『懸想文売り』参の文〈ボンボニエール〉
参の文〈贈歌〉
忘れられない。
どんなに消去しようとしても、記憶の隅に蹲ったまま離れない。あの日のことが。
高校三年生の、最後のホームルーム。
受験を控えた私たちに、話し合い事項があるはずもなく。
最後に遊ぼう、と誰かがいった。
机を後ろに下げて、丸く椅子を並べて。
始めたのは、椅子取りゲームの〈フルーツバスケット〉。
クラスを苺、蜜柑、桃、檸檬のグループに分けて、鬼役は先生。
一脚ずつ椅子を減らしていき、座れなかった人は輪に戻れないルールで。
私は林檎グループだったかな。
ブレザーの紺と詰襟の黒が右往左往する景色でも、気分はカラフルな赤、橙、ピンク、黄色が行き交うみたいで楽しかった。
「蜜柑!」
鬼が叫んだ途端、私の隣の人が立ち上がった。
どすん、と入れ替わりに座ったのが――
「――くん」
私は名前を呼んだはず。
「――さん」
そっちも、私を呼んだよね? 俯き気味だったけれど。
でも、その続きがあったから、私はびっくり仰天だった。
「僕は――」
女子とは滅多に喋らない人が、私に話しかけた!
驚きのあまり、ぼそぼそと話し始めた隣の男子を、ぐりん! とふり返っちゃったよ。
ゲームで高揚して、ざわざわしている輪の中で、
「あなたが……」
ずっと欲しかった言葉が、聞こえた気がした。
でも、確とはいえなくて。
「えっ、なに?」
もう一度いって。
私は耳を近付けようとした。
そのとき。鬼が叫んだ。
「フルーツバスケット!」
わあっと全員が立ち上がり、私も慌てて腰を浮かして、空いている席へ移動して。
それっきり。
再び、二人が隣り合わせになることはなく。
そっちが、続きを話しに来てくれることもなく。
いまでも、気になって気になって仕方がありません。
あのとき、聞こえてきた言葉が。
本気だったのか。単なるゲーム中の気紛れか。
今度、同窓会があるよね?
私が主催者の。
最後に、ボンボニエールを配ります。
中身は、色とりどりのドラジェ。
蓋を開けたら、フルーツバスケットみたいに見えるかも。
銀色の、特別なボンボニエール。
あなたの席に、こっそり先においておきます。
もしも。
私の耳が拾った言葉が間違いではなくて、
いまも、その気持ちが続いているならば。
私の前で、ボンボニエールの蓋を開け、
食べてください。私の色を。
壱 ボンボニエールと恋文
「あっ、ボンボニエールがない!」
小春日和の火曜日。
帰宅早々〈カメリア〉のショーウィンドーを覗いた千歳は、お気に入りの菓子器が消えていることに気付いて声を上げた。客がいないのをよいことに、通路を駆け抜け伊織に声をかける。
「ボンボニエール、売れちゃった?」
「ああ。今日の午前中に」
「残ねーん」
蜜柑を模った、錫の合金のアンティーク。手の平に載せると、銀色の蜜柑を愛でるようで、楽しかったのに。
「売れなきゃ、店が干上がっちまうだろ」
「まあね」
「それに、仕事も連れて来てくれたぜ、あのボンボニエール」
一緒に恋文の代筆を頼まれた、と伊織が手元の紙に目を落とす。
「あ、今日は文の日か」
今頃、書生姿の伊織に気付いた千歳である。
「いま、書き終わったところだ」
仕上げたばかりの文を伊織がひらりとつまみ上げ、気軽に見せようとする。また勝手に人の恋文をと、千歳は顔をしかめたが、
「でぇ丈夫だって。今回はちゃんと許可も取ってある」
本当に?
