[観劇・感想]劇団 怪獣無法地帯 『FANTASY/』
11/25 14:00 ステージを観劇させて頂きました
感想をアウトプット
今回はかなり考察が膨らむ作品でした
団体の名前の通り、役者の方々の無法地帯でした
アドリブの多かったのでしょうか
気のせいでなければ途中、Y役むらかみ智大さんが吹き出している?
瞬間も垣間見えましたので、本当に自由に怪獣さんたちが暴れ回っていたのでしょう
今回私が読み取ったテーマは「自我」でした
(本当にそうだったかはわかりません。感想なのであくまで私見ですが)
ネタバレを少なくしたいので、ストーリーについては語りませんが
生きている中で自我を意識したことは、どれだけあるでしょうか?
人は生きている中で、求められている事/役割を演じているのではないかと思います
ユングの言うペルソナですね。(ペルソナについてアウトプットは後日投稿予定です)
今回はそのペルソナ(仮面)の代わりに人形を使って
演じているキャラクターと元の人間の書き分けがされていたと思います
よく「自分は人生と言う物語りの“主人公“だ」という言葉を聞きますが
視点を変えるとそれは
自分以外の人間は、全て仮面を被った登場人物(今回は≒人形)でしかない
ということかもしれません
でも、自分も社会の役割に合わせて人形にならざるを得ない場面が多々あります
自分本体ではなく、その人形を操って生きている
その場合、自分自身は生きていると言えるのでしょうか?
もしかしたら自我をなくし、生きる屍となっているのかもしれません
そんなことを考えてしまうお芝居
そんな事を考察から考えてしまいました
今回の登場人物は
全てアルファベットの記号として呼ばれています
A〜I 飛んでY
B〜Iは登場人物のイニシャルをとって順番に呼ばれていましたが
AとYは少し違った意味合いがありそうです
Y(四谷幽) は小説家
そしてA(杏)はYに生み出された小説の中の登場人物
(なんだか数学の式みたいな文章になってしまいますがお付き合いください)
B〜Iが「FANTASY」を創る過程でのみ具現化される少女
作中ずっと他の人物の行動を傍観する謎の人物でした
杏とは一体なんなのか
考察のヒントは
クライマックスでのやり取りにありました
YとIとの対話、自分のファンたちがどんな作品を作るか見てみたい
杏はY創作物です
言わば自分の分身だとしたら
他者を傍観する杏は、Yの目の代わりをしていたのかもしれません
ここから想起したのは、杏=an(英語の冠詞)
冠詞の “an”だったとして、その後ろに続く単語は何か?
私がたどり着いたのはan EGO(自我)でした
Yの自我、分身としてファンたちの動向を観察している
そんな意味合いが隠れていたのではないか
そして、当人のYはというと
社会性を失い自我に囚われた小説家
友人の I に社会的な顔を押し付けるような身勝手な人間
Yの下の名前は幽(=YOU)
I は四谷の社会的な顔を、YOUは四谷の自我を演じていた
まさに最初にお話ししました
人形と自分本体のお話につながってきます
社会の上では人形(私= I )は演じなければがいけない
そうすると、本心(自我=YOU)は生ける屍になってしまう
もし人形が自我を持ったら・・・
さて、私、山口のYOUは、まだ生きていられるのでしょうか
そんな事を考えてしまいました
これは私の考察でしかないので、こじつけが過ぎるかもしれませんが
考察とは元来そう言うものかもと思いますので、
違ってもお許しください笑
最後に、
今回の作品を見て想起した作品がありました
「戦場でワルツを」という映画作品です
その映画では、ラストまで戦争体験をアニメを通して語る作品なのですが
(ざっくりすぎですね。ごめんなさい)
作中のこんなお話がありました
とある戦場カメラマンは、カメラを通し戦争の惨劇を、望んで納めていた
しかし、ある時カメラが壊れてしまう
カメラマンは初めてレンズ越しでは、自分の目で惨劇を目の当たりにし
発狂してしまった
(昔に観た遠い記憶なので、これまたざっくりです。ごめんなさい)
今回の作品に準えると
人形(ないしは今作そのもの)には、
自我を現実の悲惨さから守るレンズの役割があるのかもしれません