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ナウシカが朝鮮人、ラピュタが朝鮮半島だということがなぜ禁忌なのか?

まえがき

記事にオリジナルの見解を沢山盛り込んでます。盗用しないください。
まだ加筆・修正中の箇所が複数あります(後半あたり)。
放置気味になってますがそのうち完成させます。
かなり酔った時に書いているので、誤字脱字やおかしな日本語が沢山放置されています。これもそのうち直します。

以下、本文です。


ジブリ作品の中の日本神話

映画「風の谷のナウシカ」の舞台はウクライナで、時代設定はロシアが南下政策をしていた頃だと思いますが、ナウシカは朝鮮人です。ニギハヤヒ(饒速日命)であることは私の目からは疑いようがありません。
以前、ネットで配信をしていた頃に、こういう話をすると狂ったように反論してくる人が沢山いました。
なぜ朝鮮人だとだめなのでしょうか。なぜそんなに朝鮮人を嫌うのでしょう?

さて、語ってゆきます。

老翁、曰『東有美地、靑山四周、其中亦有乘天磐船而飛降者。』余謂、彼地必當足以恢弘大業・光宅天下、蓋六合之中心乎。厥飛降者、謂是饒速日歟。何不就而都之乎。

大ババ様曰く「そのもの青き衣をまといて金色の野に降り立つべし。 失われし大地との絆を結びついに人々を青き清浄の地へ導かん。」

ということで、ニギハヤヒも天孫族で天羽々矢や十種の神宝を携えて空から下りてきました。上の漢文は日本書紀にあるニギハヤヒが降臨するくだりで、下のセリフは映画「風の谷のナウシカ」の中で語られる天孫降臨伝承。じっと眺めていると、なんとなく似てる!これだ!と思えてきます。※見比べてほしいので、正しい翻訳は敢えて引用してません。ネットで検索すると沢山出てきますが、怪しい翻訳が多い気がします。漢文の知識が無くても大丈夫です。眺めていると分かってきます。

実は日本に天孫降臨神話は二系統あります。
これは仕方ありません。渡来人には日向系と出雲系の二系統がありますから。朝鮮半島から北九州ルートで日本にやってきたのが日向族、出雲ルート(鳥取・島根あたり)で日本にやってきたのが出雲族です。この日向系と出雲系はどちらも朝鮮人で、高天原(神様の住む天上界)というのは朝鮮半島を意味しています。つまり天孫降臨神話というのは、朝鮮半島からそれぞれ別のルートで日本に渡って来た朝鮮の人々の物語なのです。この二つの天孫降臨神話のうち、一般的によく知られているのは日向族の天孫降臨神話の方で、こちらはニニギが空から下りてきました。実はもう一つ別の天孫降臨神話があり、それがニギハヤヒの天孫降臨神話なのです。

あまり知られていませんが、先に大和に降臨しこの地を統治していたのはニギハヤヒら出雲族でした。そこに後から日向族がやってきのです。これを日本神話では神武東征と言っています。この神武東征は、映画の中ではオームの大群として描かれています。怒りに我を忘れて風の谷をめざす目を真っ赤に変えたオームの大群です。

※当時、朝鮮半島を韓(から)と言っていたので、朝鮮人ではなく韓人でもいいですし、渡来人でも帰化人でもいいのですが、後で日鮮同祖論を語るので言葉としては基本的に朝鮮人で統一します。ただ、特に気にせずに渡来人という言葉を使ってる箇所もあります。話の前提として、渡来人=朝鮮人=韓人=帰化人ということを知っておいてください。全く知らなかった方は驚かれたかもしれませんが、読み進めていただければ理解していただけると思います。

この神武東征によって二大勢力は大和の地でぶつかりますが、お互い天羽々矢と歩靫という天孫族の証(朝鮮人だという証)を見せ、敵(縄文人)ではないと気が付きます。ナガスネヒコはそれでも攻撃を止めなかったのですが、最終的に折り合うことになります。(複数の説があります。途中でニギハヤヒが死んでしまう説。東に落ち延びる説など。)
この天羽々矢と歩靫を見せるくだりは、映画の中では腐海の深部のシーンとして描かれています。ナウシカとアスベルが流砂に飲み込まれて落ちる地下空洞でのシーンです。そこでナウシカは、虫は汚染を浄化する腐海を守るために存在していると気が付きます。虫は人間の敵ではなかったのです。

ナガスネヒコはペジテとして描かれています。虫は人間の敵ではないと気が付いたのに、オームの子を囮に使って戦いを継続しました。そして、映画でも最終的には人間と虫たちは折り合うことになります。クライマックスのシーンからエンドロールにかけてのあたりですね。最後、オームの攻撃色が消えた様子が「靑山四周」です。映画では、最後に神として降臨するような形になっています。

ちなみに、スサノオとニギハヤヒは風(嵐、雷)の神でもあるのですが、この事実は隠蔽されています(隠蔽されたことで別名が沢山付けられました)。日本ではニニギの天孫降臨の方が正式な歴史(国史)になっていますので、ニギハヤヒの天孫降臨神話が語られることは少ないです。でも、実際には、彼ら(出雲族)が渡来して日本を統治した最初の王です。映画では、ナウシカの父親で風の谷の統治者でもあるジルがスサノオです。

ジルはトルメキアの突然の襲撃に際して剣を抜きますが、あれは天羽々斬でしょうね。別名、蛇の韓鋤。朝鮮人の証でもあります。出雲地方に渡来したスサノオが、この剣で縄文人のオロチ(族)を倒したのです。神話には、高天原から追放されたスサノオが出雲に下りてきて天羽々斬を用いてヤマタノオロチを退治したとあります。有名なヤマタノオロチ伝説です。実はこの話、渡来してきた朝鮮人が縄文人を倒す話なのです。そのような関係から、トルメキアの国旗には蛇が描かれています。
それから、スサノオが倒したオロチの体内から出てきた草薙の剣は、いわば縄文人の象徴なわけですが、これが現在、国家神道の三種の神器の一つになっています。朝鮮人である日向系の天皇家が、縄文人の象徴である剣を神器にしていることになります。この辺りの説明はまた後でします。