疑いつつも、そこは読んでしまうのが人情というもの。
――そして、文を読む――
「高校のときからの想い人に、ボンボニエールで告白!」
ロマンチックぅ! と千歳はうっとりしたが。
「うん、これが小説だったらな」
物語なら傍迷惑な二人でも、盛り上がった読者が全部許してくれるし、と伊織はいって皮肉っぽく笑った。
こんなふうに、彼が意地悪な物言いになるのは、代筆を頼まれた恋文が、額面通りではないとき。
折角、甘美な気分に浸りかけたのにね。
「ロマンチックな展開じゃないの? これ」
「うーん、相手の王子様次第ってところかな」
常識人だったら駄目だろう、と断言する。
「だが、陶酔型の王子様だったら面白いことになるぜ。俺的には、そっちを期待してるがな」
完全に野次馬である。愛らしい蜜柑のボンボニエールが台無しになりそうで、とっても不吉だ。
「どうして、王子様が陶酔型だったら、面白いことになるのよ」
「そりゃ、主役がボンボニエールだから」
「ボンボニエール?」
「おめぇ、解ってねぇな? ボンボニエールの意味を」
「キャンディー入れでしょ」
関西風にいえば、飴ちゃん入れ。
「訳語としては合ってるが、日本でボンボニエールといえば、なにを連想するかだ」
日本で?
「なにを……?」
「日本では、皇室ゆかりの菓子器として有名なんだ。ボンボニエールといえば、お祝い事の引出物。引出物と聞いて浮かぶのは?」
「……結婚式」
「正解」
千歳はもう一度文に目をやり、最後のほうを読み直した。
今度、同窓会があるよね?
私が主催者の。
最後に、ボンボニエールを配ります。
中身は、色とりどりのドラジェ。
「ここに書いてある〈私が主催の〉〈同窓会〉って……」
「結婚披露宴だろうな」
当然のように、伊織が宣う。
披露宴なら、主催者は本人だ。招待客の多くは同級生。同窓会めいた雰囲気になることも少なくない。
「ボンボニエールの中身がドラジェってのも、まんま披露宴だし」
ドラジェとは、アーモンドやチョコレートを砂糖でコーティングした糖衣菓子。
そのドラジェが登場するのも、披露宴や二次会の引出物としてだ。
「じゃあ、この恋文は」
結婚式の当日に、自分を攫ってほしいというお願い?
「だからいったじゃねぇの。王子様次第だって」
千歳の文を持つ手が、小さく震えた。
「駄目だよ、そんなの!」
ぐしゃっと紙を握り潰して叫ぶ。
「うわっ、おめぇ、なんてことしやがる!」
清書したのに! と伊織が悲鳴を上げたが、知ったこっちゃない。
「映画の『卒業』みたいに、結婚式当日に逃避行なんて、論外! 相手を馬鹿にして、親に恥をかかせて、お祝いに来てくれた人の好意を無駄にして! 迷いがあるんだったら、式なんて挙げなきゃいいのに!」
千歳の剣幕に伊織が目を丸くしているが、知ったこっちゃない。
「結婚式の前に止めなきゃ」
大事なのは、そこ!
「ボンボニエールを買った人って、また来るよね?」
文を受け取りに来るはずだもんね?
鼻息荒く確認するも、
「やめたほうがいんじゃねぇの」
伊織はがりがり頭を掻く。見るからに、乗り気ではなさそう。
「なんでよ?」
「これ頼んだの、〈火曜の女〉だぜ?」
「えっ、火サスさん?」
ほぼ毎週火曜日に現れる常連さん。〈カメリア〉を訪れるたびに、なにかしら買ってくれる女性である。
彼女が購入するのは、可愛らしいもの。羽付きボールペンとか、紅茶のアンティーク缶とか、刺繍入りのリネンのサシェとか。そうそう目新しいものはないと思うのだが、彼女は目敏く見つけだす。ちなみに、先日は、フランス産のアニスキャンディーだった。楕円缶の絵柄が飴の味を補っている、可愛らしいやつである。
巻き毛の彼女が姿を見せると、千歳は「今日はなにを」と気もそぞろ。彼女が商品を持ってレジに現れるまで、どきどきのサスペンス。だから、彼女は火曜サスペンス――略して〈火サス〉さんなのである。
「そういえば彼女、『もうすぐ結婚するの』っていってたね」
「ああ」
「うーん、そっかぁ。火サスさんかぁ」
千歳は唸った。
ベジタリアンだという火サスさんの服装は、冬場もオーガニックコットンらしきベージュの上着とロングスカート、生成りの靴下。いつも淡い色目の彼女が纏うのは、ふんわりとした空気。
けれど、巻き毛の妖精さんみたいな見てくれに、騙されてはいけない。
千歳は見たことがあるのだ。「もうすぐ三十路なの」と呟いた彼女の瞳に、苛烈な炎が揺らめいているのを。
あれは、ターゲットを物陰から見つめる犯人の目。
まさしく、火曜サスペンス!
