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世界で一番白くて柔らかい⑤

にょっきとは一緒に3回ほど引っ越しをした。

環境になれるのに時間がかかる、猫は家につくなどの知識から、ストレスで不安定にならないかな?と心配していたけれど傍目には全く普段と変わらないにょっきだった。
わたしの方が変化に弱いじゃん、と思うほど安定していて、暴れたり泣き叫んだりもしなかった。

新しい家にもすぐ慣れ、自分の好きな場所をたくさん作った。母の部屋では、作業台の横にあるライティングビューローの上。そこでミシンをかけたり物作りする母を見下ろしていた。父のベッドにはよくにょっきがどこからか集めた靴下がいつもあった。父の映画鑑賞用の椅子の上。孫が遊びにきた時にと父の部屋に置かれた子供用テントの中。窓際の植物台の下。キッチンカウンターの横。ソファの端っこ。和室に置かれたクッションの上。

実家に帰ると、もういないはずのにょっきを、順番にその場所に探してしまう。

にょっきが死にゆく様を見つめ続けていた時には、思いもしなかった。
そこにいたから気づかなかったのかもしれない。いなくなったら消えてしまうと思っていたけど、その気配はけして消えないのだ。

ずっと居続ける。わたしはずっと、にょっきと別れ続ける。死ぬまでわたしは別れ続けるのだ。
まるであの歌みたいじゃないか、と腑に落ち涙が込み上げた。

にょっきは今年の2月頃から急速に弱り出し、病院に行った時にはそろそろ寿命ですねと医師から宣告された。それを知りちょこちょこ会いに行っていた頃は、ソファから飛び降りたりはできなくなっていたけどそれでもわたしの方へ向かって歩いてきていたし、余命があるなんてこと自体まるで信じられなかった。

1ヶ月ほどして、実家に戻る期間に少し合間が空いた時、母から連絡がきた。
「そろそろだと思うよ」

翌々日に行く約束をした。
わたしは怖かった。弱りきったにょっきを見ることが。ボロ雑巾みたいになっていたらどうしよう、と怖くて怖くて逃げ出したかった。わたしが今まで見たことのある死は、苦しくて、痩せ細って、わたしの知らない人になってしまうからだった。

緊張しながら実家に帰ると、母がすぐにょっきに声をかけた。
「おねえちゃんきたよ。にょっきバイバイしようね。」
ソファに寝ているにょっきは痩せこけていたしなにも動かなかった。涙が勝手にこぼれ落ちた。

そばに座り話しかけた。なにも反応もなかったけど、話続けた。
そして、にょっきはボロ雑巾じゃなかった。
美しかったし神々しくさえもあった。悲しいのはわたしだけだったのかと思うほどに悲壮感もなかった。

命の灯火がちいさくちいさく、そっとゆっくりとかすむように消えていくようで、とても穏やかでなぜか美しいとまで感じた。
抗いもなく穏やかに、にょっきは死をただひたすら待っているようだった。

涅槃のようだ…と呟くと、父は「本当にそう。声も出ないと思うんだけど、苦しみとか抗いがない感じがする。すごいよね」と言った。

人間は死を恐れ生にしがみつき抗う。にょっきからは全くそれが感じられなかった。
生まれる時と等しく感じるほど、命というのは消える時にもこんなに静かに美しいんだと感じた。
もちろんそれは、わたしのエゴでしかないことも気づいていたから、気持ちの落とし所がわからなくて、気持ちがあるとかないとか、好きとか嫌いとか何かに決めなくてはいけないことにすら雑味を感じた。
そんなところに、きっとわたしの及ばない何かなのだと思ったし、それはわたしの小さな罪のような願いだったのかもしれない。

翌日の午前中、仕事で出先にいたわたしの携帯が鳴った。父からのラインだった。

「にょっきが虹を渡りました。」とあった。

わたしは父の表現にくすりと笑ってしまい、それと同時に送られてきたにょっきの最後の画像にも笑ってしまった。こう返信した。

「ありがとう。ねえ、棺ちっちゃくない?」

しばらくは涙も出なかったし、火葬には立ち会えなかった。

数日後、夜眠る時に急に涙が溢れて止まらなくなりしゃくりあげて1人ベッドの中で泣いた。
苦しくて眠れない日も何度もあった。

誰にも電話しなかったしメールもしなかった。誰にも共有できないと思ったし話を聞いてほしいとも思わなかった、にょっきのことをほんの少しも、誰にも渡したくなかった。

別に平気だし生まれると死ぬし!という割り切れたわたしと、気を抜くとどこでも泣いてしまう自分の矛盾の中にいたわたしは、ああわたしはまたなにもできなかった、あの柔らかくて弱い輪郭を撫でていたかったのにと絶望したり、にょっき長生きだったな!とケラケラ笑ったりもできて、気持ちがいったりきたりしていた。

今はそんな自分を慰めようと、毎日にょっきのお花を飾っている。

白いお花を一輪だけ飾り、にょっきおはよう、と心の中で話しかけている。

首輪の鈴の音が聞こえるような気が、まだしている。
玄関を出る時、思わず振り返る。
いってらっしゃいと君が近づいている気がしてしまう。

世界でいちばん白くてやわらかいにょっきは、今どこで何をしているんだろうか。

いつも気取っていた君は、「わたし世界一なのよ、にんげんにいわれたことがあるの。」と言わんばかりにツンとした顔でしゃなりしゃなりと、どこかを幸せに歩いているのだろうか。

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