花葬

家から学校までの途中に、黒いふかふかの土で覆われた柔らかな小道がある。
左右を常緑の低木林に挟まれていて、誰が手入れをするわけでもないのに雑草のひとつも生えてこない。空気をはらんでふっくらと膨らんだ、踏み固められていない、油分を多分に含んだ土である。距離にしてほんの数十㍍ほど。それを過ぎれば、ひび割れたアスファルトの車道に出る。角を曲がればもう学校だった。
今朝もランドセルいっぱいに教科書を詰め込んで、私は黒土の道に足を踏み入れる。あらかじめ靴と靴下を脱いで手にぶらさげることを忘れない。この土の感触は裸足で味わいたいから、たとえ雨が降っていようと必ず靴は脱ぐことにしている。
日に焼けたことのない生白い足は、甲の半ばまで埋もれてしまう。さくさく、と空気と土の擦れ合う音を楽しみながら、そっと耳を澄ませる。さくっ。また足を下ろして一歩前に進む。
――…♫…ほ……
さく。さくさく。
――ら……ん…とい……
ぶつぶつと、歌うような、呟くような声が地底から湧き上がってきて、むきだしの足裏にぶつかる。ごくごくかすかで、よほど注意していなければ感じとれない、土と木漏れ日が醸す幻のような声である。黒土の敷かれた道のあらゆる地点から気泡のように間断なくのぼってくるので、炭酸水に足を浸したようにくすぐったくも心地良い。淡い声はすべて女性のものだ。もちろんそうだ。だってあの戦争が終わってからというもの、男性は北の工場でしか作れなくなってしまったのだから。
――♪…ほほ……ほ……
中程まで歩いて立ち止まり、両脇に茂る枝の多い低木をじっと見やる。数年から数十年に一度しか花芽をつけない気まぐれなそれは、おそらくあと数ヶ月でまた花季を迎える予定だった。注意深く枝と葉の間を引っ張って広げると、狭間に小さな薄緑色の棘のようなものが顔を出し始めている。これが膨らみ始める頃には、役所からの手紙が我が家のポストに届けられるだろう。私の3つ上の姉が、花をもらい受けたい旨をしたためた書類を去年の暮れに提出していた。受理印が押されて掲示板に貼り出されていたと役所勤めの叔母がこっそり教えてくれたから、確定に違いない。
さくさく。さく。
――い……♪……し……
黒土の道が終わるところで、名残惜しげに土を払って靴を履き直した。背負ったランドセルが傾いて、教科書がカタリと音をたてた。
「樹里ちゃん」
アスファルト道の向こうの角から、同じクラスの眞子ちゃんが勢いよくこっちに駆けてくる。長い三つ編みが二匹の蛇のように肩口で踊っているのが可愛らしい。ごきげんよう、と膝を折る正式な挨拶を互いに交わして、どちらかともなく手をつなぐと、学校までの道をのんびりとたどることにした。
「あれ、朱里さんは?」
黒土の道を振り返って、眞子ちゃんがきょろきょろする。
「お姉ちゃんはもう学校には行かないわ」
朱里とは3つ上の姉の名だ。厳密にいえば型名である。姉と同じ型の少女は他にも何人も居て、我が家で一緒に暮らしていた姉はそのうちの一人だったが、朱里型のプレミアム版なのよ、と母が近所のおばさんに自慢しているのを聞いたことがある。母はゴミ捨てのついでによくいろんな成体のおばさん達と長話をするのを娯楽としている。通常版とプレミアム版ではさていったいどこがどう違うのか、まだ幼生体である私にはよくわからない。
「それって……」
私はこっくりと頷く。姉は昨夜から潔斎に入ったのだ。花をもらい受けるためには必ずこなさねばならない、必要な儀式のひとつである。
いいなぁ、と眞子ちゃんはため息をつく。空には綿飴のような雲が浮かんでいる。つないだ手をぶらぶらと振り回すと、お下げがまたてんでばらばらな方向にのたうった。
「役所はいったいどういう基準で決めているのかな、うちの姉なんてもうここ何年もずぅっと届け出を出しているけどね」