日本神話の知識がない方は、私の記事を読んで少し難しく感じるかもしれませんが、ジブリファンなら神話にも興味をもって色々調べてほしいです。宮崎駿は、配給当初、すぐにこのような話が話題になって、映画を見た方に神話にも興味をもってもらえると思っていたのではないでしょうか。私はそんな気がします。でも、神話との関係が全く話題にならかったので、次の天空の城ラピュタでは、より神話との関係が具体的に描かれています。(先に言っておきますと、天空の城ラピュタの内容と神話との関係についても、世間で取り上げられることはありませんでした。その裏にとても深い闇があったからです。それについてはまた後で語ります。)

※日本の神話をジブリ作品にからめたこの推論は私オリジナルのものです。どこかからパクってきたものではありません。
※天孫降臨神話が朝鮮半島からの渡来の話だと知らなかった方がいるかもしれませんが、そこから話をすると長くなるので省きます。記紀や出雲国風土記などを調べてみて下さい。
※ウィキペディアのリンクを貼ったのは書き変え合戦が恒常的に行われている面白い項目だからです。特に、ニギハヤヒの項目は歴史修正の最前線にある項目なのです(この国の国体が偽りだということを示す最重要人物だからです)。

ナウシカだけ見ても、よほど日本神話の知識がある人でなければニギハヤヒだと気が付くのは難しいかも知れません。でも、ラピュタやもののけ姫など、風の谷のナウシカ以降の作品を見ることで、渡来人がやってきた頃の話をテーマにしていることに気が付きます。後の作品になるほど具体的に描かれているからです。初期に書かれたシュナの旅もヒントになります。
※ちなみに、宮崎駿は私が書いてるようなことを言っていません。

ラピュタだと、シータ(ルシータ・トゥエル・ウル・ラピュタ)が出雲族、ムスカ(ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ)が日向族です。映画の中でシータが本家(トゥエル)で、ムスカが分家(パロ)だと説明があります。
シータが持つペンダント(飛行石)は出雲族の勾玉です。
実は、勾玉は朝鮮半島から伝わったもので、加工技術は出雲族がもたらしたものです。(島根が産地・加工地。島根の玉造温泉は有名ですね。)。しかし、これも隠蔽されています。日本は、糸魚川の石が朝鮮半島からも見つかっていることで、勾玉は日本古来のものだと言い張っていますが、あれは嘘で、最初は朝鮮半島から伝わってきたものです。勾玉も草薙の剣も青銅鏡も三種の神器(八尺瓊勾玉、草薙の剣、八咫鏡)にしてしまったので、日本古来のものだと主張しているわけです。でも、もともと宝飾品の加工技術は出雲族のものです。日本刀も勾玉も、製造・加工技術は出雲族が日本に伝えたのです。
※この辺りは大筋の話をしています。細かな話になると様々な説があります。

映画は、高天原(朝鮮半島)であるラピュタから天孫降臨した二系統の民族(出雲族と日向族)の末裔が、争いながら勾玉を頼りに再び高天原に帰還するという面白い内容になっています。勾玉をしっかり出雲族のシータに持たせていることで、宮崎駿が日本の隠蔽された歴史に興味を持っていたことが理解できます。日向系の天皇家が、本来、神器にしているのはおかしいのです。なぜそんなことになっているのでしょうか?この辺りも後で説明します。ちなみに、映画の中で「ラピュタの雷(いかづち)」として登場する「インドラの矢」のインドラというのは、インドに起源をもつ雷神で、スサノオと同一視されている神様です。それと、実はこのインドラが古代朝鮮王朝の建国神でもあります。

皆さんは天空の城ラピュタを見て「バルス祭り」なんてやっていますが、こういう事実をご存じでしたか?宮崎駿は、ラピュタの中に、ナウシカよりさらに具体的に神話の話を盛り込みましたので、さすがにここまでやれば少しは神話との関係が話題になるだろうと思ったのではないかと思います。でも、そのことについて全く話題にならなかった。宮崎駿には映画を見た人がそのことにまるで気が付いてないように見えたのではないでしょうか。それで、ついに業を煮やしてもののけ姫の制作に取り掛かかったのではないかと思います。(すべて私の妄想ですが、おそらく間違いないです。)

もののけ姫に出てきたダイダラボッチというのは縄文系の神様ですが、出雲族(朝鮮人)であるエボシの放った鉄の玉によって殺されます。もののけ姫ではもう節々にアシタカがアイヌ人、サンが縄文人、エボシが出雲系の渡来人(朝鮮人)だとわかる描写が盛り込まれています。特に象徴的なのは、たたら製鉄のシーンです。しつこいくらいに描かれています。実は、製鉄技術を日本にもたらしたのは出雲系の朝鮮人なのです。

ナウシカ、ラピュタときて、もののけ姫では思いっきり出雲系(朝鮮人)が縄文人の神様を殺すシーンが描かれています。その描写でハッキリと神話の話だと分かります。もののけ姫を見て、ナウシカ、ラピュタも神話の話だと気が付いた方もいると思います。また後で説明しますが、別の作家が同様のテーマで作品を書いています。宮崎駿の伝えたかった事が、ようやくもののけ姫によって世に伝わりはじめたのです。

