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父が遺した道標

父が亡くなったのは、2023年4月2日日曜日だった。

私達夫婦はその知らせを受け、とにかく急いで仕事関係に数日空ける旨の段取りをとった。そして家を出たのは、月曜日が火曜日に変わって間もなくの時間、500キロの隔たりがある。

実家は島根県の出雲地方。
早朝到着すると、父はすっかり小さくなって目を閉じていた。
とても綺麗な朝だった。

父を、凄い人だなと思えるようになったのは、ここ数年のこと。もっともっと話を聞かせて欲しい。教えて欲しい。語ってほしい。何故もっと早くに耳を傾けなかったのか後悔する。


父の葬儀の後、私達は松江に宿をとった。私は宍道湖が大好きだから。
私にとって一番の神様は、実家の神社と宍道湖にいらっしゃる気がしている。

その夕方、雲が多かった。でもその雲の間から夕陽が少しだけオレンジ色に姿を現すと、その光の一筋が『嫁が島』に重なった。そして『嫁が島』にある小さな鳥居の間を抜けて湖面にキラキラと光の道を作った。その道はあたかも、『嫁が島』の鳥居をくぐって天へと繋がる道のようだった。

葬儀の間不思議と悲しくなかった。父への感謝で心が温まっていたから。
でもその光の道を見た時、「さようなら、行くんだね。」と実感した。


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私は、占い師をしている。61歳の時、不思議なご縁を頂き、そうなった。
父も母も、私のチャレンジを応援してくれた。デビュー前には名前も考えてアイデアをくれたり、日曜日の出演の後の月曜日は必ず「昨日はどうだった?」と電話で聞いてはなんだか嬉しそうに「良かったね」と言う。そして最後に必ず「畏れ多いことをやってるんだから、必ずその人の幸せを考えなさい。」で締める。

あの人達は、私は占い師になる、っていつか言い出すよとわかっていたのか?と疑うくらい、理解があった。不思議だった。

父も東洋哲学に熱心な事は知っていた。
気功で私の肩凝りをほぐしてくれたり、腎臓癌が見つかって体調が悪くなり始めた時も、呼吸法や瞑想や、自分なりに勉強して、決して辛い苦しいとは言わなかった。
最期に向かう姿を示してくれたようだった。

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それでも、時間はその時へと否応なしに進んで行った。

ある日の電話口で「死ぬのは怖いな。会えなくなる。」と話してくれる。その穏やかな声に、私も「そんなことないよ。」なんて上面なことは言いたくない。本当に人生の師匠だなと誇らしく思う。私もこんな風な年寄りになりたい。もっともっと話していたい。車を停めて話すフロントガラスの向こうで、大きな白い雲がいろんなものに形を似せて流れて行く。

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2022年の秋になると、父の容体は、自宅で母の手には負えない程になり、入院を余儀なくされた。もう家に電話をかけても父と話すことはできない。
しっかりとした声の父と話せたのは年が明けて、2023年の2月、病院の計らいでLINE電話を繋げてもらえた。ちゃんとした会話ができたのは、それが最後だった。
病院暮らしの話の後「いつ来られる?」と。私は「3月末には行けるからね、ごめんね。」「よし、3月末だな。わかった。」

父は、待っていてくれた。
本当に待っていてくれたんだ。この事を、最後にもう一度私に伝えるために。
病室にはいると、父は何かうわごとの様な事を話すけれど、聞きとれない。
しっかり手を握って「来たよ。私だよ。」と言うと、突然声が鮮明になり「白神 ミズキさん」と私の占い師としての名前を呼ぶ。白神ミズキと付けたその名前を父の口から聞くなんて、自分でもピンとこなかった。覚えていてくれた。
そして
「えっ!」と私が耳を近づけると「人の幸せのためにな。」と言った。そしてまたうわごとになってしまった。

2023年4月2日の6日前の出来事だった。

*****


そして2025年の1月。父の言葉をきちんと残そうと思った。

父は、500キロの隔たりなどへでもない人?になった。いつでも側に感じる。
そして、父は占い師としての私の道標になった。
「人の幸せのために。。。占いをする」難しい。
でも、65歳になろうとする今、必要な道標だ。何が人生の豊かさなのか、何にプライドを賭けて挑むのか。

最期が来ることが、父のお陰で恐くなくなった。最高の贈り物を貰った。
私も親として、子ども達に、私が貰った愛を繋げたい。



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