受理されたことってないのよね、と眞子ちゃんは不服そうだ。
「まあそれを言っちゃうちの母だってそうよ。母は届け出そのものを諦めちゃったらしくて、もう出してないみたいだけど」
「やっぱプレミアム版は優先ってことなのかな」
「どうかな、案外あみだくじとか」
「適当すぎでしょ」
「だってさ、役所だよ?」
「まあそっか。所詮が役所だから」
ぷっと吹き出すと、眞子ちゃんもあっけらかんと笑う。眞子型の少女たちは底抜けに陽気な個体が多いので、一緒にいると楽しい気持ちになる。
住宅街を心地よい風が吹きぬけて、ざわざわと敷地の庭木が揺れる。横断歩道の際に立っている3階建ての白壁の家の前を通り過ぎると、灰色の学校がおもむろにその偉容を現した。大昔、この長く寝そべった形の古い建造物は、火星まで往復していた貨物船であったそうだ。今は表面に塗装し直し、穴に詰め物やガラスを入れて整え、幼生体たちを教育する施設として便利に使われている。
玄関で靴を脱ぐと、さっきの黒土の名残がぱらぱらと簀の子に落ちる。
「樹里ちゃんたら。また花の道を裸足で歩いたの」
眞子ちゃんは呆れたように苦笑した――ほんとに好きなのねぇ、寝言を聞くのが。
だって、と私は顎をつんとあげる。
「こうして目覚めて話している声よりも、『花葬』で埋葬された女人たちの寝言のほうがもっとずっと美しくて、ずっと音楽的で、ずっと耳に心地よいんだもの。仕方ないでしょ」
声とは、音とは、すなわち振動である。生足の裏で直にその土と空気の奏でるくすぐったい振動を感じるとき、私は何故か最も生きていると感じることができる。
「だけど『花葬』は一家に二人は出ないというじゃない」
そのとおりだった。朱里姉が花葬されることが確定した今となっては、妹である樹里に順番が回ってくる可能性は限りなく少なくなった――けれども。
「そんなのわからないわ。樹里型は数が少ないから、もしかしたら」
「樹里型はみんなちょっと変わってるからなぁ。あ、誤解しないでね、あたしはそんな樹里ちゃんが大好きなんだから」
見てて面白いからね、と眞子ちゃんはまた屈託なく笑った。と思ったら急に声を潜めてひそひそと耳に息を吹き込んでくる。
「ね、二人とも『花葬』に選ばれたらいいよね」
「うん」
「あの黒土の道で隣同士に埋められましょうよ。役所に出す書類に、そういう要望を備考欄に書こうよ」
「二人して並んでぶつぶつ言い合うの?」
「どうせなら歌がいいかな。一緒に歌おうよ」
眞子ちゃんは綺麗なソプラノの持ち主だ。もちろん眞子型の少女はみなそうなのだけれども、私にはこの眞子ちゃんの歌声が、最も上手だという気がしている。
折しも1限目は音楽の授業で、かつては貨物船のコクピットだったらしい講堂で先生がピアノを弾いてくれることになっていた。もうすぐ開始のチャイムが鳴る時刻だった。私はすっかり嬉しくなって、上履きのゴムをぱちんと締め直すと、眞子ちゃんと一緒になってごんがらがるように駆けだした。廊下にびっしりと敷かれた簀の子がカンカンと高い音で鳴り響く。こら!廊下を走らない!と、どこか上の階から先生が怒鳴る声がする。おかまいなしに私たちはきゃあきゃあと息を切らして走り続けた。

【花葬】
ある低木の花を摘み、その花と共に黒土の中に女人を埋葬すること。
女人たちは埋められてすぐ死ぬことはなく、花の中でまどろみながら十数年ほどかけて緩やかに死んでいく。女人たちはまどろみのなかでとりどりの幻影を追い、美しい夢の中で遊びながらひっきりなしにぶつぶつと呟いたり、歌を歌ったりする。
黒土の道を歩くと、いつもほのかな花の香りと共に埋められた女人たちのかすかな声を聞くことが出来る。

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