ゴキブリ食べました

夜中に目が覚めた。寝汗でシャツが肌に張り付き、喉が渇いている。時計を見ると午前二時を少し過ぎたところだ。トイレに行ってから水を飲もう。そう思ってベッドからゆっくりと体を起こす。足元に注意を払いながら、薄暗い廊下を歩き出した。


廊下の電気をつけずに進んでいると、視界の端に何かが動いたような気がした。嫌な予感がして立ち止まる。闇に目を凝らすと、そこには――黒い影が床を這っていた。


「ゴキブリ……?」


言葉を口にするより先に、その存在を本能的に理解した。嫌悪感が背筋を駆け上がり、思わず一歩後ずさる。ゴキブリは小さな触角を動かしながらこちらを見ているようだった。そして次の瞬間――信じられないことが起こった。


ゴキブリが飛んだのだ。直線的に、こちらに向かって。


「うわっ!」


反射的に声を上げ、手で顔を覆う。しかし遅かった。鋭い感触と共に、何かが口の中に入ったのが分かった。瞬間、ゴキブリだということを理解した時の絶望感。喉の奥でパニックが起こり、息を止めたまま、どうしていいか分からない。


「う……、うぇっ!」


吐き出そうとするが、喉の奥に引っかかり、動かない。飲み込むわけにもいかず、冷や汗が体中に噴き出す。頭が真っ白になり、呼吸すらできない。手で喉を掴み、必死にかき出そうとするが、うまくいかない。舌の奥で何かがもがく感覚に、吐き気が込み上げる。


心臓が早鐘を打つように鳴り、頭の中で叫び声が響く。どうにかしてこの異物を口から追い出さなければ――だが、ゴキブリは喉の奥で必死に動き回り、さらに奥へと潜り込んでいくようだ。


「う……うぅっ……!」


目の前が暗くなり、呼吸がどんどん浅くなる。冷たい汗が首筋を伝う。そのまま意識が遠のき、床に崩れ落ちた。


それが現実か、悪夢かも分からないまま、彼は目を閉じた。


僕が意識を取り戻したのは、それからしばらく経ってからだった。薄暗い廊下の床に仰向けになり、激しく咳き込む。口の中がカラカラに乾き、喉はまるで焼け付くような感覚だ。


「……くそっ……」


かすれた声が漏れる。頭がぼんやりとして、何が起こったのかすぐに理解できなかったが、次第に記憶が蘇る。口の中に飛び込んできたゴキブリ――そして、その圧倒的な嫌悪感と恐怖。


「……出さないと……」


僕はふらふらと立ち上がり、洗面所へと向かった。電気をつけ、鏡に映る自分の顔を見る。青ざめた顔に、冷や汗が滲んでいる。震える手で蛇口を捻り、勢いよく水を口に含むと、再び激しい咳を繰り返した。水と一緒に吐き出すように、喉の奥にこびりついた異物感を追い出そうとする。


「うぇっ……!」


何度も何度も水を含んでは吐き出す。しかし、ゴキブリが本当に出てきたのか、それともまだ喉の奥にいるのか、確証が持てない。彼の頭の中は、あの瞬間の感覚に囚われていた。あの硬い甲殻の感触、触角が喉をかき回すような生々しい感覚――それが忘れられない。


「……落ち着け……大丈夫……もういない、はず……」


自分に言い聞かせるように、僕は鏡を見つめた。しかし、喉の奥にはまだあの感覚が残っている。まるでゴキブリが喉の中に居座っているかのような、嫌な違和感。


「くそ……」


僕は思い切って指を喉の奥に突っ込んだ。嘔吐反射が襲い、涙がにじむ。だが、どうしても何かが引っかかる。異物感が消えない。それは僕の神経を逆なでするかのように、そこに居続けている。


「……いやだ……出てくれ……」


半ば泣きそうになりながら、僕は何度も何度も水を吐き出す。洗面台には、僕が吐き出した水と、泡立った唾液が飛び散っている。それでもまだ、あの嫌な感触は消えない。


やがて僕は力尽きたように蛇口の前に突っ伏した。心臓の鼓動が早く、体中がガクガクと震えている。


「……救急車……呼ぶべきか……」


そう思ったとき、ふと喉にわずかな変化を感じた。喉の奥で、何かが動いたような――それは、まるで彼の身体の中で生きているかのような感覚だった。


「……うそだろ……」


息を詰める。胸の奥で、何かが這い回るような感覚。やがてそれは、ゆっくりと、喉から上へと移動してくる。


「う……うぇっ!」


僕は慌てて洗面台に身を乗り出し、激しく咳をした。喉の奥から何かが迫ってくる――そして次の瞬間、僕は口の中に飛び込んできたものを吐き出した。


洗面台に何かが転がる。


「……!」


そこにあるのは――先ほどのゴキブリだった。だが、それはすでに息絶えているようで、かすかに動く気配もない。床に倒れ込んだ彼は、洗面台に転がるその小さな死骸を見つめ、恐怖と安堵の入り混じった表情を浮かべた。


「……出て……きた……」


そう呟いた僕は、全身の力が抜けていくのを感じた。放心状態で洗面所の床に寝転がり、しばらく動けないでいた。


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