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この子に別れを告げる時がきた。
くるぶし丈の白い靴下。
真っ赤なハートの刺繍がワンポイントで入っている。
大学4年生の時に到来したスニーカーブームがきっかけで買ったものだ。
スニーカーの上からのぞくハートが可愛いらしく、
ファッションにあまりお金をかけられなかった
当時の私にとってのささやかなオシャレだった。

でも、社会人になると履く機会が少なくなる。
平日は仕事ではパンプスにストッキングだし、
休日は掃除、洗濯、料理の作り置きだったり
仕事の5日間で溜め込んだ家事をまとめて片付けていると
1日が終わっているし
友達と遊びに行く時や、彼氏の悠斗とのデートにしても
子供っぽいスニーカーとハートの靴下のコーデよりも
もっと大人っぽい服装を選んでしまう。

この子が日の目を浴びることはめっきりなくなってしまった。
せめてもと思い、家の部屋着の一部として愛用し続けていたが
今では両足とも親指の先に小さな穴が空き、
踵も肌が見えてしまうくらい薄くなっている。
そして、なぜかわからないけど右足の甲の部分に穴が空いていた。
何かにひっかけたっけ?歩き方が変なのかな?
色々考えたけど理由はわからない。
でも、この不思議な穴は謎の母性をくすぐり
もう少しこの子を育ててみようと奇怪な感情を抱かせて
どんどんと捨てるという考えから、私を遠ざけていった
この子がウチに来てからもう5年になる

悠斗と一緒にいる時間よりも長い
悠斗と出会ったのは、2年前きっかけは友達に誘われて行った
ダーツバーで向こうが声をかけて来た。
言ってしまえばナンパだ。
そこで意気投合した訳でもなく、ただ何となくLINEだけが続いていた。
見た目はスラっとしている割に、意外とマインドは体育会系で
営業の仕事をしているらしく。結果重視の野心のあるタイプだった。
そのうち食事やお出かけに誘ってくる様になり
休日に家事だけをこなし後はダラダラしていた私に
仕事以外で外の空気を吸う機会をくれるありがたい存在になっていた。
そして一年後、ついに向こうから告白をされた。
正直、嬉しかったけど好きかどうかは分からなかった。
でも、断る理由も特にないし プライベートで一番時間を共にしている関係だし いつも色々してもらってるし…とウダウダ考えても埒が明かないので付き合ってみた。
そのまま特に彼を振るほどの事件も起きていなかったので付き合い続けていた。
昨日まで。

と言っても、昨日も事件という事件は起きていないのだけど
昨日、彼がウチに来ることになった。
少し前からお互いの家を行き来する様になっていたのだが
昨日は帰宅途中に
「今日仕事終わったら行ってもいい?」と急なLINEが来た。
珍しい。なにかあったのかな?別に予定があるわけでもないし
「いいけど部屋片付けたい。何時に仕事終わるの?」
「19時過ぎぐらいかな。そっちつくのは20時ぐらいかな」
OKと好きな最近ハマっているスタンプを送り通知が止まる。
2時間後の時間がない。とりあえず、早足で家に向かう。
好きかわからないとはいえ、彼氏が家にくるのだ。
それなりの準備をしないといけない。

幸いにも月曜日、昨日掃除は済ませている。
家に着いたらまず、玄関の靴を並べ直し
さすがに仕事着のままではいられないので
ラフすぎない程度に部屋着に着替える
大学の時によく来ていたパーカーとスキニー
普段は使わないけど、こんな時ぐらいのスリッパも履いてみようかな
それぞれを引っ張り出して、急いで着替える
ゴミ箱の中の物を求め、見えない位置に隠す
「あ、お腹が空いているかも」と、
冷蔵庫の作り置きを取り出す。
冷凍庫で小分けにしたご飯だけチンしよう

そんなこんなバタバタしている内に通知がなった
「あと10 分で着きそう。どんな感じ?」
「掃除終わった。待ってるね」
○のスタンプを送る。
予告通り10 分後にインターホンが鳴る。
鍵とチェーンロックを外して、扉を開けると
スーツ姿の悠斗がいた。
普段見ないスーツだと、何だか別人の様に見える。
「ごめんね。急に」いつもより声が低い
「お疲れ。お腹空いてる?」
「とりあえず、大丈夫。ビールとつまみかってきた」とコンビニの袋をクイっとあげてみ見せる。
「そう。じゃ、それでいっか。お腹空いたら言ってね」
「うん」と気のない返事が、気になってしまう。
こちらの準備してるよのアピールに気づいているのかな。
まぁ、別にいいのだけど。

こういう時の悠斗は愚痴モードだ。
会社での不満を誰かに話したい時、職場の同僚が捕まらない時は
たまに私に話して発散する。
「いやー仕事でさー…」ほら、案の定。
こういう時は黙って聞いてテキトーなタイミングで相槌を打つ
普段の悠斗との会話嫌いじゃない。むしろ好きだ。
普段の営業職スキル何だろうけど、何でもない私の話ですら楽しくさせてくれる。
だから、こういう時ぐらいは我慢して、黙って聞いてあげるのだ。
でも、今日は相当溜まってるらしく徐々にヒートアップしていく。