出雲族は、製鉄技術の他に、建築技術、醸造技術、皮革技術など、多くの技術を日本にもたらしました。日本刀も日本酒も朝鮮人がもたらしたものなのです(秦氏)。ヒッタイトから続くアイアンロード(鉄が伝来した道)のユーラシアの東の終点は日本ですが(ヒッタイトではないとする説もある)、朝鮮半島から日本に鉄をもたらしたのは出雲系の渡来人です。そして、中国地方から近畿あたりを支配した(もっと広い地域だという説もある)。この辺りの話も禁忌のようです。

みなさんに知ってほしいのは、日本では、製鉄技術を含め、このような技術が朝鮮人によってもたらされたということが、いまだに禁忌になっているということです。ナウシカ、ラピュタ、もののけ姫では、実はしつこいくらいに禁忌の話がとりあげられているのです。宮崎駿が意図して隠蔽された日本の歴史にスポットライトを当てたことは明らかです。

ネットで配信をしていた時に、アシタカがアイヌ人、サンが縄文人、エボシが朝鮮人だという話をするだけで怒り狂って反論してくる人がいて、そういう人々は、私が上に書いてきたような説を全く認めようとしませんでした。「朝鮮人」という言葉に物凄い拒否反応を起こすのです。

結局、世間では、もののけ姫についても、日本神話や古代史と関連づけて語られることはほとんどありませんでした。映画の中で登場人物の関係性があれだけハッキリと描かれ、最後に「共に生きよう」という具体的なメッセージが込められたにもかかわらず。宮崎駿もショックだったろうと思います。

なぜだと思いますか?
なぜ、宮崎駿のメッセージは無視されたのでしょう?実は、メッセージがメディアから完全に無視された背景には、日本の歴史の裏に潜む大変な禁忌(タブー’)があり、報道できない理由があるからなのです。その禁忌の正体について、次の項目から徐々に説明します。

余談ですが、映画「千と千尋の神隠し」のハクの本名はニギハヤミコハクヌシで、ニギハヤヒがモデルだとわかります。(日または火(ヒ)と水(ミ)のところを変えている。)この作品は、ストレートに、ニギハヤヒという重要な神様が記憶から隠されているということを言っているのではないでしょうか。そのため、内容としては敢えてエンタメ性を強調したのかもしれません。私は、そのような意味で、この作品は宮崎駿三部作(ナウシカ、ラピュタ、もののけ姫のこと。私が勝手にそう言ってるだけです。)の外側にある作品ではないかと考えていますのでこれ以上はふれません。

ここまで読んでこられた方なら、「失われし大地」がどこの半島を意味し、「青き清浄の地」がどこの湖を意味しているのか、理解できたのではないかと思います。いや、ここはナウシカファンなら必ず押さえておきましょう。


出雲族の神、韓神

一般にはまったく知られていませんが、出雲族には神様がいます。韓神(からかみ)といいます。話がややこしいですが、ようするに、スサノオやニギハヤヒら出雲族にとっての神様ということです。この韓神は、日本に古くから伝わる大変に重要な神様で、新羅の初代王だった赫居世(かくきょせい)がモデルだと言われています。実は、出雲族は新羅系なのです。一方、日向族は百済系です(伽羅系という説もある)。それで、どういうわけか、この韓神のことを今はアマテラスと呼んでいます。韓神は「朝鮮の神」という意味ですので、この韓神にアマテラスをあてること自体は矛盾しないのかもしれませんが、アマテラスを祖とする今の天皇家は日向族ですので、日向族がなぜか出雲族の神を祖神としていることになります(下で補足します)。なぜでしょうね。よくわかりません。「国譲り」というのは「神譲り」だったのかもしれませんね。それで、国を譲った側の出雲王朝は完全に日本の歴史から消されてしまいました。

毎年、新嘗祭に関連する鎮魂祭で、天皇は韓招(からおぎ)して韓神を宮中に勧請(かんじょう)します(実際に舞うのは人長(にんじょう)と呼ばれる楽人長)。韓招というのは、具体的には、神楽歌を歌い韓神を招き入れることです。神楽歌には韓招するための「韓神」という重要な歌があります。この歌を歌って韓神を宮中に招きます。韓神は天皇家にとっては今でも大変重要な神様なのです。もう一つ重要な歌が「其駒」。神様の乗り物の意です。御神楽の最後に歌う神上げの歌で、この歌を歌って韓神を神上します(高天原に送り出します)。人長はこの「韓神」と「其駒」の歌の時だけ舞います。この二つの歌が最も重要なのです。

実は、この韓神という神様が日本の神道における本来の神様です。本来の神道と現在の国家神道との関係、それから、古神道との関係についてはまた下で説明します。神道、国家神道、古神道はそれぞれ別物で、国家神道と古神道は明治期に作られた新しい宗教です。(人類学では、神道の古代形態について言及する際、古神道とは言わず原始神道という言葉を用います。)

(韓神の解釈については諸説あるようなのですが、神道の本来の神様について、神道の起源を今の満州あたりと考え、高御産巣日神(タカミムスヒ)という神様が本来の神道の神様だと主張する学者もいるようです。この場合、スサノオとニギハヤヒは高句麗系で、スサノオとタカミムスヒを同一視する見解もあります。ちなみに、タカミムスヒ信仰は満州族に古くから伝わる高木信仰に由来している可能性があるそうで(ツングース系のシャーマニズム)、この信仰は、古代朝鮮王朝の建国神話との関係性も指摘されているようです(雷神インドラによる建国説)。この論を主張する学者の多くは、大和王権が天皇制を整備する際に、元々神道の神だったタカミムスヒからアマテラスへ神のすげ替えが起きたのではないかと考えているようです。)

