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本を読むことについて考えるー世界とつながるー

 以前に本を読むことによって世界とつながっている、と書いた。世界とつながるために本を読む。なぜつながろうとするのかというと、「つながっていない」という実感があるからだ。
 世界とはなにか、という問いがまずあるだろうけれども、私にとっては世界は「私以外」と言えるかもしれない。単純に言うと、見ている「私」がいて、見られている「私」がいる。「私」を見ている「なにか」が世界であり、私が見ているものも世界であるはずだ。何学なのかはわからないけれど、世界について私はこんなふうな認識でいる。ところが、私が見ている世界は、ほかの人たちが見ている世界とは少しちがっているようなのだ。
 私が普通だと思っていることが、ほかの人にとっては異質なことであったり、私が普通だと思っていることが、ほかの人には当たり前のことだったりすることがよくある。ようするにズレているのだ。

 ズレているから、空気を読むということが苦手だ。例えば学校で、女の子特有の内緒話でこそこそ盛り上がっているところに大きな声で「楽しそうだね!なに話してるの?」と無邪気に話しかけ女子グループを困惑させてしまう。困惑しつつもグループ内の優しい子が「実はね・・・」と教えてくれたことを「えー!!そうなの!?」とクラス中に聞こえるような大きな声でばらしてしまう。悪気はひとつもないのだ。ただ自然に素直にしているとそうなってしまう。そんなことを繰り返していると「あの子のいないところで話そう」となってしまう。これまた女子特有の一緒にトイレに行く行動も理解ができない。孤高を気取っていたわけではなく、本当に理解していなかったのだ。トイレに行く行動の中に用を足す以外の意味が秘められていたなんて想像もできなかった。「一緒にトイレ行こ!」「私、今行きたくないから」なんて繰り返しているうちに「あの子を誘うのはやめよう」となってしまう。世界からズレていると女子の世界からは完全にあぶれてしまうのだ。中学校は幼馴染がいたのでなんとかなったが、高校では友達と呼べる存在はとうとうできなかった。
 人間関係ってむずかしい・・・。ただでさえズレているうえに「私は人づきあいが苦手なんだ。なんでかわからないけれど」と刷り込まれてしまい、ますます世界との距離があいてしまう。ズレているな、距離があるな、と思いながらなんとか人と関わりながら生きているから、常に緊張感があり、自然にふるまえない。人と話す、行動を共にすることが特別なことになってしまっているのだ。

 最近、穗村弘のエッセイ『世界音痴』を読んだ。「「自然さ」を持てないために世界の中に入れない人間の苦しみ」とあり、まさに私のことだ、と思った。できれば自然体でいたい。緊張なんてしたくない。でも、自然にリラックスして人と関わると、知らないうちになんだか大変なことになるのだ。もしかしたら、人間は生まれる前にみんな「人間教習所」みたいなところに通って、人間としての自然なふるまい方を習うのに、自分はきっと何かの理由で通いそびれてしまったのだ。そんなことさえ思う。
 正しい自然さがわからず、自分が見ている世界に対して自信がなく、常に「大丈夫かな。あってるかな」と不安になっているが、実はその世界の入り口にも立ててはいない。表面をつるつると撫でて、必死になって入り口を探している。
人との関わりの中に入り口を探そうとするとますます混迷するので、ちがう方法を探す。自然体で、そのままの私で行えること。それが読書だった。

 だれにすすめられることなく、子どものころから本を読んできた。どんな感想を持っても自由だし、周りと合わせる必要もない。読むことによって起こる自分の心の動きに耳をすますだけでいい。
 自分はこんなことを思う。こんな気持ちになる。懐かしさに胸を浸し、新しいひらめきに目をみはる。文章に音や色や湿度を感じる。私はこんな感覚も持っていたんだ。自分のことが見えてきて、私が見ている世界も、これはこれでひとつの世界として成立している、と思えてくる。ズレているかもしれないけれど、これは私の世界なんだ。私の世界はここにあって、私は世界とちゃんとつながっているんだ。本を読んでいると、そんな気持ちになれる。
 読んだ本で私はできている。ためになる本、ならなかった本、一生の宝物になる本、人生の啓示をくれた本。たくさんある。どれも私の成分になって、私の世界を確かなものにしてくれる。私はまたこれからも本を読む。世界の入り口を探して。私の世界を探して。

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