「あ、、」悠斗は急に何かに気付いたのか、さっきまでの熱が一気に冷めたような声を出した
「え、なに?どうかした?」なにか片付け忘れた物があったのか。悠斗の反応を伺う。
「何その靴下?」
「え?」無意識にスリッパを脱いでしまっていた。スリッパが脱げた足は素足ではなく
あのお気に入りの穴空き靴下があらわになっていた。
やばい。急いで着替えたから、クセでこの子を履いてしまった。
「なんでそんなの履いてるの?」愚痴に向けられていた熱が、わたしに向かっているのを感じる。やつ当たりだ。でも喧嘩はしたくないので特に対抗はしない。
「あ、うん。そうなんだけどさ」
「けど?」
「いや、捨てられないんだよねぇ。お気に入りだったから、愛着湧いちゃってさ」
ちょっと申し訳なさそうに答えると彼は
「え、貧乏くさ」と吐き捨てる様に呟いた。そんなことわかっている。
「わかってるよ。でも、5年も履いてたからさ。この穴とかも私のクセで出来た穴でしょう?こんなとこに穴空くんだー。とか思ってたらさ。可愛くなっちゃって。『変な歩き方してごめんねー』みたいな『この子の頑張ってくれたんだなー』みたいな気持ちになったらさ。なんか、ずっと捨てられなくなっちゃって」何だか言葉が溢れ出してきた。言い訳とは少し違う。今まで1人で握りしめていた物を人に見せるタイミングが来たのだ。この気持ちを、小さな愛情を共感して欲しかったのかもしれない。でも、
「ごめん。全然わからないわ。」
彼は恐る恐る開いてみせたその手の中の物を、あっけなく払いのけた。
「何。この子って?物じゃん。たまにいるけど、そうやって物を人みたいにいう人。理解出来ないんだよね」私は反応することもできず黙って聞いていた。それでも悠斗は続ける。
「物の価値を考えろよ。そんな見すぼらしい靴下よりさ、安くても新品の靴下の方がよっぽど機能的だろ。思い出とか知らないけどさ。普段からはっきりしないのはそこじゃない?いつも優柔不断だけど。もっとはっきりしと方がいいよ。」
価値とは何を指して言っているのだろう?値段?機能性?
私とこの子が気づいてきた。思い出は?歴史は?愛情は?たかが靴下かもしれないが
私は目には見えない価値を築いてきたのだ。それは私だけの価値かもしれないがそれを否定される筋合いはない。でも、
彼の言う事に一理あることもわかる。これが私の優柔不断さだ。決断を後回しにしとりあえずそのままを維持する。彼の言う通りそれが今の私なのだ。

不思議と気持ちがスッキリしていた。怒りの感情も確かにあるが
暖炉の日のように、ゆっくりと優しく燃えている
悠斗は言い返さない私を見て、少し満足げない顔している。言い負かしたと言う優越感が湧いているのだろう。いい憂さ晴らしが出来たのだ。
「ほら、そんな靴下捨てちゃえよ」さっきより優しい言い回しだ。
「・・・わかった。確かにそうだね。」とりあえず私は靴下を脱いで床に置いた。
「ありがとう。・・・なんかスッキリした」
「だろ。これでまた一歩成長だな」したり顔で言う彼に、私はなんの感情も抱かなかった。
「ねぇ」声をかける
「ん?」彼は返事をする
「私たちも終わりにしよ」
「は?」
彼は呆気に取られている様子だった。少しして言葉の意味をようやく理解できたのか、一気に感情を爆発させ、色んな言葉をぶつけてきたが、動揺しない私の様子を察したのか。最後は、お前なんかこっちから願い下げ…的な言葉を発して家を出ていった。
私は、その程度の男だったのかと彼が出ていくまでをただ眺めていた。
「ありがとう」しばらくして、そう口から溢れた。
彼の向けてでた言葉ではない。誰かに向けて発している感覚はなかった。

床に転がった靴下が目に入る。
脱ぎっぱなしにしたまま裏返っている。
とりあえず、今日はいいや。
そう思いながら裏返った靴下を元に戻し、また床に置く。
「グゥうう〜」とお腹の深いところがなった。
そうだ、ご飯を温めていたんだった。

そして、今日。
目が覚めて身支度を済ませ、後は仕事に出るだけ。
床に転がっている靴下を手に取る。
ハートの赤い刺繍が入ったくるぶし丈の白い靴下。
改めて見ると本当にボロボロだ、自分の恋人には履いていて欲しくないな
「今日までありがとうございました」
昨日見えない所に隠したゴミ袋にそっと入れて、手を合わせて一礼した。
さて、家を出る時間だ。
少し急いで、ストッキングを履いた足でパンプスを履く。
外に出ると、気持ちのいい春の匂いがした。


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