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小休止ータイプミスの罠ー
仕事中、中林さんにメールを送信しようとして、はた、と手が止まった。宛名が「バカ林様」になっていたのだ。・・・送信ボタンをクリックする前に気がついてよかった。
今回は気がついたが、タイプミスをしたまま送信してしまったことがある。
大学卒業後、就職活動に失敗した私は、司書課程でお世話になっていた教授の紹介で、某大学の附属図書館でパート勤務をすることになった。配属されたのは参考調査係。いわゆるレファレンスカウンターである。図書館内外の資料を探して利用者に提供したり、研究テーマに添った資料を紹介したりする。私は他の大学図書館から、本や雑誌論文のコピーを取り寄せる業務を補助していた。
とある英語論文のコピーの取り寄せを依頼されたが、この論文が載っている雑誌がどうにも検索できない。日本にはない雑誌なのだろうか。それとも雑誌ではなくweb上でしか発表されていない論文なのか。いろんな検索ツールを試しても探し出せずにいた。
困り果てて、利用者に論文事項や参考論文を確認してもらうようにお願いのメールを送信して数日後。利用者から返信があった。
「調査が難航しているようでお手数をおかけしております。」
いえいえ、こちらこそお手数をおかけして。
「研究に疲れ、殺伐とした研究室に一服の笑いをいただき、心が和みました。」
・・・え?なんのこと?
急いで送信したメールを確認して目が飛び出るかと思った。
「お世話になっております。難航調査係の三枝と申します。」
参考調査係を難航調査係とタイプミスしていたのだ。確かに調査は難航していたけれども。タイプミスに心の声が漏れていたとは。
慌てて単なるタイプミスで他意はないことを伝え平謝りした。幸い利用者も上司も、新人の微笑ましいミスとして笑って許してくださり救われた。
(いくつかの大学図書館で働いてきたけれども、職員の方はほんわかした方が多くて、ぼんやりした私でもわりと居心地がよかった。)
タイプミスをしてしまう原因として、もともとタイピングが下手なせいもある。人差し指と中指の役割が不明確で、毎回ちがった指がちがったキーをタイプしてしまうし、左手の薬指と小指は力がなく、よれよれとSやAやZの間を行き倒れそうにさまよっている。たった一単語を入力するのに何回もタイプしては消し、タイプしては消し、をしている。やたらとキーボードをごとごとさせているが、打てている文字数は音に比例しない。自分でもとても効率が悪いと思う。こんな私、今の職場で役に立っているかしら、なんてふと不安になった時。心の声がまた漏れる。
「今宵消えたい」
だれかの今にも消え入りそうな声が聞こえる。その姿はかすみかけている。私は空中に溶けてなくなりそうなその手を慌ててつかむ。
「そんなこと言わないで。」
「もう消えたいの。もう今夜」
「大丈夫、大丈夫だから」
「大丈夫」以外の言葉がみつからず困惑しながら、でもこの手だけは絶対に離してはいけないと、か細いその手が壊れないように気をつけながら、指にぐっと力を入れる。
リリカルな世界に引き込まれそうになって、ふと我に返る。そうだ、私はただ「雇用形態」とタイプしようとしただけなのだ。右手の人差し指と中指が、心の旅に私を誘い出した。ふと漏れた心の声を、私はつかんで、この世界につなぎとめたのだ。
中林さんにメールを送信し終え(もちろん宛先は中林様に修正している)、お茶を飲んで一息ついていると、さっそく中林さんから返信がくる。
「添付のPDFファイルをご覧下さいとありますが、添付されていないのですが」
しまった・・・。バカ林に気を取られていた。
「今宵消えたい」
「大丈夫」
ふたつの声を抱えながら、私はお詫びとともに添付ファイルをしっかりと添付してメールを送信しなおす。
「大丈夫」
「大丈夫」
何度もささやきながら、私のメールは見えない回線へと羽ばたいていった。