井上円了と姓名判断<続>:「真怪」疑惑、いよいよ深まる
●井上円了の「姓名判断」批判
『井上円了と姓名判断』では、「円了氏が字画数を使った姓名判断には否定的だった」という楠本博俊氏(『名称教育精義』の著者)の証言を紹介しました。[*1] [注1]
実はこの記事の原稿はだいぶ昔に書いたもので、当時はこれ以上の情報を入手できませんでした。今回、その後に分かったことを追記します。
それは『真怪』(井上円了著、大正8年)に収録された記事です。この第四十三項に長年探し求めていた記述がありました。次ような内容です。
●『真怪』第四十三項 姓名判断の当否
●疑惑の解決と新たな疑問
上記のとおり、円了氏の考えは、名前の字義がその人を導く「名称教育」であり、「姓名の字画がその人の運命を支配するという道理はない」と、字画数による姓名判断を否定しています。
この点は楠本博俊氏の記述とも一致します。円了氏が「字画による姓名判断など信じていなかった」と確認できたのは一歩前進です。
その一方で、新たな疑問も生じました。「では、十四、五年前の来訪客とは、実際にどんなやり取りがあったのか」という点です。その客は円了氏に「自分は姓名によって運命を判断することを発見した」と語ったことから、恐らく『姓名は怪物である』(初版)を持参した山川景國氏でしょう。
客の来訪は『真怪』出版の大正8年より「十四、五年前」とあるので、明治38~39年頃になります。山川氏の『姓名は怪物である』(初版)は明治45年刊ですが、年数のずれは円了氏の記憶違いかもしれません。
問題なのは、山川氏が訪問したときの状況描写が、両者で正反対なところです。山川氏は、円了氏が「面白い研究だと興味を示した」と書いているのに、円了氏の方は「私の説は名称教育法であって、字画による姓名判断とはまったく別ものである。その話をしただけだ」とあります。[*3-4] [注2]
●「真怪中の真怪」疑惑、いよいよ深まる
これに続いて「私が〔字画による姓名判断を〕伝授したなどといわれるのは誠に迷惑千万と申さねばならぬ」とあり、円了氏がかなり気分を害している様子もわかります。
しかし、それならば円了氏が否定する「字画数による姓名判断書」になぜ題字を提供する必要があったのか、という疑問が生じます。
明治45年というと、円了氏はすでに著名な大学者です。突然訪ねてきた一介の占い師に、忙しい時間を割いて面会し、そのうえ筆まで執って題字を揮毫したとなると、時間的にも精神的にも結構な負担だったでしょう。仮に山川氏が「題字」を懇願したとしても、断られて当然の状況です。
ところが山川氏によれば、「〔円了氏は〕名で人の運命を見るのは面白い研究だと、ご多忙中筆を執って、按名知実と題字を下さいました」というのです。「題字」が証拠として残されたことで、いよいよ真相がわかりにくくなりました。
●「真怪」疑惑はつづく
あるいは、「題字」そのものの真贋を疑うべきなのかもしれません。ですが、贋作の「題字」を再版の『姓名ハ怪物デアル』に堂々と掲載し、表紙にも扉にも「文学博士 井上円了先生 題字」と無許可で明記したとなると、「果たして、そこまでやるだろうか?」と思えてきます。
ということで、「円了氏は姓名判断を信じていたかもしれない」という疑惑は、直接的な反証(『真怪』中の記述)によって覆されたものの、題字にまつわる疑問は依然として未解決のままです。
仮に、この時の来訪客が山川景國氏とは別人だったとしても、状況は変わりません。やはり、この問題は「真怪中の真怪」疑惑として今後も残るのでしょうか。