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サイボーグ、あるいは亡霊として

ザプルーダー・フィルムのなかで永遠の死を生き続くJFK

 前回(※1)、YouTubeのコメント欄という場において、そこに潜在する死者の声を詠んだ歌について話題とした。現代、とりわけSNS時代における亡霊性というのがテーマだったのだが、そういえば、拙歌集『The Moon Also Rises』には、冒頭の歌を収録していたことを思い出す。
 

 1963年11月22日、ときのアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、遊説中のテキサス州ダラスにて、パレードのさなかに狙撃され凶弾に倒れた。このケネディ大統領暗殺の瞬間を偶然とらえていたのが、エイブラハム・ザプルーダーによって撮影された8mmフィルム映像、通称ザプルーダー・フィルムである。
 ザプルーダー・フィルムには、ディーリー・プラザをゆっくりと進むリムジン後部座席のケネディが、リー・ハーヴェイ・オズワルドが教科書倉庫ビルから撃ったとされる銃弾に倒れるまでの決定的瞬間がまざまざと記録されている。頭部に被弾し体勢を崩すケネディ、リムジン後部のトランクへ逃れようとするジャクリーン夫人、護衛車からリムジン後方へ飛び移るシークレット・サービスの姿と、映像の生々しさに戦慄を覚える。
 このフィルム映像は、1969年に法廷にて初めて動画として公開されて以降、あまたの複製が(違法に)作成され、今日に至るまでにあらゆるかたちで目にされてきた。ドキュメンタリー番組や映画をはじめ、それこそ現在ではYouTubeを検索すれば、容易くそのショッキングな映像にたどりつくことができる。
 

 そのザプルーダー・フィルムを詠み込んだ冒頭歌だが、この作品は短歌というよりは、むしろコンテンポラリー・アートとして提示されるべきかもしれない。
 — 暗室に入ると、スクリーンにはザプルーダー・フィルムが映され、ケネディ暗殺の瞬間が繰り返し再生されている。ある人は、その場に佇み何度もその映像を見ている。またある人は、暗殺場面のごく一部を断片的に目にして通り過ぎてゆく —
 実際にそういうイメージをもとに先の歌を詠んだのだが、現在であれば、スクリーンに代えて複数台のPCを置いておく方がよいだろうか。YouTubeにてリピート再生されるケネディ暗殺の瞬間。デジタル修正されたリマスター映像や、映画作品中の切り抜き映像、なかにはフェイク動画まで入り乱れている。そして、もちろん各動画の再生回数やコメントはリアルタイムで更新され続けている。


 20世紀には、ヴァルター・ベンヤミンが「複製技術時代の芸術」を著し、技術的複製が伝統的な芸術作品のアウラを剥ぎ取ると論じた。その後、アンディ・ウォーホルがシルクスクリーンを用いて、まさにケネディやマリリン・モンローの表象イメージをポップアートとして商品化したのは周知の通りである。
 そして現代では、複製(作品)を生み出すのは、芸術家でも企業でもなく、群衆ということになるのだろう。あまたのYouTuberにTikTokerにInstagramerたち。SNSを介在として、表象イメージは消費されるばかりか、自己複製を重ねている。のみならず、群衆のひとりひとりが、フォロワーかつフォロイーとして相互に消費対象の表象イメージそのものに回収されている。その成れの果てが、死後もネット空間上に取り残された亡霊というありさまなのかもしれない。
 

 それにしても、YouTubeやiPhoneとは、なんと示唆的な名前だろうか。You(あなた)+Tube(管)に、i(わたし)+Phone(電話)という造語には、端的にサイボーグ的な感覚がある。サイボーグ(cyborg)、すなわちサイバネティック・オーガニズム(Cybernetic Organism)とは、文字通り機械と人間の融合を表している。
 スマホひとつで世界中のあらゆる人々やコンテンツと接続できる現代。かつて、サイバーパンクというジャンルは、現実よりも現実的リアルな仮想空間を描いた。いつの間にかSFの想像力を超えてしまったような現代はというと、むしろ現実そのものがサイバーパンク化しているように思われる。  
 そんなSNS全盛の時代を我々は、デジタル・ネットワーク上に自己を拡張させながら生きている。そのありさまは、まさにサイボーグと喩えられるだろうか。あるいは、ザプルーダー・フィルムのなかの(アウラを剝奪された)ケネディよりも、よほど亡霊的と言えるのかもしれない。


※1  死者の声を|五十子尚夏|note

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