※お断り
断片的な知識を繋げて書いてたら、記事がかなり長くなってしまいました。繋げるに際して、忘れていたこと、間違えて理解していたことが多々あることに気が付きました。雑学の範囲で学んだことを貼り合わせているだけですが、自分が今後もこの記事を参照したいので、リンクや注釈、引用を沢山いれてゆきます。読みにくいかもしれませんがご容赦下さい。それと、朝鮮人が滅茶苦茶嫌いな人はここから先を読まないでください。でも、朝鮮人が嫌いな人にも読んで理解してほしい。でもやっぱり読まないでください。

神楽(歌舞)

神前に奏される歌舞。神座を設けて神々を勧請(かんじょう)して招魂・鎮魂の神事を行ったのが神楽の古い形で、古くは神遊(かみあそび)とも称した。神楽の語源は、神座(かむくら)の約音とするのが定説である。神楽の起源説話として有名なのは、天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あめのいわと)に隠れたとき、天岩戸の前で天鈿女命(あめのうずめのみこと)が神がかりして舞ったとする伝承(『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』)であるが、これは天鈿女命の子孫の猿女(さるめ)が行った鎮魂術の本縁で、猿女は宮中の鎮魂祭の呪術(じゅじゅつ)をつかさどった氏族である。鎮魂祭は毎年新嘗(にいなめ)祭の前日(11月寅(とら)の日)に行われた。
 神楽は宮中の御神楽(みかぐら)すなわち内侍所御神楽(ないしどころのみかぐら)と、民間に行われる里神楽に大別される。

御神楽(より一部抜粋)

今日でも御神楽は簡略化されてはいるが、毎年12月中旬、宮中の賢所の庭上に庭燎(にわび)を焚(た)いて行われている。内侍所に天皇が出御されると、人長(にんじょう)(楽人長)の統率のもとに神楽が始まる。庭燎を正面として、向かって左方に本方(もとかた)、右方に末方(すえかた)の楽人たちが座につく。笏拍子(しゃくびょうし)、笛、篳篥(ひちりき)、和琴(わごん)の伴奏にあわせて神楽歌を歌う。まず試楽にあたる人長式(庭燎・阿知女作法(あちめのわざ))があり、次に採物(とりもの)、大前張(おおさいばり)、小前張、雑歌(ぞうか)の4部からなる次第が奏される。採物は、舞うときに手に採る物の意で、本来は神座である。榊(さかき)、幣(みてぐら)、杖(つえ)、篠(ささ)、弓、剣(つるぎ)、鉾(ほこ)、杓(ひさご)、葛(かずら)の9種があり、これら採物にちなむ歌や神徳を賛美する歌が歌われる。今日では榊の歌を選んで歌う。次に「韓神(からかみ)」の歌があり、このとき人長が輪をつけた榊の枝を持って庭燎の前に進み出て、庭燎にこれをかざすようにして舞う。次に中入りになり、酒宴となる。平安時代には倭舞(やまとまい)が舞われたり、才(ざい)の男(おのこ)による滑稽(こっけい)な芸(陪従(べいじゅう)による即興的な散楽(さんがく))などが行われた。中入りのあと、大前張の部(宮人(みやびと)・難波潟(なにわがた)など)、小前張の部(薦枕(こもまくら)・閑野(しずや)など)、雑歌(ぞうか)の部(千歳(せんざい)・早歌(そうか)・朝倉(あさくら)・其駒(そのこま)など)の順に、御神楽成立当時の民謡から出た神楽歌が歌われる。「其駒」のときにも人長が出て、「韓神」と同様に榊の枝をとって舞う。神楽が終わると、人長は採物として舞った榊の枝と輪を天皇に献上する。

日本大百科全書(ニッポニカ)

御神楽(内侍所御神楽)

…現行御神楽の原形である〈内侍所(ないしどころ)の御神楽〉は,《江家次第》《公事根源》等によれば,一条天皇の時代(986‐1011)に始まり,最初は隔年,白河天皇の承保年間(1074‐77)からは毎年行われるようになったという。これより古くから宮中で行われていた鎮魂祭大嘗祭(だいじようさい)の清暑堂神宴,賀茂臨時祭の還立(かえりだち)の御神楽,平安遷都以前から皇居の地にあった神を祭る園韓神祭(そのからかみさい)等の先行儀礼が融合・整理されて,採物(とりもの),韓神,前張(さいばり),朝倉,其駒(そのこま)という〈内侍所の御神楽〉の基本形式が定まり,以来人長(にんぢよう)作法,神楽歌の曲目の増減等,時代による変遷はあったものの,皇室祭儀の最も重要なものとして,よく古式を伝えて今日にいたっている。 御神楽は夕刻から深夜にかけて,神前の庭に幕を張って楽人の座を設け,庭火を焚いて座を清め,これを明りとして行われる。…

世界大百科事典より(其駒の項目にある)

韓神「〈本〉三島木綿(ゆふ) 肩に取り掛け われ可良可見(カラカみ)の 韓招(からを)ぎせむや 韓招ぎ 韓招ぎせむや」

其駒「曾乃古末(ソノコマ)ぞ や、我に、我に草乞ふ 草は取り飼はむ 水は取り 草は取り飼はむや」

精選版 日本国語大辞典

韓神は国体を理解する上で非常に重要な神様ですので、参考図書を二冊紹介します(引用は書籍の紹介文より)。平凡社は保守系の歴史に強い出版社です。西部邁氏の書籍も扱っています。なぜ日本を代表する保守論客でもあった西部さんの書籍を扱っている保守系の出版社が、このような内容の書籍を扱っているのかを考えてみてほしいです。