それはともかく。
このまま放っておいたら、『卒業』の二の舞だ。別の意味でスリルとサスペンスなドラマが始まってしまう。
「でも、なんでこんな懸想文……? 結婚の話をしてた彼女、すっごく嬉しそうだったし、幸せ一杯って感じじゃなかった?」
「俺が知るか」
「こんな文を作成したくせに、彼女がマリッジブルーかどうかも聞かなかったの?」
「今回は、草稿の持ち込みだったんだ。俺は清書しただけ」
伊織が机におかれたA4の用紙を指で叩く。
「えっ、火サスさん自身が書いてきたの?」
驚いて覗き込めば、下書きは印字されたものだった。
「もしかして、火サスさんは物凄く字が汚い、とか……?」
「逃避行に失敗したときに、これは自分が書いたものじゃない、私の字じゃない、とか言い逃れができるようにしとこうと思ったんじゃねぇの」
「でも、伊織の字だって、見る人が見たらわかるじゃない。伊織が『あの人に頼まれました』って証言したら終わりでしょ」
「俺は、客の名前は漏らさねぇよ」
そんなこといって、第三者の千歳に文を見せちゃってるくせに。
ジトっと伊織を横目で睨みながら、千歳はたずねた。
「火サスさんの結婚相手って、どんな人か知ってる?」
「いや、知らねぇ」
返しかけて、伊織がふと思いだしたように、
「そういや、〈蓮華〉で結婚指輪を作るとかいってたな」
「蓮華さんのところで?」
〈蓮華〉とは、〈カメリア〉にアクセサリーを納めてくれているメーカーさん。ジュエリーを作っているのは社長兼社員の蓮池華さん一人という、個人経営の業者さんである。
工房〈蓮華〉では、希望者を対象に、結婚指輪製作教室も開いている。
火サスさんはその教室にフィアンセと一緒に通うことにしたのかもしれない。通っていなくても、一度くらい二人揃って来店したかも。
「蓮華さんなら、火サスさんの結婚相手も知ってる……?」
「そりゃ、知ってるかもしれねぇが……。まさか、あなたの恋人は披露宴の最中に逃げようとしていますって、火サスの相手に警告でもするつもりか?」
「ノープラン!」
千歳は胸を張って返した。
「まずは火サスさんの相手がどんな人か、蓮華さんに教えてもらってから考える!」
「つったって、日中の蓮華はなしの礫だぞ」
伊織と同じ歳なのに、作業中の蓮華さんは職人気質の偏屈爺。仕事を遮る電波は容赦しないとばかりに、工房には携帯も固定電話もパソコンも存在していない。
「だったら、直接会いに行くまでよ!」
「おいっ! 待て!」
独りで行くな! と後ろから声が追いかけてきたが、千歳は鞄を奥に放り投げると、携帯片手に店を飛びだした。
目指すは、坂の上にある蓮華さんの工房!
