敬愛する吉田松陰先生が、
安政の大獄で処刑を受ける間際に記した「留魂録」。
昨日から、生徒とやりとりを繰り返す中で、
ふと、上の一節を思い出しました。
松陰先生は、自らの死を「自然の四季」にたとえ、
死を迎えることへの安心感を述べています。
彼は、人の一生が作物の成長に似ているとし、
若くして死ぬことを悔やむのは無意味だと考えました。
作物は四季を経て実るが、人の寿命は一定ではなく、
どの年齢においてもその人の「四季」があるとし、
自らの30年の生涯にも十分な価値があったと捉えています。
また、後世の同志が彼の志を継げば、
その種は絶えず続くであろうと希望を述べています。
人生は、春夏秋冬の四季のようにそれぞれに意味があるものです。
松陰先生が述べたように、人生の長さは重要ではなく、
その中で何を学び、何を残すかが大切です。
自分よりも随分年下の松陰先生が残した「種子」を受け継ぎ、
後に続く者たちへとその志を引き継いでいくことが、
自らが教員としてできること=「未来へとつながる種まき」
なのかなと思います。