ちなみに、日本の神道の神様は韓神ですので、神社の起源は韓半島(朝鮮半島)にあります(赫居世の廟が起源だと言われています。第21代新羅王が「神宮」を創立)。伊勢や出雲では、もともとは韓神を祀っていたようです。ただ、奥の宮にあった韓神の社はすでに取り崩されてしまって失われたようです。

古代朝鮮とのかかわりから神社の起源を探り、沖縄、済州島、韓国・慶州を経巡ってきた著者が渡来人の足跡=「鉄の道」を辿り直して行き着いたのは、国家神道の中枢だった。両者とも日本の起源が刻まれた地でありながら別物とされてきた伊勢と出雲を、「韓神と鉄」をキーワードにつなぎ直す思索の旅の物語。

平凡社「伊勢と出雲」紹介文より

神社信仰の成り立ちには、渡来人の痕跡が拭いがたく刻まれている。近江から敦賀、出雲、三輪、韓国の慶州までを歩きながら、古代朝鮮半島に日本の原始神道の起源をたずねる。 日本固有のものとされてきた神社信仰だが、その起源においては、新羅・伽耶を出自とする渡来人の痕跡が拭い難く刻まれている。好評の前著『原始の神社をもとめて』に続き、日本海沿岸から韓国の慶州へと至る旅路のなかで、原始神道における始まりの謎に迫る。
日本と古代朝鮮をつなぐ信仰の知られざる系譜。

平凡社「神社の起源と古代朝鮮」紹介文より


鉄の道

話を映画「もののけ姫」で描かれていた鉄の話に戻します。
映画で描かれていた「たたら場」は製鉄所のことですが、その製鉄技術は朝鮮半島から出雲族によってもたらされました。でも、日本ではこの技術が入ってきたルート(出雲ルート)は隠蔽されています(知っている方も多いと思いますが、国史としてはそのような扱いになっていません)。驚く方もいるかもしれませんが、日本刀や日本酒というのはもともと出雲ルートで朝鮮半島から入ってきたものなのです。(醸造ということで言えば、醤油も、味噌も、実は朝鮮から入ってきたものです。)

宮崎駿は、製鉄技術をもたらしたエボシ(出雲系朝鮮人)や、縄文人であるサン、それから、エボシによって倒されてしまうダイダラボッチ(縄文人の象徴)、そして、アイヌ人であるアシタカを描くことで、日本の隠された歴史を伝えようとしたのです。とにかく、宮崎駿三部作には古代史のタブーが沢山描き込まれています。この辺りの話が(特に出雲族の話が)、なんとなくタブーだということを知っている人は多いと思いますが、ほとんどの人は、その具体的な理由を知らないのではないでしょうか。日本と朝鮮との関係における本当の事実を知ることが日本という国を正確に理解することにつながると思いますので、少しずつ歴史の事実を紐解いてゆきたいと思います。

まず、なぜ鉄の話をしつこくしているかと言うと、製鉄技術の伝来経路や言語の起源を調べることが民族のルーツを解明することにとりわけ役立つからです。青銅器や宝飾品、それに稲作関係の遺跡なんかもそうですね。
実は、中東から鉄が伝来してきた経路は近年までよくわかっていませんでしたが、ここ数年で、スキタイや匈奴が伝来に深く関わっていたことや、中央アジアの北部にスキタイが巨大文明を作っていたことが明らかになりつつあります。現在、中央アジアが考古学のホットスポットになっているようです。前に見たNHKスペシャルが面白かったので下にリンクを貼っておきます。テレビを持っていた頃に見ました。今は持っていません。相撲協会が嫌いなのです。(余談ですが、相撲の起源もおそらく朝鮮にあります。)

製鉄技術の伝来経路ですが、まず、ヒッタイトからスキタイだったようです。それから匈奴。そして、テレビではもちろん報道しませんが、その後は、匈奴から朝鮮半島、それから、出雲族によって日本に伝わりました。もののけ姫は出雲地方に製鉄技術がもたらされた頃の話です。そのことから、宮崎駿もアイアンロードを追っていたことは明らかで、この道にある小アジア、中央アジア、東アジアの文明や神話に関する説話が三部作の中にちりばめられています。

鉄の伝播をもたらすことになった重要な転換点は、スキタイが馬の口にかませる銜(ハミ)を発明したことだったようです。この発明により馬を騎馬として利用することが出来るようになりました。馬を巧みに操れるようになり、長距離移動が可能になったのです。それで、その馬によって製鉄技術が東アジアに伝えられることになりました。

製鉄技術は、馬によって小アジアから中央アジア北部経由で朝鮮半島に入り、出雲族によって日本にもたらされた、というのが最近になり明らかになった新事実のようです。この記事では、「文明の伝播の起点が大陸側にあった」という事実が重要となりますですので、そこをおさえておいてください。
それでは次に、言語の起源の話に移ります。


アルタイ語族の起源

実は昨年、アルタイ語系の民族のルーツに関して、大変に重要な研究成果がレポートされました。このレポートにより、中国東北部の遼河流域に東アジア最古の巨大文明があったことが裏付けられました。遼河文明といいます。実はこの文明、見つかったのは一世紀も前なのですが、多面的な調査結果が、ようやく昨年、ドイツが率いる国際調査団によってネイチャーという科学誌にレポートされました。このレポートにより、アルタイ語系の民族の起源が明らかにされました。これは大変なことなんです。なぜなら、長い間大変な議論を重ねてきた問題に対する答えだったからです。

下に、ネイチャーに掲載されたレポートと新聞に掲載された記事のリンクを貼っておきます。

以下、新聞記事を二つ紹介します。

  1. 毎日新聞


2. 東亜サイエンス(韓国語)

https://www.dongascience.com/news.php?idx=50490

(以下、東亜サイエンスの記事を引用します)
※翻訳はネットで拾ってきたものです

中央アジア遊牧民説、覆るか

・独研究チームに韓-中-日-露-米が参加・・・共同研究結果を『ネイチャー』に発表
・主語-目的語-述語が語順のアルタイ語族、言語学-考古学-遺伝生物学など分析
・共通起源の言語3000が遼河で連結・・・コメ農業、朝鮮半島に流入して日本に到達
・ゲノム分析の結果、共通要素を発見