弐 工房〈蓮華〉
蓮華さんの自宅兼工房は、北野異人館街の急な坂道の途中にある。スリムな二階建ての一軒家だが、坂の傾斜のせいで、住居の玄関口は二階。工房へは、半地下になっている一階部分から入る。
「こんばんはぁ、椿原です」
がらがらと木枠の音を鳴らしつつ、工房のガラス扉を引き開けると、奥で作業中の人が顔を上げ、丸眼鏡の奥の双眸を見開いた。
「どないしたんな、いきなり」
驚き顔で蓮華さんが立ち上がる。グレーのセーターに、紺色デニムのエプロン姿だ。ひょろ高い背の人が立つと、元はガレージだったという工房の天井が、妙に低く見える。
「いまお時間ありますか。ちょっとお聞きしたいことが」
「お時間なんて、ございませんが」
冷たくいいながら、蓮華さんは近付いてきた。目元が少々釣り上がって見える。しかし、蓮華さんのきつい口調はいつものことである。千歳は気にせず中に足を踏み入れ、無精ひげが生えた相手の顎を見上げた。
そう。蓮池華さんは、紛うことなき男である。ハナという響きがあまりに似合わないので、普段はレンガと呼ばれている。
「火サスさんなんですけど、ここで結婚指輪を作っていませんか」
火サス? と蓮華さんが首をかしげ、「ああ、ゆるふわさんな」とすぐに了解した。伊織と仲の良い蓮華さんは、納品ついでにしばしば駄弁っていくので、千歳が〈カメリア〉の常連客を、訪れる曜日で区別していることも知っている。
「作ってはるで」
「婚前の共同作業で?」
「そう。二人でいちゃこらしながら」
「いちゃこら……」
恋文の切なげな調子と合わないな。
「彼女さん、楽しそうに作業してます?」
「めっちゃ楽しそうにやってはるよ。なんせ、彼女のほうが彼氏を引っ張ってきたんやし」
「え、そうなの」
「大体はそうなんよ。女が男を連れてくんの。ほんで最初は、男のほうが通うなんて面倒臭い、とかゆうてんねんけど、やってるうちに面白なってきて、終いには夢中やね」
火サスさんの相手もご多分に漏れず、だったらしく、
「いまは、彼氏さんのほうが熱心なくらいやで」
「逆に火サスさんは、あんまり気が入ってなかったりします?」
「いや、そんなことはない――」
答えかけて、蓮華さんが丸眼鏡の奥の目を細める。
「そもそも、なんでそんなこと知りたいんな?」
「それは、その」
伊織の代筆屋を知る蓮華さんにでも、懸想文の内容まで明かすことはできない。なんと説明したものかと言い淀んだそのとき、背後で扉が勢いよく開いた。
「こらっ! ちと!」
伊織だ。店を閉めてから来ただろうのに、もう追いついた。
「陽が、落ちてから、独りで、こんな所へ、来んじゃねぇぞコラ」
肩を怒らせ、ぜえはあいっている。
成程、商店街に比べれば、夜の北野は暗いけれど。
「まだ五時じゃない」
「五時でも、真っ暗だろうが」
「子供じゃないんだから、大丈夫だよ」
「子供じゃねぇから、危ねんだろうが」
伊織が大きく息を吐き、額の汗をぬぐう。
「もしかして、坂道を走ってきたの」
「ああ」
わあ凄い、と千歳は呑気に感嘆した。
「美人の書生さんによる坂道ダッシュ。見たかったぁ」
「いい加減にせんかいな、あんたら」
いちゃこらするなら別の所でやってんか、と不機嫌そうにいいながら、蓮華さんが髪を束ねている黒ゴムを後ろ手に引っ張った。
ラーメンみたいなワンレングスの茶髪が、肩先でうねうねと広がる。
「ジョン・レノンみたい」と常々千歳がいっているこの髪形になると、蓮華さんの作業は終わりだ。もう仕事にならないと諦めたのだろう。
「で? 火サスさんやったっけ? 彼女がどないしたんな」
「ええと、ですね……」
「火サスの奴が、マジでドラマみたいな展開を企んでやがんだよ」
「ちょっ! 伊織!」
勝手にお客様の事情を! と千歳はあわあわしたが、
「うっせぇ」
と伊織はひと蹴り。説明もなしじゃ、協力なんてしてもらえねぇだろ、とあっさり恋文の下書きを蓮華さんに見せてしまった。
しかし、
「こんなん、放っといたら?」
文を読んでも、蓮華さんはやっぱり冷たかった。
なんでこんな人が、あんなうっとりするくらい甘いデザインの指輪を作れるんだろう。
カメリア七不思議の一つである。
参 蓮華とリリーさん
「こんにちはぁ」
三日後。再びの工房〈蓮華〉。
がらりと扉を開けると、一組の男女が千歳をふり返った。そのうちの一人は火サスさんである。
「あれっ、こんにちは」
白々しく声を上げる千歳。
「あら」
目を丸くした火サスさんは、純粋に驚いたご様子。
どうしてここに、と問いたげな火サスさんに答えたのは蓮華さんだった。
「指輪の新しいデザインが出来たので、〈カメリア〉さんに見ていただこうと思いまして」
「近くまで来たついでに、ちょっと寄ったんです」
嘘の用事を告げた千歳は、「続けてください」と作業の続行を促し、「ここで見させてもらっていいですか」と台の端に座った。
打ち合わせ通り、蓮華さんがデザイン帳を持ってきて、渡してくれる。
カムフラージュといっても、描かれているのは実際に〈カメリア〉に納品予定の指輪で、千歳もすでに見たものだ。デザイン画を眺めるふりをしながら、さり気なく男女を観察する作戦である。
千歳は帳面を開き、ふむふむと絵に目を落とした。
ぱらりと紙をめくって、次のページへ。
三枚目で、おやっと手を止めた。
帳面の隅っこにある、百合の絵に気付いたのである。
前後を確かめると、一、二枚目にも、四枚目以降にも描かれている。最初は蕾で、徐々に綻んでいき、最後のページで綺麗に満開。
これって、パラパラ漫画?
