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まぼろしをみるものがたり 前編(西山珠生)

 『かぎろい』にあとがきを添えてみようと考えた。
 と、いうことは、まず私がなにか書かねばならない。さて。

 終演後の燃えさしをぼんやり突きつつ書いては消し、書いては消しを繰り返した。『かぎろい』を語る言葉を私はなかなか見出せなかった。そこには私をとらえて離さぬものたちが漂っており、簡単に捕まってはくれないのだった。
 そんなわけで、ひとまず初めに戻ってみようと思う。つまり彼らが名を与えられたとき、この世界が色づいたときに立ち返ることにする。

かぎろいもしくは曙光

かぎろひ

 物語は、「かぎろい」と題されている。「偶像」でも「白煙」でもなく「かぎろい」であることは、実は大きなことだ。角川古語大辞典を引いてみる。

かぎろひ(陽炎)
①かげろう。光線が屈折してちらちらとゆらめいて見えるさまを火に見立てたもの。「もゆ」と表現することが多い。春の景物とされた。
②曙光。日の出前の東の空に見えるあかね色の光。「東野炎立所見而〔万葉・四八〕」の旧訓は「あづまののけぶりのたてるところみて」であるが、『万葉考』で「炎」を「かぎろひ」と読み、「明る空の光の立つをいふ」とした。

角川古語大辞典

 はかなさを象徴するようなかげろう(蜉蝣/陽炎)という言葉は私の中でながく存在感のあるものだった。それが夜明けの光の意味を持つと発見したとき、すべては腑に落ち、『かぎろい』は夜明けの物語だったと私は知った。

夜明けを眺む

 思えば、夜明けというものにずっととらわれてきた。日が沈み、命を塗りつぶした夜を溶かして再び光が現れるというサイクルは、どこか神聖さを纏っている。この惑星上でどうやっても逃れられぬそれを感じるたび、私もまた古代の宗教家さながらに、大きな力に打ちのめされた。陽光、夜の闇、嵐と地震、大火、海や森の深さ……私たちがいくら「解き明か」そうとも、ひとりその前に立てば知らず知らず圧倒されてしまう、人知を超えた存在があるが、夜明けもそのひとつである。曙の神が無数に在るのも、私たちがどれだけ日の出をありがたがるかを考えてみれば疑問はないだろう。夜明けは再生の象徴であり、新たな時代の幕開けや、苦しみの終わりにも例えられる。そこにはどこかしら希望が漂っている。しかし夜が来ればいずれ明けるように、上った太陽は再び沈んでいき、命もまた眠りにつく。あるいは、夜をこそ安寧の場とし、曙光とともに崩れ落ちる生命のほとばしりもあるのかもしれない。なんにせよ夜明けは、世界の流動を私たちに見せてくれるひと時である。私たちの生きている間にその廻りが絶えることはない。
 とある朝を思い出す。筆が進まない初夏未明、裸足のまま外に出た。まだ太陽は昇りきっておらず、うっすら空が優しげな色に染まっていた。しばらく眺めていると、濡れたアスファルトが足裏でごろごろと転がって、頭上で鳥が鳴いた。気が付くと、薄絹のような光が広がって、向かいの庭に植わった木の針のような葉一本一本が光をはらんでいた。マンホールの蓋にたまった水に光が照り返し、私の影が道の先へと消えていた。なんて美しいんだろうとただ嘆息した。家へ駆けこんで、あるシーンを書いた。
 話はそれるが、私は重度の夜型人間で、夜明けよりは丑の刻に生きてきた。そんな私にとって、日の出は起きて見るものではなく見て寝るもので、過ぎた夜更かしを突きつけるおそろしい存在だった。夜明けに対するおそれ(恐れというより、畏れと書いた方が似つかわしい)は私の過去の創作にもずいぶん影響していて、PCの中には夜明けに関して書き散らした文章があふれている。そういえば、小学生のころ描いた一番大きな2枚の絵——連作だった——にも、夜/夜明けのイメージを読み取れる。光の移ろいは幾多の画家たちを魅了してきたが、幼い私もまた、その神秘に捕まっていたらしい。

