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もじもじするもじ

ほんのちょっと前まで、僕はもじを書く人と一つ屋根の下にいた。初めは結構よく喋っていたと思う。寝食を共にしているわけだし、仲良くなるのは自然なことだ。

それが、どうしたというのだろう。ある時期を境に、プツリと会話の糸が切れた。

思春期に入った僕が、話しづらい雰囲気を作っていたことは間違いないと思う。でも、彼女の沈黙は僕にだけ向けられたものではない。他人と空間を共有していても、彼女は自分の中に引きこもるようになってしまったのだ。発話というものが、ほとんど消えた。

声から遠ざかるのと反比例するように、彼女の書くもじの量は増え続ける。筆を握り、彼女は黙々と紙に向かう、正座して。壁に渦巻く墨の跡は、彼女の脳内に広がる沈黙を代弁しているのだろうか。甲骨文字、金文、ひらがな、その他僕にはよくわからない、いろんな人の手によって受け継がれてきた、様々なもじたち。痛いくらい静かな食卓に座して、僕たちは壁際のもじを見やる。

今、僕は、彼女を苦しめ、規定しつづけてきたもじに、恐る恐る触れる。もじの方も強張っているのだろう。なんだかぎこちない。もう少し強く握ってみようか。手汗を気にしながら、僕は両手に力を入れた。

その瞬間、にゅるっと音を立てて、もじは僕の手から抜け落ちた。



幻視譚(にたろ)

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