最期の授業
田辺修一は小さな町の中学校で長年教鞭を執り、「生徒一人ひとりを尊重する教師」として知られていた。しかし、彼が定年退職して数年が経つと、世間の目は冷たかった。孤独な老後を送り、妻にも先立たれ、やがて足腰を悪くして介護施設に入所することになった。
施設は清潔だったが、そこに流れる空気は冷え切っていた。職員たちは必要最低限の世話をこなし、入居者たちは無言でテレビを見ているか、部屋でひっそりと眠るだけの毎日。尊厳などという言葉はどこにも見当たらなかった。
ある日、施設の廊下で田辺は一人の若い介護士と口論になった。
「そんなに何度もベルを押さないでください。他の利用者にも迷惑ですよ!」
「すまないが、私は歩けないんだ。この足ではどうしても助けを呼ばざるを得ない」
「なら、もっと考えてください。他の人だって大変なんです」
田辺は何も言い返せなかった。ただ、心の中で「私はこんなふうに扱われるために生きてきたのか」と思い、深い無力感に襲われた。
そんなある日、施設に中学生たちが「ボランティア活動」と称して訪れた。彼らは施設の掃除を手伝い、高齢者たちと会話を交わしていく。田辺は彼らの姿を見て、自分がかつて教壇で語った言葉を思い出した。
「人には皆、生きる意味がある。その意味を他人が奪うことは決して許されない」
しかし今、彼自身がその言葉を信じられずにいた。
その中の一人、目立たない少年が田辺に近づいてきた。
「こんにちは、何かお話を聞かせてもらえませんか?」
田辺は一瞬戸惑ったが、少年の真剣な眼差しに促されるように言葉を紡ぎ始めた。
「私は教師だった。生徒たちに『他人を尊重しなさい』と教えてきた。でも今、この施設での生活はその教えとは違う。ここでは誰も、私を人として見てくれない」
少年は黙って田辺の話を聞いていたが、ふいにこう言った。
「僕も学校であんまり目立たなくて、友達にからかわれることが多いんです。先生が言ったみたいに、僕もちゃんと尊重されてるのかな、って思うことがあります」
その言葉に、田辺はハッとした。彼は教師だったころ、弱い立場の生徒を守り、彼らに寄り添うことで心を支えてきた。その姿勢を貫くべきだったのに、施設に入ってからは無力感に押しつぶされ、自分自身を責めてばかりだった。
「君の言うとおりだ。尊重されることを他人に求める前に、まず自分を大切にすることを忘れてはいけない」
田辺はそう言い、再び小さな声でつぶやいた。「私の授業はまだ終わっていないな」
その日から、田辺は施設の掲示板に短いメッセージを書き始めた。
「人は老いても、価値を失うわけではない」
「尊厳は与えられるものではなく、自ら作り出すものだ」
最初は誰も見向きもしなかったが、次第に他の入居者や職員たちが興味を示し始めた。
ある日、例の少年が再び訪れ、田辺に言った。
「先生、僕、学校でちょっと頑張ってみようと思います。自分を大切にするってどういうことか、少しわかった気がするんです」
その言葉を聞いた田辺の目には涙が浮かんでいた。
「それでいい。それこそが、私が君たちに伝えたかったことだ」
田辺が亡くなったとき、施設の掲示板には彼が最後に書いたメッセージが貼られていた。
「尊厳とは、生涯を通じて自分の価値を信じ続けること。そしてその価値を、他人の心に残すことだ」
その言葉は、少年の心に深く刻まれ、生涯忘れることはなかった。