7.弦月の先触れ(2)
7.弦月の先触れ(2)
「……ああ!」
杏奈は大きく体を震わせた。
衝撃が強すぎて、頭蓋骨がぐわんぐわんと鳴っている。脳内が振動する。まるで勢いよく放りだされ、ガン! と石壁に頭を打ちつけたみたいに。
「う……あ、あ……」
とにかく目がまわる。声が出せない。息も上手く吸えない。
「……ンナ! アンナ!」
遠くで誰かの声がする。
はっはっと杏奈は浅い呼吸を繰り返した。
頭が酷く痛………否、頭に痛みは……ない。
もしかして、いまのは夢だったのだろうか。夢だから痛くはないのか。
痛くはないが、誰かに頭を撫でられているような。
「大丈夫だ……大丈夫だから」
温かくて大きな手だ。
「大丈夫だ……もう、大丈夫だから」
誰の声かを認識して、ようやく杏奈は覚醒した。
ベッドの上だ。
朝だ……。
「……は」
大きく息を吐いて、ぐったりと脱力する。
ゆるゆる目を開ければ、宮殿長が険しい顔つきで覗き込んでいた。
「……大丈夫か?」
杏奈は瞬きを一つ。
「夢を……視たんだな?」
その問いには目をつぶった。
宮殿長が深いため息を落とす。
「すまない。昨日が弦月であることを失念していた……」
弦月。
その言葉を聞いて、杏奈も遅ればせながら察した。
いまのは、ただの悪夢ではない。
これが、〈弦月の先触れ〉なんだ。
鏡の死の呪いを受けた者は、死を待つ間、半月の夜毎に、鏡の死の間際の 夢を視るといわれている。それが〈弦月の先触れ〉だ。
鏡に映すように、相手を殺したのとまったく同じ暴力によって、自分が死に至る瞬間の夢を、前もって視せられるのだ。
絞殺ならば、己も縊られ。
撲殺ならば、自分も撲死。
相手の胸を剣で突いたなら、己も刃で貫かれ。
相手の首を刎ねたなら、己の胴と頭も真っ二つ。
毒殺ならば、己も血を吐き、胸を掻きむしり、のたうちまわって――
いずれにせよ、恐怖と恐慌の極みの中で死ぬ。
そういう夢である。
話には聞いていたけれど、こんなにまざまざとした夢だなんて。
骸骨のようなあの男が、黄泉の闇と怨嗟にまみれつつ蘇ったとしか思えない、黒々とした悪夢だった。薄暗いのに、鮮明に見えるのだ。
あの悪夢が、半月の度に、月に二回。
殺した相手と同じ歳になるまで、何年も何年も。
恐怖しかない。
死ぬより先に、気が触れてしまいそう。
だから、先触れと呼ばれているのかも。
半月の夜は眠らないようにしないと。
硬く心に決めながら、杏奈はため息を落とした。
ゆらゆらと半身を起こす。
窓にはめられた鉄格子を見て、ここがどこかを思いだした。
四乃宮……の一階にある、客室らしき部屋だ。
昨日の晩、杏奈をここへ連れてきた宮殿長は、囚人なのにどうして絨毯張りの豪華な部屋なのかと困惑する杏奈に、すまない、と謝った。
「今夜は私と一緒にここで寝てくれ」
誤解がないように説明すると、二人用の客間で、ベッドは二つだ。
「昨日の今日で、私の部屋すらまだ用意できていない状態なんだ。今日のところはここで我慢してほしい。クオカたちが用意した、君のための個室があるはずだが、奴らがなにを企んでいるのか、まだ想像の域を出ていない。だから私の傍にいてほしい。ここが一番安全なんだ」
若い男と同じ部屋で眠るのが安全かどうかは、意見の別れるところだったが、杏奈はうなずき一つで従った。
四乃宮に連れてこられるまでの一週間、ほとんど眠れなかったうえに、すでに夜の鳥すら微睡むような深更で、もう体力の限界。首肯しながら、半分船を漕いでいる状態だったのである。
寝間着用のブーロを渡されて……。さっさと着替えてベッドに横たわった途端、寝ちゃったのね、私。
無防備すぎるぞ、と自分に呆れていると、一旦姿を消していた宮殿長が、普段着用らしき生成りの木綿のブーロとタオルを手に戻ってきた。
「お湯の用意をさせたから、身体を拭いておいで」
男の人と二人きりの部屋で、裸になるとか。
「私は執務室に顔を出してくるから。ゆっくりでいいよ。さっぱりしてくるといい」
捕まって以来風呂に入っていなかった杏奈は、お湯の誘惑に勝てず、タオルを受け取った。
なるようになれ、である。