だが、蓮華さんの手によるものではない。明らかに筆致が違う。
蓮華さんを手招きして、帳面の端を指さすと、蓮華さんがなんともいえない顔で唸った。
「あー。それたぶん、リリーの悪戯や。この間、隅でごそごそやっとったさかい」
リリーとは、百合根綾子さん。リリーというイラストレーター名で、本のカバー絵などを手掛けている、二十代後半くらいの女性である。〈カメリア〉の常連さんの一人だが、決まった曜日には来ない、不定期客だ。
本人曰く、「そこそこ売れてる」らしく、普段は北野の自宅兼アトリエでしこしこ仕事に励んでいるが、疲れてくると〈カメリア〉に息抜きにやって来る。
「あー、いつ来てもここのパッサージュは癒されるぅ」
と懸想文商い用の椅子に腰かけ、寛いでいくのである。
偶さか、納品に来た蓮華さんと遭遇したりすると、イラストレーター魂に火が点いちゃって、もう大変。
「こんな指輪なんてどう? 作れる?」
などといいながら、懸想文用の紙にさらさらとデザインを描きだす始末。
「ふんふん、こらええな」
と蓮華さんも相手をするので、さらに長居。
さすがにいかがなものかと千歳は伊織に訴えたが、
「マタタビだと思って放っとけよ」
ときたもんだ。
リリーさんは、豊満な胸を持つ美人さんなのである。
当然ながら、男性におモテになる。彼女がいるだけで、引き寄せられるように、男の人がお店に入ってくる。魅了のフェロモンでも出ているのじゃないかと思う。
「まあ、その落書きは気にせんでええから」
苦笑しつつ、蓮華さんも作業机の定位置に戻っていく。二人は美大の先輩後輩で、元々仲がよろしいらしいが。
それにしたって、リリーさんは愛され許されキャラだよね……。
いつも、賞味期限が迫りつつあるお菓子類などを買っていってくれるので、よいお客様ではあるのだが。
ふんす、と鼻息を吐き、はっと千歳は我に返った。
いっけない。観察観察!
すっかり、当初の目的を忘れていた千歳である。
肆 もっさりさんが……!
