Fumihiko

1958年生まれ。娘1人の3人家族。写真好き。日々出会う町のディテールや四季折々の自然…

Fumihiko

1958年生まれ。娘1人の3人家族。写真好き。日々出会う町のディテールや四季折々の自然や風景を記録。音楽の趣向はボッサノヴァなどブラジル音楽やアンビエントなジャズなど。読書は俳句や短歌が中心。FBは Aoki Fumihiko

最近の記事

これは自分の日々感じていることは、要するに小林秀雄氏と同じ境涯にあって、私の心にもたらされているものだったと、はっきり得心した。 これは若い人には理解できないことかもしれない。いや天命を知らねばならない時期に差し掛かった人間の特権なのかもしれない。そんな風に思った。

    • というと、「やっぱりそりゃ年だな」と彼は言った。物言わぬ自然は、目に見えぬ心の年齢をいちばん鋭敏に映す鏡なのであろうかと私は思った。 という箇所である。

      • そのエッセイの抜き書き。 「先年の秋、大原の寂光院の辺りを歩いていて、かつて何度も見た四囲の平凡な風物が、あきれるばかりの美しさで、目に映ずるのに驚いた。同行の三好達治君に、「俺は、近頃、こんな具合の自然の美しさが、骨身にこたえるといったあんばいなのだが、どうしたわけだろう」

        •  そこで最近、批評家の小林秀雄のエッセイを読んでいたら「年齢」という題で興味深いことが書いてあるのを発見した。 それは、毎日自分が眺めている近くの山々の美しさに、心の底から「うっとり」している自分の姿が、なるほど齢の程によるものか!と、そのエッセイを読んで納得したのである。

        これは自分の日々感じていることは、要するに小林秀雄氏と同じ境涯にあって、私の心にもたらされているものだったと、はっきり得心した。 これは若い人には理解できないことかもしれない。いや天命を知らねばならない時期に差し掛かった人間の特権なのかもしれない。そんな風に思った。

        • というと、「やっぱりそりゃ年だな」と彼は言った。物言わぬ自然は、目に見えぬ心の年齢をいちばん鋭敏に映す鏡なのであろうかと私は思った。 という箇所である。

        • そのエッセイの抜き書き。 「先年の秋、大原の寂光院の辺りを歩いていて、かつて何度も見た四囲の平凡な風物が、あきれるばかりの美しさで、目に映ずるのに驚いた。同行の三好達治君に、「俺は、近頃、こんな具合の自然の美しさが、骨身にこたえるといったあんばいなのだが、どうしたわけだろう」

        •  そこで最近、批評家の小林秀雄のエッセイを読んでいたら「年齢」という題で興味深いことが書いてあるのを発見した。 それは、毎日自分が眺めている近くの山々の美しさに、心の底から「うっとり」している自分の姿が、なるほど齢の程によるものか!と、そのエッセイを読んで納得したのである。

          この間の2月7日で65歳になった。 ここ数年間は毎日見る近くの山が、特に冬期間の雪山の美しさに遠くを見るたびに心が動き、常に携帯しているスマートフォンのカメラで折々に写しては、facebookなどのSNSに投稿しては、自己満足していることが日常的になった。

          この間の2月7日で65歳になった。 ここ数年間は毎日見る近くの山が、特に冬期間の雪山の美しさに遠くを見るたびに心が動き、常に携帯しているスマートフォンのカメラで折々に写しては、facebookなどのSNSに投稿しては、自己満足していることが日常的になった。