見出し画像

お盆は寂しい

お盆になると寂しくなる。

我が県の夏休みは短い。私が子供の頃は7月29日頃から始まり、8月18日頃が新学期だった。するとどういうことが起きるか。
お盆のちょっと前から親戚が集まってくる。従兄弟たちもいる。毎日遊びまわり、夜は宴会となる。お盆が終わって親戚が帰る。家は静けさを取り戻す。そして私は思い出す。「宿題やってない!」

宴会のために出されていた大きなテーブルに宿題帳を広げる。日記を書く。夏休み中の天気を書く(「快晴」と書くだけでOK)。工作をやる。自由研究をやる。 

これを私(と妹)は毎年やっていた。前もってやっておけばいいのだけど、全部終わらせておくことはできない。従兄弟たちはお盆が終わってもまだ夏休みは続くから呑気なものだ。事情を理解してくれる親戚が宿題を手伝ってくれたこともあった。大変だった。

このエピソードだと、「お盆が寂しいのではなく、お盆明けが寂しいのでは?」と言われそうだ。お盆中からお盆明けをうっすら予想しているから、お盆中から寂しいのである。ただ、もう一つの寂しい原因がある。それは私が同世代の中で一番年長だったということだ。妹と従兄弟たちで騒いでいて、私はちょっと浮いていた。一緒に遊ぼうとしても年齢的にうまくいかず、ぽつんとしている私を心配してくれる親戚もいたが、小学校の頃は寂しかった。

さて、小学校の頃、一度だけ寂しくないお盆があった。従兄弟たち以外に、もう1人の少年が我が家に滞在した年だ。
細かい事情はわからないが、彼は家庭の事情でふだんは施設で生活していた。いつもの年ならばお盆だけは家族のもとに戻るのだが、この年はいろいろな事情でどうしても戻ることができず、見かねた母が預かることにしたらしい。お盆中はどうせ親戚でいっぱいだから1人くらい増えてもよかったのかもしれない。でも、よく祖父母や父が承知したものだ。
当時の私はよく事情が分からなかった(今も分からない)。私よりも1つ年下のその少年は礼儀正しく、明るく、話題も豊富だった。両親はそれを「苦労しているから、無邪気になれない」と解釈しており、お盆中だけでも、子供らしく過ごせるようにとさりげなく気を遣っていた。しかし、私にはそれもよく分からないことであり、ただただ、年下なのに私よりもしっかりしている少年と遊ぶのが楽しくてしかたがなかった。従兄弟たちの遊びの輪に入れなくても気にならなかった。一緒に毎朝畑に通い、きゅうりを収穫し、観察をした。その年の私は自由研究のテーマを「きゅうりの成長」にしていたのだ。今日は何cmだった、あのきゅうりも食べごろになる、そうやって話す相手がいることが新鮮だった。
少年が帰ってしまったときは寂しくて仕方がなかった。

また来ることもあるのではと思っていたが、少年はそれきり我が家に来なかった。母の話だと一家で引っ越してしまったらしい。その後どうしたかは分からない。

時折あの夏を思い出す。お盆は寂しい。


いいなと思ったら応援しよう!

たか
よろしければサポートお願いします。いただいたサポートはふるさとを盛り上げるための活動費に使わせていただきます。