改めて帳面を開くと、一旦デザイン画に目を落とす。
それから、そろりと上目遣いに、作業に勤しむ男女の様子を覗った。
ゆるふわの髪を一つに括って取り組んでいる火サスさんは、真剣そのもの。指輪を見つめる眼差しには、金が溶けそうなほどの熱が込められていて、とてもじゃないが別の相手との逃避行を考えているようには思えない。
そして同じくその横で、夢中で指輪にヤスリを掛けている男性。火サスさんとお揃いの、茶色のエプロンを着けた彼氏さん。
伊織のような美人タイプではないが、人好きのする整った顔立ちの、三十代前半くらいのイケメンさんである。
知性も感じさせるのに、優しそう、温和そう。恋人としても結婚相手としても、申し分なさそうに見える。
でも、ちょっと意外。
千歳は、無意識にデザイン帳の横に肘を突いた。
火サスさん、前に呟いていたのに。
――あんまりイケメンだと、誰かに盗られちゃうって、心配になりそう。そんな人と結婚しても気が休まらないし、しんどいわ。
って。
火サスさんが〈カメリア〉に来るようになって、かれこれ七、八年。中学生のときから、千歳は彼女を知っている。
いまでこそ、オーガニック素材とナチュラルっぽいメイクの技で、愛らしくゆるふわに光っている彼女だが、元々はお客さんの中に埋もれてしまいそうな感じの娘さんだった。
素の火サスさんは、十人並みのお顔なのである。気張って見目の良い相手と結婚しても疲れるだけ、というのはきっと本音だ。
だから、というか、ぶっちゃけ火サスさんは、薄毛の兆候が見え始めている相手でも構わないのだろう、と思っていた。(若い娘が考えることは、時にあり得ないほど残酷で、非常に失礼なのである。)
それなのに、結婚相手に選んだのは、誰かに盗られそうなイケメンさん。
納得がいかないな、と思いながら、千歳はもう一度男性を見やり、目を瞬かせた。
あれ? この人、なんか見覚えがある……ような?
うちに、来店したことがある?
じろじろと眺めていると、男性がふうとため息をついて、ヤスリ掛けの手を止めた。
その拍子に、セーターから覗くワイシャツの袖が見えた。
あれっ、あのZのカフスボタン! うちの!
間違えようもない。千歳が接客して売ったものだ。
でも、購入したのは、もっさりさんだったはず。
色々と相談に乗ったから覚えている。「ネクタイを紐に替えたらお洒落になれるかな……」とループタイを見ていた男性に、ループタイは下手をするとオジサンぽくなるので、さり気なく「カフスなどいかがですか」とアドバイスしたのだ。
だが、男性は首をかしげて、
「カフス? ってなに?」
カフスボタンをご存じなかった!
聞けば、男性はまったくといっていいほど自分を飾ることに興味がなく、ファッションに疎いままその歳まで来たらしく。
それが最近、これではあかんと己を顧みることがあって。
しかし、普段は紳士服チェーンのスーツと白ワイシャツで済ませている人間が、いきなりお洒落をといったって、ネクタイを替えるくらいしか思いつかず……。
ふむふむ。
突然、見栄えを良くしたい衝動に駆られたと。
気になる人でもできたのかな?
勝手に想像した千歳は、でしたらやっぱりカフスボタンがお勧めです、と請け合った。
カフスって、正式名称はカフリンクスっていうんですけど、シャツの袖のボタン穴に通して使う、装飾兼用のボタンなんです。ちらっと袖口から覗くのが、小粋でいい感じなんですよ。遊び心を感じさせつつ、お洒落の上級者に見せられるというか。
そんな口上を述べつつ、ショーケースからカフスを出し、どんなタイプがお好みですかとたずねたように思う。
案の定、男性は眉根を寄せた。
どんな、って?
石付きがよいとか、スタイリッシュなものがお好みとか。動物や乗物、時計のムーブメントを模したユニークなものもありますが。
うーん、よく分からない。
じゃあ、チラ見せしたい相手を思い浮かべてください。どんなものなら、おやっと目を引かれそうですか。
そうだなあ、と男性が斜め上を見上げて考える。
……可愛い、やつかな……。
ふむふむ。キーワードは〈カワイイ〉ね。
しかし、いまのもっさりさんに可愛いカフスでは、小粋ですとはいいかねる。
千歳は無難な〈カワイイ〉をいくつかトレイに並べた。男性は「神戸っぽい」と笑いながら錨型のカフスと、「自分のイニシャルに見える」といって、蔓薔薇が巻き付いた〈Z〉っぽい形のアンティークカフスを選んだ。
そう! Zさん、Zさんだよ。
見事に、もっさりさんではなくなっている。
髪もきっちりカットされているし、靴もピカピカ。良さげな生地のスーツだって、きっとオーダーメイド。
お洒落に目覚めて、大変身だ。
なのに、カッコよくなったせいで、結婚式に捨てられる?
そんなの、駄目! 絶対に駄目!
