キャベツを育てていてふと思う、当たり前ということ。
丁度最近、友人に借りている畑にキャベツなどのアブラナ科の植物を植えた。今、キャベツ君は懸命に美味しくなろうとしている。そこに、ガの幼虫が昼間にウロウロして卵を産みつけて、夜になると(正確には朝の5時頃)葉っぱなどを喰いちぎってしまう。そのかじられたキャベツのその部分はダメになり、運悪くなのか茎をかじられたときには、キャベツの苗が、丸ごと一本ダメになってしまう。その虫は、皆がよく知るヨトウ虫(夜盗虫)だ。
何がいいたいのかと、察しがつく人もいるだろう。私のその友人が飲み屋のオネーサンにうつつをぬかしているようなのを、前々から私個人は感じ取っていた。私から見たら、そんなことは、キャベツ君が教えてくれていると、ふと思った。まるでそれって、そう、ヨトウ虫(夜盗虫)という表現があてはまるのではないのか?と。しかし、夜のおねーさんを悪く言うつもりはない。様々な事情がある方もいるだろうし、仕方なくその道を選ばなくてはならなかった人もいるだろう。彼女達はそれが仕事なのだから、夜盗でもなんでもない。そこに、下心満載で寄ってくるし、酔ってくる男性がそもそも夜盗虫ではないのか?などど考えながらキャベツが無事に結球してゆく様を楽しみにしながら、私は今日一日の疲れを身体に感じながら床につく。そんな私の隣には、嫁さんが普段と何も変わることなく、当たり前のようにスースーと寝息を立てている。その当たり前のことこそが、一番尊いものだと再確認する。
誰でもそうだと思うが、人を信じる事は昔から難しい事だろうが、それは、信じる人を自分が間違えていて、最初から分かり合えないようなタイプに向かって話をしているのであったと少しだけ歳をとった今の私はそうとらえられるようになった。ごった煮のおでんのような面白い今の世の中から、心から信じられる親友の様な人に最低一人でも出会えれば、それで十分すぎるのではないのか?
改めて、自分の身の周りを見て欲しい。本当に自分の中で大切で守らなければいけないモノはなんであるかを。もう少し自分の中で当たり前としてとらえていることも、他の誰かからしたら、当たり前ではないかもしれない。自分の周りに当たり前に存在しているモノやコトに、その場その時の感情に支配されただけの一時的な答えを、一歩引いて相手の立場からも考えてみることができたなら、もう少し人は違った歴史を通って来られたのかもしれない。だが、どんな状況が起こったとしても、ただ黙々と前に進むしか私にとっては意味がない気がする。そんな、基本的な思いの基にあるものを、青空の下の畑で滴り落ちる汗を目で追った先にいた、キャベツ君からそっと教えてもらった。
明日も今の私に出来る仕事に没頭してみようと思う。また、自分の知らない違った発見があるかもしれないのだから。