 『かぎろい』は夜明けの物語だった。しかし真に夜が明けるかはわからない。夜明けが新しい明日への光に満ちているかもわからない。かぎろいは、まぼろしでもあるから。
 停滞した世界で疫病に苦しむ人々は、ウーリは、アダは、ひとりの少女に希望を見出すが、彼女は危なげに消えてしまう。それでも、夜明けを呼ぶ一筋の光ではあるのだと思う。

幻視と幻聴、信仰 ①

生命の踊り

 ところで、サアメの儀式は、皆さまの眼にどう映っただろうか。かぎろいは、ウーリの眼を通した物語であったから、劇中に三度登場する「儀式」はその都度見え方が変わっている。一度目は理解しえぬ恐怖を、二度目はぬぐえぬ罪の意識を、最後には「真の信仰」への悟りを、ウーリは与えられる。若き修道士が心を奪われた彼女の踊りとは、原始的な神の息吹をまとった生命の滾りだと私は解釈している。
 審問官ベラト導師による丘の僧院襲撃後、サアメが礼拝堂で舞い踊る2分間を、稽古場では「昇天」と呼んでいた。が、あれを昇天と形容するのもウーリの視線に過ぎない。開いたのは天への門ではなく、地下への門だったと見ることもできよう。奇跡の乙女の力は、湧き立つ生命の解放であり、その源は、天上というよりむしろ大地、というより世界そのものを構成する超越的存在であるからだ。ゆえにサアメは巫女であり、また魔女である。彼女は「大いなる主」の恵みを人々に分け与える媒介者であるが、あまりにも直接的に人と神とをつないでしまう。それゆえ、サアメの踊りは、洗練され制度化された教会組織を脅かす土俗的祝祭として、断罪されるのである。

 誰だったか、この昇天シーンについて「ウーリには綺麗なものに見えてるけど、本当はこれ血みどろだよね」と言った人がいた。私自身はそこまで考えていなかったが、確かにそうかもしれない。審問官と暴徒化した民衆に追われ、礼拝堂まで追い詰められたサアメの足が傷つき血を流していたかどうかは、皆さまの解釈にお任せしよう。

信仰するひと、の前に

 「信仰」は今作品の中心といっても過言ではない。しかしそれを考えるのは後編に任せ、今回は当日パンフレットでお読みいただいたであろう、ウーリ自身のまえがきを引用して終わることとする。(続く)

 大いなる主のみ前にこの物語を捧ぐ名誉を賜ることは、いかなる喜びにも勝るものである。神よ、しもべをお憐れみください。
 これより皆さまにご覧いただくのは、ひとつの盲目的な信仰の呟き、醜い愛と、独りよがりの正義のひとしずく、自らを投げうつに相応しい祈りの物語、その極めて主観的な記録である。目にしたものをあるがままに語るつもりではあるが、私の記憶の中で幾分か出来事は変容し、言葉は組み替えられているやもしれない。月日は流れ、私の頬はごわつき髪には白いものが混じり、話すそばから声はかすれていく。これを綴り終えさえすれば、この命に思い残すところはない。
 私はニジェロに生まれ、十一の歳で神の道を志し、タヌラエでの信仰生活の中で育った。ひとり僧院で研究に明け暮れる生活が唐突に終わりを告げたのは、トセロ導師が中枢の会合から戻ったあの日、それがすべての始まりであった。故郷からもタヌラエからも遠く離れたククリへの旅に私は慄いた。「異端」の僧院で、ククリの町で見聞きしたことを語りきる力を私が持っていれば良いのだが。
 私が彼女らと最後にことばを交わしてから、どれほどの年月が経ったのか。厳しい運命と老いは、それすらも正確に記すことを許してはくれない。それでもなお、脳裏にくっきりと焼き付けられたあのククリでの日々が色褪せることは決してない。……

(主宰・脚本 演出 宣伝美術 / 西山珠生)

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