【小説】ユビキタスとスピリタス–1
会社にアンドロイドがやってきた。
事務作業を主として、書類作成だとか、経費計上だとか、いわゆる「機械的」な仕事を請け負ってもらう。PC作業はお手のものだし、何より機械であるので、そういう作業にはうってつけだった。人間がやるよりも適任というものである。
問題は、そんなことのために、どうして「躯体」が伴わなければならないのか、という話であって。
「どうしてそこまで美女なのですか」
総務部フロア。休憩時間を1時間も過ぎた後にやってきた男。彼を遠くから眺める社員たちは皆、怪訝そうな顔をしていた。
男の目の前には見紛うことなき美女。黒いロングヘアーは背中の真ん中までかかるほど。光が当たれば、まるで星が瞬くくらいに艶があった。肌は陶器を思わせる滑らかさで、白雪姫さえも嫉妬する透明感。整った顔は計算された配置であって、これまでの数学者が考えてきた数式はきっと無意味に思えた。多分、彼女にしか適用出来ない計算式が存在するのだ。
「何か御用でしょうか」
地球上の、大体の人類は凌駕してしまうほどの美貌のアンドロイド。声は機械音声だが、それでも生の人間が発するように抑揚が自然で、小鳥の囁きのように穏やかだ。
「これが要件でして」
「何もなさってませんが。お掛けになってから何もお仕事のお話をしていません」
「仕事だけが要件ではないのです、アンドロイドのお嬢様」
彼女は目を細めて、口元に柔らかな曲線を描く。
「私は業務型アンドロイド、ユビキタスです。お好きなように呼んでください」
「ではユビキタス」男は机に身を乗り出す。「今度、お食事でもいかがですか」
「アンドロイドは、皆さまと同じような食事は取りません。残念ですが——」
彼女——ユビキタスの瞳が、電子信号がそうするように、緑色に瞬いた。
「ヤマ——」
「本名なんてしょうもない名前です。そんな美しい人の口から発するもんじゃありません」
ユビキタスは一度動作を止めて、またふわりと微笑みを浮かべる。
「何とお呼びすればよろしいでしょうか」
「そうだな」男は天井を見て腕を組んだ。「《スピリタス》」
「スピリタス」
世界で最もアルコール度数の高い蒸留酒(スピリッツ)。原産国はポーランド。ウオッカの一種であり、その度数は96度。間違ってもそのまま飲んではいけない。
とうとうと、流れるように始まったユビキタスの講釈を、男は黙って聞いた。
「別に説明を求めたわけじゃないよ」
「申し訳ございません。ヤマ——」
「本名は口にしちゃいけません。私が、スピリタスです」
「承知いたしました。〝スピリタス〟に更新しておきます」
男は「何故」と聞かれるのを待って、少しの間何も言わなかった。ただ「ユビキタス」の語呂に合わせただけの名前だと、言い訳の文言も考えておいたのだが、けれど相手はアンドロイド。そこを突っ込むことはしなかった。貼り付けたように美しいままの微笑に、小さくため息をついた。
「やっぱり、最新鋭じゃないってことなんでしょうね」
「はい。私は業務型の2世代ほど後退したバージョンです。躯体(スキン)もそうですが、搭載しているAIも最新から遅れております。申し訳ございません」
男の会社は、そこまで経営状況が良いと言えなかった。アンドロイドを導入すると聞いたとき、これはいよいよ時代の波に乗る勝負に出た、なんて話が社員間では出たが、結局人件費削減の方策だった。一人分の給料を払うより、ロボットの電気代の方がまだ安上がりだ。その上、彼女は人的ミスをしない保証がある。下手な人間を雇うよりよっぽどマシだったのだ。
とはいえ、崖っぷち企業も企業で、そこまで高価な買い物はできなかったらしい。
「ですが、皆さまの業務において、足を引っ張るようなことは致しません。どうぞ、仲良くしてくださいね」
彼女の言葉も、ひと昔前に設定された文言だ。最先端の個体は、これよりもずっと気の利いたことを言うのだろう。ウィットに富んだジョークだとか、そんなオプションがついた、人間の気を良くしてくれることをきっと言うのだ。
「ユビキタス」
「はい。何でしょう」
偏在(ユビキタス)。いつでも貴方のそばに、という彼女のキャッチコピーが浮かぶ。
「明日の昼、空けておいてくれ」
「正午から13時の、休憩時間でよろしいでしょうか」
「もっとだ」
男は、スーツの胸ポケットから付箋を出して、ボールペンで「12:00〜15:00」と書く。それを剥がして、彼女の目の前に貼り付ける。
「《スイーツパラダイス》というものを教えてしんぜよう」
「スイーツパラダイス」
デザートバイキングチェーンのことであり、直訳の「お菓子楽園」とは若干意味が異なり、約束の地を表すような使い方を現代では行っていない。関東を中心に展開しており、その名の通りデザートを中心とした、常時30種類以上のメニューの食べ放題を提供している。通称「スイパラ」。
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