韓国語やモンゴル語、日本語などの『ルーツ言語』とされる『トランスユーラシア語族(アルタイ語族)』の起源が約9000年前の中国東北部、遼河(りょうが)一帯の農業地域だったという研究結果が出た。約4000年前に中央アジアの遊牧民が移住して言語が広まったという、既存の『遊牧民仮説』を覆したのである。

ドイツのマックス・プランク人類史科学研究所・考古学部のマーティン・ロベーツ教授の研究チームと、韓国、日本、中国、ロシア、アメリカなどの研究陣が大挙参加した共同研究チームは、このような内容の研究結果を11日に国際学術誌である『ネイチャー』に発表した。韓国外国語大学校のイ・ソンハ教授、東亜大学校のキム・ヂェヒョン教授、韓瑞大学校のアン・ドクイム教授など、韓国の研究陣も共著者として名を連ねた。

トランスユーラシア語族は東は韓国、日本からシベリアを経て西のトルコに至るまで、ユーラシア大陸を横切って広範囲に分布する。主語-目的語-述語の語順、母音調和、文法上性別区分がないなどの共通点がある。膨大な規模の言語集団が多くの分岐点に分けられて伝播した原因は究明されなかったが、『遊牧民仮説』が主流だった。

国際共同研究チームはトランスユーラシア語族の起源と伝播様相を正確に究明するため、言語学、考古学、遺伝生物学など3つの分野を立体的に解明した。古代の農業や畜産関連語彙を分析して、新石器・青銅器時代の遺跡に対する考古学研究の結果、古代農耕民の遺伝子の分析結果と比較した。

言語学的に起源が共通する言語3000余りを集めて系統樹を描いた結果、約9000年前に遼河一帯の農業地域で使われた言語にまで繋がれることが確認された。これは新石器時代の原始韓国・日本語、原始モンゴル・ツングース語などに分かれた。青銅器では韓国語、日本語、モンゴル語、ツングース語、チュルク語などに分離して、当時新たに導入された米や小麦、大麦のような作物の単語や酪農業、シルクなどの言語が追加された。

考古学的には255の遺跡で発掘された作物の炭素年代測定の結果を分析したところ、約9000年前の遼河一帯の農業は大きく二つの分類に分けられ、一つは5500年前に朝鮮半島の方向へ、あと一つは5000年前に北方のアムール川流域に広がった。コメ農業は中国の遼東と山東地域から3300~2800年前に朝鮮半島に流入して、3000年前に日本にまで到達していたことが分かった。

また9500~300年前に韓国、日本、アムール川流域に住んでいだ19人の誘電体と、ユーラシアと東アジアの現代人194人の誘電体を分析して比較した。その結果、トランスユーラシア語を使う全ての人から共通した遺伝的要素が発見された。

研究チームは3つの分野の研究結果を総合して、農耕文化とともに言語の拡散と分離が起きたという『農耕民仮説』を掲げた。特に遺伝的証拠を通じて、韓国と日本人がトランスユーラシア語族と関係ないという既存の一部の学説にも反証した。また、欲知島から出た古代人のDNAを分析して、中期新石器時代の韓国人先祖の遺伝子が、日本の先住民である繩文人と95%一致するという事実も初めて確認した。

東亜サイエンスより
「韓国語のルーツ」トランスユーラシア語の起源

(以上、引用終わり)

とりあえず、アルタイ語系の民族の起源が遼河一帯だと確定したようです。それから、この調査団は、既存の『遊牧民仮説』を覆し、農耕文化の伝播とともに言語の拡散と分離が起きたという『農耕民仮説』を掲げたようです。
この記事のテーマに沿うなら、日本人は朝鮮人だということをドイツが率いる国際調査団も主張したということになります。(※日本と韓国の研究者も調査に参加していました。)


日鮮同祖論と歴史から消された人類学者・鳥居龍蔵

ドイツの国際調査団によるレポートの内容については、日本の報道でもわりと大きなニュースとして取り上げられていたように記憶しています。でも、一切報道されなかったことがあります。実は、もともと「日鮮同祖論」(日本人は朝鮮人だという主張)は、戦前日本が盛んに喧伝していた主張なのです。でも、その事実について全く教えられず隠蔽されているので、ほとんどの人はそのことを知りません。ナウシカが朝鮮人だと言うと怒って文句を言ってくる人がいますが、言い出しっぺは実は明治政府なのです(喧伝したという意味で)。それに東京大学です。

そもそも、ドイツの国際調査団がレポートしたような趣旨について最初に発見したのも、そもそも遼河文明を発見したのも、東大人類学教室の鳥居龍蔵です。鳥居は誰よりも早く、北東アジアから渡来してきた人々が日本という国の基礎を築いた先祖だと気付いていました(固有日本人説)。非常に有名な人類学者ですが、日頃名前が出ることはありません。能力を買われ在野から東大の助教授にまでなりましたが、能力がありすぎて最後は東大から追い出されてしまったのです。教授陣を次々と論破してしまって疎ましがられたのです。

鳥居はほぼ歴史から消されていますが(功績に反し扱いが酷い)、東大に盾突くだけでこんなに冷遇されるなんて恐ろしいです。東大を出てない人がこの国の秘められた真実を主張し、タブーを解明することは許されないのです。人類学者として最初に日鮮同祖論を提唱したのは鳥居です(歴史学者、言語学者、漢学者、国学者による主張は鳥居の主張より前からあった)。その後、東大は日鮮同祖という主張を変えていません。明治からずっと日本人は朝鮮人だと言い続けてきたのは東大なのです。

