」の意味になる。

[注5]地名と関係が深い名字[*5]
 『名字と日本人』(武光誠著)によると、日本人の名字は約29万種あるが、そのうち同種のもの、たとえば島田と嶋田、斎藤と斉藤などを同じものとして数えると、9~10万種になるという。
 そして、このうちの80%以上が現在の地名に対応するが、今では失われた地名も含めると、90%にも達する。この90%の内訳は、地名から発祥した名字が約70%、反対に名字にちなんで付けられた地名が約20%であるという。要するに、日本人の名字は約7割が地名からきたことになる。


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