歌集未収録
落椿は雨に流れて歌集未収録といわれる歌あまたあり
冒頭歌は、およそ五年ほど前に詠んだ歌なのだが、今にして思えば随分と言い過ぎている。(言い過ぎなのは、いつものことかもしれないけれど。)自らの歌を「落椿」に喩えるという図々しさは置いておくとして、「雨に流れて」や「あまたあり」はさすがに重い。これだと、落椿は雨に流れるどころか、開き直ってその場に留まり続けていそうだ。
それはそうとして、当時は第一歌集刊行から少し時間を経た頃で、ようやく自らの歌の欠点や稚拙さを冷静に省みるなかで、自身の未熟さを痛感していた。と同時に、作風やスタイルの転換を図り、歌の佇まいについて模索している時期だったから、なにぶん力が入り過ぎている。
おそらくは矜持だったのだと思う。実際にあまたの歌があったわけではなく、こう詠んだ以上は、自らの作風に対峙し、未収録歌というに相応しい歌をつくり続けてゆくという、そんな心持ちだった。果たして、今はそれができているだろうか。
「歌集未収録」ということばには最初から惹かれるものがあった。近年、話題となった様々な短歌アンソロジー。歌人ごとに構成された頁には十首、あるいは二十首と各々の歌人の代表歌が並んでいる。なかには、自選歌の最後の数首が既刊歌集外の歌から選ばれていることがあって、その場合、出典欄には「歌集未収録」と記されている。それこそ、あまたの代表歌がありながら、あえて未収録の歌が選ばれていると、歌人のその歌への思いの強さを感じ、揺れるものがある。
願わくは、〈今の歌が一番いい〉と常にそう感じながら歌を詠み続けていきたい。いつの日か、もしアンソロジーに名を連ねるようなことがあれば… その際は、自選歌欄には「歌集未収録」の歌ばかりを並べられれば幸いと思う。