私たちはこの日鮮同祖論について学校で全く習いませんが、この主張は日本の歴史を読み解くうえで大変に重要な主張であり、本来学校の授業で簡単に素通りできるようなものではありません。したがって私たちは、かつて日本が主張したこの日鮮同祖論について知っておく必要があります。そもそもこの主張に基づいて日本は韓国を併合したのですから。

少し話がそれますが、「日琉同祖論」(日本人は沖縄人だという説)を唱えた伊波普猷(沖縄学の父)と鳥居龍蔵は互いに親交があったようです。伊波普猷の日琉同祖論は、鳥居龍蔵の日鮮同祖論と同様に、隣国の併合容認論へとつながりました。彼らはともに上田萬年(東大文学部長、専門は言語学)の講義を聴いてたようなのですが、このことから、彼らは思想洗脳されたように感じます。当時、政府は国民を兵士にするために日本語改革も積極的に進めていましたが、その流れの中で、東大の上田萬年は標準語や仮名遣いの統一を行った人物です。国家として一体になるには意思疎通を早く行える方が当然いいわけです。当時、藩(の言葉使い)が邪魔をして国家神道の布教がスムーズにいかなかったこともあり、政府は廃藩置県を行うと同時に、日本語の標準化を行い日本人同士スムーズに意思疎通できるようにしたのです。

日本語改革を行うことによって明治政府が目指した国民国家の建設というのは、実体としては国民総兵士化でした。だから女性も「からゆきさん」として海外に出稼ぎにいって外貨を稼ぐ兵士にされました。農民も兵士の供給源にされ、政策的に荘園に留め置かれ貧乏なままにされました(荘園制)。とにかくみんな兵士にされてしまいました。「四民平等」というのは、四民平等に兵士にするためのスローガンだったのです(国民皆兵)。日本は、明治の初期から一億玉砕覚悟だったのです。これが富国強兵政策の真意です。(後でまた説明します。)

もう少し脱線して当時の状況を簡単に説明しておきます。
当時、政府が進めていた富国強兵政策の中身は大きく分けて二つあります。工業化と文化改革(思想洗脳)です。工業化というのはいわゆる殖産興業です。近代的な金融システムを基盤にした経済の産業化です。文化改革は大きく三つに分けられます。①日本語改革、②国家神道布教、③優性思想布教(大陸卑下)です。富国強兵というプロパガンダ(マーケティング)は幕末より討幕派により行われましたが、この時期の日本の啓蒙思想(科学を重視する思想)を支えたのは江戸末期に流行った陽明学です。日本では、江戸末期に朱子学が難しすぎて理解できなかった人々に陽明学が浸透しました(ジョン・ロールズ風に言うと、朱子学が社会契約論的正義論、陽明学が功利主義的正義論)。「社会」という概念は頭の悪い人にはイメージしにくいので功利主義的正義論である陽明学の方が受け入れられていったのです。(でもその後、八紘一宇のようなコスモポリタニズム的短絡思想は簡単に受け入れられました。)ちなみに、朱子学の理念的な部分だけはしっかりと国民を洗脳するために悪用されました。当時のスローガンは儒教(朱子学)からのパクリが多いのです。
そのあたりを当時の英国に利用されたと思います(付け入られた)。英米はこのような二元論的思想対立を巧みに利用して思想洗脳してゆくのが非常に得意なのです。時に保守思想、時に共産思想を利用して、対立構造を作りながら他国に食い込んでゆきます。当時は、ロシアの南下政策を食い止めるために、英国が日本を傀儡国家にしようと画策していた時代でした。

※今も英米はウクライナで同じことをしています(東部住民との対立を扇動)。ウクライナと日本は、地政学的に、ロシアの南下政策を阻止する砦としての意味があり、今起きているウクライナ戦争と明治維新には極めて共通点が多いです。明治維新=マイダン革命なのです。

下でもまたふれますが、当時は、岩倉具視、大久保利通らが功利主義的正義論者で、西郷隆盛らが社会契約論的正義論者でした。②は現人神となった天皇を中心とする新しい日本の国体(国家神道)の布教、③は脱亜入欧のようなアジアを卑下する思想の布教です。また下で説明します。

脱線を終わって日鮮同祖論の話に戻ります。
鳥居が主張した日鮮同祖論は人類学的見地からのものですが(「人類学的日鮮同祖論」)、他にも、「文献学的日鮮同祖論」や「言語学的日鮮同祖論」など、様々な学問的見地から主張された日鮮同祖論があり、その多くが、実際に朝鮮侵略に利用されました。「文献学的日鮮同祖論」は併合前から併合後にかけて、併合を正当化するために利用されました。「言語学的日鮮同祖論」は併合後に内戦一体(朝鮮人を日本に同化させる政策)を強化するために利用されました。「文献学的日鮮同祖論」というのは、ようするに歴史的な文献資料の解釈にもとづいた主張で、古代朝鮮王朝を建国した檀君(だんくん)は日本のスサノオであり、日本の建国神であるアマテラスの弟なので、日本と朝鮮は本来兄弟の関係にあり、兄が弟を併合するのは合理的だという主張です。驚くべきことに、これが韓国併合の根拠だったのです。このあたりはまた後で説明します。

