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我々はみな、「裸の神」である 

「あるがままのあなたでいいのですよ」
 
こんなフレーズがスピリチュアルな業界ではよく使われているが、何だかどうしようもない「我」を自己肯定している言葉のようで、好きになれないし、生理的に受け付けない。
 
「あるがまま」というのは、文字通り「あるがままの自分」のことである。
 
自分について省みると、短気で怒りっぽく、冷淡でプライド高く、ギャンブル中毒で、小理屈を言い、中身が伴っていない文学趣味の男、というところか。それが「あるがまま」ということで、ここには幻想も何も存在しない。
 
短気で、冷淡で、プライドが高い自分を「あなたはそのままでいいんですよ」と言うのは少し違うと思うし、そのままでいいとも自分は思っていない。冷淡で、プライド高く、人を見下すところがあるとしたら、それは必ずしも肯定されるべきものではあるまい。どうしようもないけど、そういう人間だよ、というだけだ。
 
ただ、本当に「どうしようもない」と気づき、自分にも他人にも嘘をつかず、裸の姿を偽らずにその通りに素直に自己を表現しているのなら、そこに葛藤はない。葛藤がないということは、「あるがまま」を変化させる何らかのエネルギーを持つことを意味する。
 
つまり、腹をくくって「俺はどうしようもないよ」と言える人間なら、何らかの変化の道はある。等身大でいることを恐れないで、そのまま表現できているとしたら、見込みがあるというわけだ。
 
しかし、「自分はこんなすばらしい体験をして、こんな認識の下にあるから、愛がある」とか、「悟った」などと言って、謙虚になってみたり、幸せそうに微笑んでみたり、聖人のごとく振る舞うなら、それは欺瞞である。なぜなら、それは「あるがまま」のあなたではないからだ。
 
クリシュナムルティ的に言えば、そこには、必ず「あるべき」と「あるがまま」の間に葛藤が生まれ、その背後にエネルギーのロスが生じる。
 
葛藤は、ますます人をゆがませる。
 
「あるべき」の美しい衣の裏に隠れた「あるがまま」は置き去りにされ、それどころか手をつけられることもなしに、ますますろくでもないものになる。
 
衣を被れば被るほど、あなたは「あるがまま」から遠ざかり、分裂し、自分自身を見失い、人生と折り合いをつけることができなくなる。
 
「こんな風にあらねばならないのに、自分はそうではない」という葛藤が人を傷つけ、苦しめるのだ。
 
たとえば私なら、「悟り系」の本を出したのだから、悟った人っぽく(ここに悟った人はこういうものだ、という伝統的かつ一般的な固定観念がある)振る舞わなくてはならない、などと思っていたら、それこそものすごいエネルギーのロスであり、嘘吐きになってしまうことだろう。
 
自分はそんなのはまったくごめんであり、何と言われても好き勝手に遊ぶし、麻雀も打つし、時には苛々もするし、怒ったり、落ち込んだりもする。それが自分だから仕方ないし、それだけのことだ。嘘をついて微笑んでいたとしたら、それこそ偽善である。
 
「あるがまま」を認識するためには、自分がいかに様々な条件付け、妄想、幻想、知識、思い込みに縛られているか、に気づく必要がある。そのがんじがらめの鎖やら、美しく見える衣やら、聖典の言葉やらを投げ捨て、裸の、ちっぽけな自分になる必要がある。そのためには、日々、自分自身の思考、行動の動機の根底にあるものを観察するしかない。
 
あなたが無人島で生まれたら、裸のままだっただろう。ずるいやつはずるい、賢いやつは賢い、いいやつはいい、それだけのことだったろう。しかし、現代社会に生きる私たちはあまりにも多くの知識、情報、イメージ、観念に汚染されすぎている。だから、「あるがまま」を認識することは極めて難しいし、それと一致して矛盾なく生きることは、さらに難しい。
 
「あるがまま」とは、「あるがままである」ということだ。
 
花は花であり、山は山であり、緑は緑であり、笑みは笑みであり、ずるさはずるさであり、悪党は悪党であり、善人は善人であるということだ。
 
「ただそれだけ」のことである。そして「ただそれだけ」であるということは、あなたも私も「あるがままである」ということであり、そこには特別な「私」、美しい衣をまとった「私」がいない、ということだ。
 
要は、ただ「あるがままの現象がある」ということで、そこには何の幻想もないし、特別な「私」もいない。
 
そうやって世界を見渡した時に、いかに諸々の現象が力強く、生々しい実在感をもって輝いて見えることか。何と言う力強さと明晰さがそこに展開されていることか! ざらざらした緑の深さに、闇の中に潜む臨在感に、我々は震撼するのである。
 
それでは、仮に自分がちっぽけで卑小な自己であったとして、どこに救いがあるのだろうか? 
 
ただ「あるがまま」であったとして、人間の救いはどこにあるのか?とあなたは思うかもしれない。
 
救いはあるのである。
 
ぜななら、その「あるがまま」という地点において、あなたは他者と等価な、矛盾なき存在として、矛盾なき関係を築くことができるようになっているからだ。さらに言えば、自分を特別視しない者だけが持つ、全体的な視点を持つことができるからである。
 
その世界では、事物は、すべてひとしなみの価値を持って存在し、ひとしなみに愛されている。つまり、すべてはひとしなみの、等価で、同じ価値のある構成物であり、それらは個性的ではありながら、因縁でつながって生成している多様な現象であり、別々の存在ではない。その時、すべての断片的存在は、等価な神の被造物になる。これらのことに真に気づく時、人は、自分が「世界」であることを認識する――この認識自体が救いになりうるのである。
 
こうした眼差しによって、卑小ではあるが、裸のどうしようもない自己を省みるとき、はじめて人は「あるがまま」を変化させることができる。
 
なぜなら、その眼差しは、幻想というベールを通してではなく、直接、裸のあなたに触れ、変化させる力を持っているからだ。全体を「あるがまま」に見つめ、感じ取る眼差しが、自己中心的でゆがんだ「あるがまま」のあなたに変化を及ぼすのである。
 
「あるがまま」とは、何一つ幻想がないことだ。
 
しかし、幻想なき世界による新たな神話は、まだ生まれていない。
 
その神話は、裸の神々になった我々一人ひとりの、独自な、生きた関係の中にこそ生まれることだろう。
 
(最近、この手の記事を書き出すと必ず止まらなくなって、なんだか偉そうになってしまうので自分でも辟易してしまう。どうしたものでしょうね、この感じ・・・原文ママ)
 
(2012年アメブロ掲載記事・改稿)

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