きろく

げきじょうがあるまち、ちゅうかりょうりやさんがあるまち。えんげきも、ちゅうかりょうりもすきなはずだけど、いけぶくろをすきになったことは、ない。どこまであるいても、おなじたいるや、はしらが、えーえんとつづいているえき。えきをぬけても、まちはしたしげで、からふるなかおをみせながら、やさしくきっぱりとわたしをこばむ。そんなまちをずーっとずっときたへとぬけて、わたしはすこししずかなばしょにあなをみつけた。そこにくびをつっこん で、あたまをしたに、つまさきをうえにして、ちかへちかへと、もぐっていった。

ちかへもぐると、ふっと、にたろのせなかがみえた。それから、えいぞうでしかみたことのなかったひとの、すがたも。くらくて、なんだか、いごこちがいい。ぜんせでわたしがでいりしていた、がくやににたふんいきで、なつかしくなった。めいめつしている。つうそうていおんのように、あかりがおとを、たてている。いけぶくろのまちが、たにんごとのような、このくうかんで、わたしはそれでもきょひされているようでもある。つつみこまれることと、こばまれることが、どうじにおこることがあると、わたしはそこで、かくしんする。かがみでできたいけをのぞきこむ。ぬのにあいたあなをのぞきこむ。わずかに、ほんのわずかにかぜがふいていて、とうめいのばるーんがおどる。とうめいなばるーんは、よくぼうをかくしもったちくびみたい。なんであれ、ことばのないくうかんにほっとする。ことばのないくうかんってすてきだ。

おもむろに、おんなとおとこがやってくる。おんなは、おとこに、えふでを、あてる。おんなは、おとこのきずを、ふかくする。ちかのみんなが、それをみてる。かめらで、とるひともいる。かめらで、なんどもとる。わたしも、おとこにちかづいたり、おんなにとおざかったりする。とうめいなばるーんをひとつとって、だきかかえるだけで、そのばしょにうけいれられたきになっている。めのまえで、だれかにとって、なにかがかんせいするのを、しんぼうづよ く、まつ。まだにんげんのがわにいる、おとことたまにめがあう。

おんなに、きずをつけられていたおとこが、きずそのものになったとき、ひとつのさぎょうがおわった。おとこは、 ちじょうにあがる。あたまをうえに、つまさきをしたにして、うかびあがる。にんげんたちは、だまってついていく。 きずがあるいていると、にんげんがふりむく。そのにんげんは、わたしのりかいできないことばをつぶやいて、くびをふった。わたしは、なにもしてないのに、なんだかほこらしげになった。こうさてんでは、こうこうせいの、うつくしいかっぷるがみてる。かれしが、かのじょになにかささやいて、すまほをとりだして、きずのしゃしんをとりはじめた。こうきのめ。いぶつをみるめ。でも、きずは、わたしとちがって、まちにこばまれていなかった。いけぶくろをたがやす、というひょうげんがただしいのか。かいならすというひょうげんが、ただしいのか。いけぶくろの、にんげんたちのもうまくに、たんたんときずがつけられていく。それはゆかいだった。

それはちょうど、げきじょうのあたりでのことだった。にんげんが、いつつのほうこうからいっせいに、やってくるこうさてん。おとこはあちらにいて、わたしはこちらで、わたりそこねた。おとこは、みるみるうちにとおくにいった。 びっくりするくらいはなれても、きずはまだ、わたしのもうまくにうつってた。きずがめにみえなくなっても、それがまだ、どこかで、うごきつづけていることがわかった。そのようにして、わたしは、いけぶくろのまちに、ほうりだされた。

わたしはもう、かれをおうひつようはない。わたしは、そうおもった。おわりをみとどけたら、それはおわりになってしまう。おわりをみとどけなければ、おとこは、きずになったからだで、いけぶくろのまちを、さまよいつづけてくれる。かざあなをあけつづけてくれる。わたしがおとこを、ぼうきゃくすることが、らいせまでかなわないのと、ひきかえに。いけぶくろのひとごみのなかに、おとこのせなかはいつもある。なにしろ、おとこがあけた、りったいてきなきずからは、すでにかぜがふきはじめているのだ。そのかぜが、あなたとわたしのほおをなでて、はしりぬけてった。

井潟瑞希

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