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街中でお神楽

今日また「街中でお神楽」に出掛けた。

必ずや毎日、「面倒くさい」と思う事が、やらねばならぬ時間前に起きてくる。

別に神さまに「毎日、街中でお神楽やります」とお約束した訳でも無いから、面倒ならば「止めた」でも構わないのだけれど、「やろうと決めた自分」に「やっぱりお前はダメやな。嘘つきやな」と言わすが嫌で、「面倒くさいの思い」をはねつけながら、今日もまたと、続けている。

で、街中でお神楽を勤めはするけれども、「誰彼におにをいがけ」「神名流し」が目的じゃなくて、どこまではまり切って勤められるかが目的に勤めていて、周りに誰ひとり居なくても、無心におつとめに、お神楽にはまり切れますようにと、始める前に、神さま、おやさまに真剣に祈りながら勤めている。

でも、始めて、歌い、踊り出すと、周りのひとが増えたり、眺めたりの視線を感じたりして、歌い方や踊り方に見栄が出たりする。

で、必死に地歌が意味をお手にする。
理を振るに集中する。

なかなかはまり切るが出来ない。
一心に勤め切るが出来ない。
やっぱり、雑念が入る。

終わって、「ああ、今日のはまり具合は〇〇%だったな。難しいな、はまり切るって・・・」なんて、今日も口にしつつ、自転車漕ぎながら、帰宅。

ただ、有り難い事に、街中でお神楽を始める前は、自転車で遠出も500メートル、歩いて遠出は100メートル未満だったのに、今は、1キロ以上自転車で行き来出来るようになった。歩くが少し楽になってきた。3ヶ月前は死にそうだったのに。

生きていると不思議な事がたくさんある。
神さまは、目には見えないけれども、神さまの思惑もまた分からないけれども、神さまは、私にテグスを付けて、何かあれば、リールを回して引き寄せられていると感じている。
親のようなやさしさを、お導き、お手引を感じている。
だから、街中で、恥ずかしがらずにお神楽をできる。

で、また、街中でお神楽、周りにおられる方々の7割は、おぢばがえり経験者と考えながら勤めている。多分、実際に、50歳代以上の人の7割はそうだと思う。

そして、勤める場所、今勤めている場所、この場所は、ひのもと庄屋敷、親もとなりの、にほんの地、おぢば、天理の地で勤めていると考えれば、周りはお道に関わるひとばかりとなるで、なにを恥ずかしがる必要も無く、意気揚々と互いを勇まし合うの思いで勤めさせて頂ける。

思いよう一つで、爺さんも、あらきとうりょう、こころは童、青年なり。






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