サアメと踊る(加藤葉月)
こんにちは。
『かぎろい』にてサアメ役を務めました、加藤葉月です。今回は、私が彼女とどのように向き合い、上演までたどりついたのかについて、皆さんと一緒にたどってみたいと思います。
サアメという役と最初に出会ったのは、去年の夏。台本上で初対面した彼女は、まるで霞のような、カゲロウのような、つかみどころのない子でした。そこから稽古をしていく中で試行錯誤を重ねたものの、サアメっぽい何かにはなれても、サアメにはなれず、サアメになるということがどういうことかも分からないまま、延期公演の準備期間を迎え、サアメであることの感覚を何となくでも掴んだのは、本番を目前にした劇場入りの最中でした。
まず、技術的な側面で苦労したのが、目が見えないという表現のやり方でした。役者としての自分は目が見えているのに、見えていないふりをするということが、こんなに難しかったとは。目の焦点があっていない、とかそういうことだけではなく、目が見えない人は周りの空間にどうアプローチしていくのかを考えなくてはなりませんでした。一方で、演出からサアメだからわかること、彼女だから「視えて」いることがある、との指示があったので、そこの間をどのように自分のものにしていくか、という感覚を掴むのも、悩みながらの稽古でした。
また、それとは別に、サアメとしてその場に存在するにはどうしたら良いのか、ということも大きな課題でした。サアメはセリフが少ない分、その場にただ居るということを丁寧に行う必要がありました。ではサアメであるとはどういうことなのでしょう。サアメになるってどうするということなのでしょうか。このようなことを稽古場で悶々としながら考えていた時、そもそもサアメを自分の外部に置いて、その人になることを目標とすること自体が間違っているのではないか、と考え始めたのです。これは深く追求すると役者のあり方にまで話を進めてしまいそうなので省きますが、とにかくサアメを自分の中に見出し、自分の身体はあくまで自然に近い状態で行こうと思ったのです。
そして、ここに辿り着いたのが、王子小劇場に入った後のことでした。作品の安定性を追求するなら、遅すぎるような気もしますが、これは仕方のないことであったのではないかと思っています。サアメとしてうまく存在できている時、私の意識というのはどこか体の奥底の水底に潜っていて、感情やその他理性的な思考は曇りガラスをかけられたように自分の中心からはよく見えません。一方で、人々に触れた時の手触り、床の温度や感触、空気の匂い、照明の熱、スピーカーからの音、お客さんの衣擦れ、そういった五感で感じるものは、いつもよりも鮮明に自分の中に入り込んでくるのです。不思議な感覚でした。何が私の中で起こっていたのかわかりませんが、本番が深まっていくにつれて、自分の中の眠っていたものが少しずつ目覚めていくような心地がしていました。これは、サアメになろうとしてなった、というよりも、サアメという役が自分の中で呼吸し始めたということなのではないかな、と思っています。
なんだか異端宗教の巫女のようなことを言い出してしまいましたが、このように自分の外側のものに敏感になったことにより、サアメ自身が影響を受け、日々役の輪郭が揺らいでいる感覚がしたのも、とても面白い体験でした。サアメはあの場所に行ってはじめてサアメになったのだと思うし、別の場所でやっていたら、きっと違うサアメになっていたでしょう。
最後に、サアメの儀式のシーンについてお話ししようと思います。実はあのシーン、なんとなくの動きのニュアンス以外は特に決まっておらず、毎回即興で踊っていました。私は、あのシーンこそがサアメと私自身を繋ぐ鍵だったのではないかと思います。4歳から今まで私の人生に踊りが存在していなかった時間はないといっても過言ではないほど、踊りと共に生きてきました。私にとって踊ることは、主体的に行うことではありません。音や周りの人々の呼吸といった周りから受けるものによって「踊らされる」といった方がしっくりします。そう考えると、サアメであることは私にとって舞うことだったのだと思います。私を素敵に踊らせてくれた、珠生さんと共演者たち、そして裏方の皆さんとお客様に大きな感謝を捧げ、私のあとがきとさせていただきます。皆様、本当にありがとうございました。
(演出 振付・役者 / 加藤葉月)
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