漢字の画数問題は占い師を悩ませたか?
●主要五流派の画数の取り方
漢字の画数問題は少々込み入っているので、まず全体像を把握しておきましょう。話を進めやすくするため、画数の取り方の違いによるグループ名として、以下の仮称を用いることにします。
●画数問題の変遷
明治の中頃(1890年代)、現在も使われている数霊法の原型が、初めて占い本の形で世に現れます。それ以降、大正末期までの約30年間に、確認しただけでも60人以上の占い師が、100冊以上の姓名判断書を著しています。[注1]
この頃の漢字といえば旧字体のことで、大半の占い師は画数のよりどころとして、江戸時代から使われていた康熙字典を用いたようです。占い本に掲載してある漢字画数の一覧表からも、占い師の多くは旧字派だったと考えられますが、少数ながら常用派や戸籍派もいました。
ついで、昭和に入ると、まもなく康熙派が現れます。この特殊な画数の数え方が、現代の姓名判断で主流となっている数霊法に持ち込まれたのは、このときが最初と考えられます。
旧字派と康熙派は、同じ康熙字典を用いても画数が異なる場合があるので、両者の対立は必至となります。[注2-3]
昭和20年〔1945年〕に終戦を迎えると、漢字の一部が簡略化されて、新字体が内閣告示されます。昭和21〔1946年〕~昭和24年〔1949年〕のことです。画数問題に新字派が参入するのはこの時期からで、いよいよ五流派が入り乱れての複雑な事態に発展していきます。
●新字体の登場で占い師はどうした?
漢字は、新字体と旧字体のどちらを用いるかで、姓名判断の結果が正反対になることがあります。戦前は旧字体しかなかったので、漢字の字体を気にする必要はありませんでしたが、戦後に内閣告示された新字体は占い師にとって大問題のはずでした。
そこで、こう考えました。「法律で人名用漢字が制限され、そのうえ旧字体が使えないとなれば、さぞや当時の占い師は狼狽しただろう」と。[注4]
試みに、新字体が世に出た前後の時期で姓名判断書の出版にどんな変化があったか、独自に集めた占い本データを使って調べてみました。すると、1940年代の10年間に出版点数が激減していたのです!これこそ占い師が字体問題でいかに悩んだかを示す、厳然たる証拠ではないか?
ところが、さらに調べてみると、どうもそうではなかったようです。実は昭和16年〔1941年〕、政府が内務省を通じて暦の出版を禁じ、次第に占い書全般を取り締まるようになったのです。占いは迷信であり、人心をいたずらに惑わすから、というのが理由のようです。
●まずは旧暦の廃止から
暦がなぜダメかというと、大安とか仏滅などの「日の縁起」 や、一白水星、九紫火星などの九星による吉凶判断は暦に付随したものであるから、迷信の温床になっているというのです。
旧暦(陰暦) を廃止し、新暦(太陽暦) を普及させて、「非科学的な因習」(当局の表現) を一掃しようとの狙いだったのです。
昭和16年5月3日の読売新聞(東京)夕刊には、大見出しで次のように出ています。
この記事に続いて、高島易断総本部の高島象山氏による政府批判が掲載されています。当時の占い師の反応を代表するものとして、参考に見ておきましょう。
この時点では、まだ旧暦の廃止に重点が置かれており、占いそのものは規制の対象になっていないようです。しかし、わずか1ヶ月後には、その範囲が占い全般にまでおよびます。
●政府の取り締まり強化
昭和16年6月3日の東京日日新聞(現在の毎日新聞) 夕刊には「でたらめ占師追放」 と題して、次のような記事が載っています。
それからおよそ3ヶ月後の8月28日、同じく東京日日新聞の夕刊は8月中旬の一週間だけで5件の占い書籍が「迷信的出版物」 として発禁処分を受けたと報じました。
この記事の中で、以後の取り締まり強化につき、当局の担当課長は次のように気炎をはいています。
その後も、二十八宿、九星術、陶宮術、家相、夢判断、まじない、米相場必勝法など、占い系の書籍が続々と摘発され、発禁処分を受けることになるのです。
●占い師にとっての大氷河期
発禁理由を見ていくと、「時期のいかんを問わず、吉凶、禍福、運勢等を知る方法を掲げているので、万年暦の一種である」「皇室に関する不敬記事を掲載している」「いたずらに恐怖心をあおっている」などというのがあります。これらの理由はどう考えても旧暦とは無関係です。[*1-2]
こうなっては占い師も出版社も戦々恐々でしょう。その気になれば、当局は発禁理由などいくらでもひねり出せるのですから。危なくて、新たに占い本を出版するどころの話ではありません。[注8]
かくして、大正期から昭和初期にかけての姓名判断ブームは、すっかり冷めてしまいました。占い師にとっての大氷河期がやってきたのです。
●姓名判断の復活
ところが、昭和20年〔1945年〕8月15日に太平洋戦争が終結し、昭和22年〔1947年〕5月3日に新憲法が発布されると、思想・信仰・出版等の自由が保障されることになりました。おかげで、姓名判断書は再び日の目を見ることができたというわけです。
1940年代の出版点数の減少には、こうした背景があったのです。戦時下でもあり、書籍・雑誌の印刷用紙が割当制になるなど、出版物の絶対数が制限されたことも影響したでしょうが、それにしても漢字の字体変更とはほとんど関係がなさそうです。[*3-4]
どうやら漢字の新・旧字体で一番悩まされたのは、姓名判断を商売にする占い師ではなく、私たち利用者だったようですね。