なにより、お気に入りのボンボニエールにけちが付くなんて、許せない。
義憤に駆られた千歳は、火サスさんに抗議しようと心に決めて、ぱたりとデザイン帳を閉じた。
伍 火サスさんに突撃!
そして、翌週の火曜日。
急いで帰宅した千歳は、その足でお店に向かうと、火サスさんの姿を探した。
いた!
パリのパサージュを模した〈カメリア〉の店内は、通路を挟んだ両側に店舗が並んでいるような造りになっており、左右に四つずつ扉がある。特に、レジに近い扉――アンティーク&ジュエリーと季節商品、懸想文売り商い用の扉の奥は、小店舗としても使えるくらいの広さがある。火サスさんはそのうちの、現在千歳が「クリスマスマーケット」と呼んでいる場所で、リースを眺めていた。
千歳は他に客がいないことを確かめつつ中に入り、ガラスの格子扉をそっと閉める。それから、火サスさんに声をかけた。
「あら」
ふり向いた彼女は、上着を着たままの千歳を見て、ちょっと驚いたふう。でも、どうしたのとはたずねない。用件は解っているようだ。
ならば、話が早い。
「あのボンボニエール、返品してください!」
前置きなしで、千歳は火サスさんに詰め寄った。
「なんで、こんなことしようとしてるんですか? 悪趣味です!」
びしっと恋文の草稿を突きつければ、火サスさんが受け取りつつ、なぜか顔をしかめた。
「……そうね。悪趣味よね」
「らしくないと思います。自分の結婚なのに、どうして他力本願なの?」
「どうしてって……」
「ひょっとして、出会ったときはもっさりさんだったのに、思いがけなくイケメンになって、嫌になっちゃった? それならそれで、ちゃんとZさんに打ち明けるべきで――」
「Zさん?」
「あの」と千歳はセーターの袖口を指さした。「Zの形のカフスボタンは、私が彼氏さんに勧めたんです」
「そう、だったの……」
火サスさんがつと目を見開き、ふっと笑った。
「彼ね、うちの会社に物品を納めに来てくれる業者さんで。あの野暮ったい感じがいいなって眺めていたら、袖口にあのZのカフスボタンを見つけてね」
――それ、可愛いですね。
頭文字? と覗き込むと、思った以上にZさんは嬉しそうな顔をしたそうだ。
――これ、お洒落になりたいと思って雑貨店をうろうろしていたら、お店の人が勧めてくれたんですよ。
――男のお洒落はちらりと覗く袖口から、って? 今度は時計あたりを勧められそうね。
――成程、時計かぁ。
「それがきっかけで話すようになって。そのうちお付き合いを始めたの」
おっとびっくり。恋のキューピッドは千歳だったわけだ。
「でも……、そうなのよ」
火サスさんが、中途半端に持っていた草稿の紙に目を落とす。
「身なりをきちんとしたいっていう彼の要望に応えて、髪形やファッションのアドバイスをしているうちに、あれよあれよと男前になっちゃって……」
「でも、だからって結婚式当日にやらかすなんて、酷くないですか?」
「そうよ。酷いわよ」
手紙を見つめながら、火サスさんは詰るような口ぶり。自分を責めているのだろうか。後悔しているようには見えないけれど。
「だったら――」
「だったら」
火サスさんが言葉を遮り、千歳の鼻先に草稿の紙をぐっと突きだす。
「この手紙を彼に見せて、私が結婚当日にやらかそうとしてるって、チクったらいいわ」
「えっ」
「こんな紙切れ一枚で壊れるような仲なら、結婚しないほうがましなのよ」
「ええっ!」
千歳に草稿を押しつけると、火サスさんは帰ってしまった。
「伊織ぃ」
泣きの千歳である。
「いいじゃねえか。本人が見せろっていってんだから、見せてやったらよ」
「でも、それで結婚が取りやめになったりしたら」
「そのときは、そこまでの縁だったってこった。本人もそういってたんだろ?」
「そうはいってもさー」
「とにかく、この文は、俺から蓮華経由で彼氏に渡しといてやるよ」
大丈夫かなあ。
万一破談になったら、千歳はキューピッドどころかクラッシャーだ。
悶々と悩んで、学校でも上の空。授業中に当てられあたふたとして、英語の先生に叱られた。
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