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秋の記憶を、風に—《固有名詞のオノマトペ化》

秋の記憶がしずかに我をめぐるときフェイ・ダナウェイと風は吹きたり


 短歌をはじめた初期の頃から、ことばあそびや修辞レトリックに傾いたような歌はわりあい多く詠んできたように思う。いわゆるニューウェーブ的な記号や表記喩を用いることもあれば、あるいは枕詞や本歌取りといった古典的技法を取り入れた作品もあった。最近では、そういう修辞レトリックが前面に出たような作品は稀であるけれど、ともすると技巧偏重な感が否めない、そんな歌を詠んでしまうこともままある。
 
 そんな僕が、これまでほとんど用いてこなかった修辞レトリックに「オノマトペ」がある。韻律による〈調べ〉を重視する短歌において、音感に直接訴えかけるオノマトペの技法は、たぶん相性がいい。例を挙げれば、次のような人口に膾炙した愛唱歌にも、印象的なオノマトペが見られる。

たとえば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか
                              河野裕子

『森のやうに獣のやうに』

べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊
                              永井陽子

『樟の木のうた』

 一首目、「ガサッと」という直接的な擬音が、激しい恋心を抱く少女の心情に呼応する。ガ→サという、濁音から無声音へ抜ける音感は、若かりし日の(あるいは長続きはしないであろう)恋愛ロマンスの激しさと、そして儚さを思わせる。
 二首目、推量や意思を表す助動詞「べし」の活用変化がそのままオノマトペとなった大胆な一首。ことばあそび的な要素が強いが、一度耳(目)にしたら二度と忘れられない愛唱歌である。

 というように、一首のなかで強い印象を与えうるオノマトペだが、僕自身はというと、ほとんどこれを用いた記憶がない。たぶん、これまでに詠んだすべての歌から数え上げても、片手で足りるくらいではないかと思う。どうも、自身の作歌における思考プロセスや着想を得るアンテナが、この技法とは相性が悪いようだ。端的にいえば、僕にはオノマトペ的な言語感覚センスが欠落しているらしい。


 代わりに、というわけではないけれど、そんな僕が一時期好んで用いていた修辞レトリックがある。正式には何というのか定かではないのだが、《固有名詞のオノマトペ化》とでもいうような技法である。

ヴィヴィアン・リーと鈴ふるごとき名をもてる手弱女の髪のなびくかたをしらず                            葛原妙子

『縄文』

あけがたは耳さむく聴く雨だれのポル・ポトといふ名を持つをとこ
                                                                                                      大辻隆弘

『抱擁韻』

カーテンのレースは冷えて弟がはぷすぶるぐ、とくしやみする秋
                              石川美南

『砂の降る教室』

試験管のアルミの蓋をぶちまけて じゃん・ばるじゃんと洗う週末
                               永田紅

『ぼんやりしているうちに』

 思いつく限りでも、以上のような歌が挙げられるが、いずれも鮮やかな修辞レトリックに引き込まれる。とりわけ、三、四首目の、仮名にひらかれた「はぷすぶるぐ」と「じゃん・ばるじゃん」は、本来の固有名詞の意味シニフィエがほとんど形骸化され、意表を突いたオノマトペとして機能している。この、ほとんど・・・・というところがポイントで、歌意そのものには全く関わらない〈ハプスブルグ〉や〈ジャン・バルジャン〉の固有のイメージを、読者は微かに歌の背後にのぞむことになる。
 一方、二首目に関しては、「ポル・ポトといふ名を持つをとこ」と、固有名詞そのものが提示されている。けれども、雨垂れの音感から縁語的に導かれることで、ここでは「ポル・ポト」という固有名詞に付随する内戦や大量虐殺の強烈なイメージが、意図的に希釈化されている。 


 その《固有名詞のオノマトペ化》を自身でも用いてみた冒頭歌。たしか、引用した葛原の「ヴィヴィアン・リー」の歌に触発されて詠んだものと記憶している。
 この拙歌を、ある歌会に提出したことがあるのだが、くしくもそこで、「ポル・ポト」の歌の大辻氏より評を受ける幸運に恵まれた。(ちなみに、当時の僕は、「ポル・ポト」の歌の存在も知らぬ浅学ぶりだったのだが。)

 氏曰く、この歌はどうしても「フェイ・ダナウェイ」という修辞レトリック部分が着目されてしまうが、修辞一点勝負の歌とされるのはある意味では損かもしれない。けれども、上の句の「秋の記憶~めぐる」には体感を伴う把握が表されている。また、「フェイ・ダナウェイ」から真っ先に思い浮かぶ、『俺たちに明日はない(Bonnie and Clyde)』の個性的なボニーの姿は、「秋」との取り合わせとしても好選択だと思う。
 と、思いがけず高評にあずかったのだが、それにもまして氏の細部にまで行き届いた丁寧な読みに感銘を受けたのだった。
 

 さて、そんな冒頭歌を詠んだのも3年程前にさかのぼると思うと、月日の速さに驚いてしまう。《固有名詞のオノマトペ化》というのは、そう量産できるタイプの修辞レトリックではないけれど、だからだろうか、この歌も印象的なものとして記憶されている。
 思えば、先の歌会での縁がきっかけとなって、長らく無所属だった僕も、今や大辻氏の選歌を受ける門下生となっている。秋の夜長に、記憶を呼び覚ますような風を胸の奥に感じながら、思い出の一首を振り返るのであった。
 

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