本を読むことについて考えるー読む楽しさー
「どうして本を読むんですか?」
行きつけの接骨院の先生に聞かれて、戸惑ってしまった。
「ボク、あんまり読書しないんですよね。楽しさを教えてください!」
四十代前半の、絵に描いたような体育会系好青年の先生は、丸椅子に腰かけた私の背後に立って肩をぎゅうぎゅうと揉みながら、無邪気に問うてくる。
どうして?楽しさ?
改めて聞かれてみると、正直よくわからない。しかし、いつまでも黙っているわけにもいかないので、私はしどろもどろに答える。
「そのぉ・・・、世界とつながる方法として、読書が私に合ってるというか・・・」
「ほうほう!」
「読んだ内容について自分がなにを考えるかによって、自分自身を確認しているというか・・・。」
「なるほど!」
先生の手がすうっと首筋に動き、ツボをぐりぐりと刺激し始める。ズーンと痛みが響いて私は黙ってしまう。
「わかるような気がします!」
・・・たぶんわかってないよな。ここで前回書いたようなラッコの話などしたところで、余計混乱を招いてしまう。
「ボクも友達に勧められて、たまーに読むこともあるんですけど」
と先生が自分の読書体験を語り始めたので、聞き役に回る。質問から解放されてほっと胸を撫でおろしつつ。
「おもしろいなーって熱中して読んで、あっという間に時間がたっちゃうみたいな、ちょっと旅してきたみたいな、おもしろさありますよねー」
確かに。あまり読まないという割にはわかっているのでは。
私の場合は、おもしろいなーって熱中して読む、というよりは、文章の中になにかを探りながら慎重に読むことのほうが多い。一文一文、自分の感覚に重ね合わせたり変換したりしながら、物語をほぐして自分に取り込む。主人公と考え方が合わなくても別にいいし、理解に苦しむ状況であってもいい。「なんだこりゃー」と思いながらも、「なんだこりゃー」と思っている自分が発見できたことが収穫になる。
読み終わったあと、ふとした瞬間に物語と自分がつながるような感覚になって、「もしかしてこの感覚を描くための小説だったのでは」と、あれこれ思いにふけるのも楽しい。実は、読んでいる時間よりも、読後のあれこれ時間のほうが重要だったりする。あれこれ考えていたことが、また別の小説で描かれていて、思わぬ答え合わせができることもある。「やっぱりそういうことだったんだ」と、新たな世界の入り口を発見できたような気持ちになる。
「最後、ばんざいしていきまーす」
考えているうちにマッサージが終わりに近づいていた。先生の手に誘導されながら思い切り万歳をする。ゴリゴリゴリゴリと両肩の関節が鳴って「すごいですねー」と先生と笑い合う。
私の肩にかけていたタオルを外し「はい、いいですよー」とマッサージの終わりを告げる。
「ボクももっと本を読んでみますね!」
「はい」と答えながら、この人は本を読まなくても世界とつながっていける人なのでは、と私は勝手に思ってしまう。
世界とつながる方法はなんだっていい。スポーツが好きな人ならば、体を動かすことでつながるんだろうし、人と話すことが好きな人は、会話の中で自分を見つけられるんだろう。ゲームだって、仕事だって、きっとなんでもいい。そんなことを考えなくっても、無意識につながっている人のほうが、多いのかもしれないとも思う。
「たまーにでいいです。本当に読みたいと思ったときに。無理には勧めません」
お会計をしながら心の中で伝える。
「お大事に」と送り出されて、重たいドアをそろりとくぐった。
空は夕暮れを過ぎて夜に突入しようとしている。湿った空気が鼻先をかすめて、なにかの感覚がよみがえりそうになった。今読んでいるあの本の、あの一文かもしれない。私はかばんの上から、中に入っている本をそっと撫でた。
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