それから、「言語学的日鮮同祖論」。これは当時、金沢庄三郎という人物が主張しました。この人はヤバい人です(金沢の評価については様々な意見がある)。併合前から日鮮同祖論者でしたが、併合後、韓国で三・一独立運動が起きたのは言語学的な理論構築が弱かったからだと考え、音韻学(言語の音声を研究する学問)の手法を使ってさらに理論補強しました。金沢の主張は、内鮮一体(朝鮮人を日本の兵士にしたり日本語を強制したりした政策)を強化するために使われた主張であり、この主張も我々日本人が歴史を学ぶ上でとても無視できるような主張ではありません。

話がややこしくて分かりにくいかたは、とにかく、日本は当時、日鮮が同祖だという根拠で韓国を併合したという事実だけは知っておいてください。これが併合の根拠だったのです。この学校で全く教えてもらえない重要な歴史的事実を知っておく必要があります。今考えるとあまりにも飛躍した論理だったのと(また後で説明しますが、日本が起点となって文明が朝鮮に伝播したという内容でした)、戦後は戦前とは逆に、朝鮮と日本の対立を意図的に煽る分断工作が行われているため、日鮮同祖論は学校で全く教えてもらえないどころか、一切語られません。

当時、韓国は同祖だからって併合してくんなと言っていたのに、日本は「文献学的日鮮同祖論」を根拠にして無理やり併合してしまいました。そして、併合後に朝鮮人を日本に同化させたり兵士として駆り出すために「言語学的日鮮同祖論」が利用されたのです。言葉が似ているからといって朝鮮人民を納得させることが出来ると思っていたのです。だからヤバい人なのです。ただ、政府の中にもそう考えていた人がいるわけで、当時政府中枢に日鮮同祖論が本当に併合の根拠になると考えていた人がいたらしいことが伺えます。

でも、この論理だと同祖でない民族を併合することは理に適わないわけですから、日本が他の地域でやっていた事と矛盾します。ですので、かなり都合のよい主張だったと言わざるを得ません。日本は韓国を併合するときは朝鮮人になり「日鮮同祖論」を主張し、琉球を併合するときは縄文人になり「日琉同祖論」を主張しました。私はこれをカメレオン政策と呼んでいます。それで、北海道を併合するときにはアイヌ人になったのでしょうか?はい、屯田兵を送り込んで同化しようとしました(同化政策)。満州でも同様の政策がとられました。満蒙開拓団を送り込んで同化しようとしたのです。こういう流れを俯瞰しますと、日鮮同祖論というのがいかに詭弁だったかよく分かります。侵略ありきだったのです。

ちなみに音韻学というのは、言語体系の音声の側面に注目して言語の特徴を解明しようとする学問で、19世紀にソシュールが言語学に記号概念(記号論)を持ち込んだことが切っ掛けで生まれました(ソシュールは近代言語学の父)。当時、比較言語学の手法として音韻学を用いるのは最先端の手法だったはずで、金沢庄三郎はこの最先端の手法を用いて日鮮両国の言語学的同祖性を証明しようとしたことになります。そして昨年、前の項目で説明しましたが、金沢の主張が正しかったことがドイツの国際調査団によって裏図けられました。

音韻学と言えばレヴィ・ストロースが有名です。レヴィ・ストロースは人類学や哲学にソシュールの記号概念を導入し構造主義を確立した人物です。記号論とか構造主義とかいうのは分りにくいですが、とても簡単に言いますと、研究対象を要素に分けて比較することで差異を浮かび上がらせて、その差異を解釈することを通じて物事を理解しようとする手法です。細かな話よりここで重要なことは、レヴィ・ストロースは構造主義的手法によって西欧中心主義を批判したということです。構造主義が明らかにしようとしたのは、文明に優劣はないという事実です。原始的な生活を送っている人々が、都会で暮らす人々と比べて劣っているということはないのです。いやむしろ、構造主義的視点によって、原始的な生活を営んでいる人々の方が実はまともなのではないか、ということに気が付き始めたのです。

このような視点は、言語が同系統なら併合してもよいという当時の日本の主張とは正反対の視点です。日本は構造主義言語学を使って論理的に物事を見極めるのではなく、単に併合ありきで利用したのです。最先端の研究手法を明らかに悪意をもって利用しています。言語が同系統という事実と侵略してもよいという価値の話がなぜつながるのか意味不明です。この論理にも大変な飛躍がある。頭のいい人たちがそれに気が付かないわけがない。結局、学者でありながら、自分たちの主義主張を正当化するために学問を利用していたのです。論理的に繋がらずおかしいのですが、よくわからない一般人には、なんとなく正しい主張のように思えてしまうのです。そこを狙っていたのです。このような一般庶民に知識がないことを前提にした洗脳は絶対にあってはならないのです。本当に酷い時代だったと思います。

鳥居龍蔵も金沢庄三郎も侵略戦争に賛成だったことと、それから、戦後は戦前とは逆に、日韓、日朝を分断するような工作が行われているため、戦後日鮮同祖論自体が隠蔽され、この二人について語られることはありません。先の項目で紹介したように、海外の研究者によって大変に重要な研究成果がネイチャーにレポートされ日本のメディアでも大きく取り上げられたにもかかわらず、この二人について言及されることはありませんでした。

当時の学者は、併合ありきで同祖論を主張した御用学者と、調査研究の結果として同祖論を主張した比較的真摯な学者とに分かれると思います。とは言え、結局のところ、真摯な学者もその多くが侵略に加担してしまうことになりました。鳥居など、真面目に日本人のルーツを解明しようとしていた学者の研究成果も、日本にとって都合の良い部分だけがプロパガンダとして利用され、侵略が巧みに正当化されたのです。結果、当時の日本人の多くはそれが正しいことだと思い込んでいたのです。

(そして今、まさに当時と同じことが起きています。ウクライナ戦争が起きた本当の理由を誰も語ろうとせずに、日本はSWIFT停止など大変な金融制裁を主導してロシアにいきなり先制攻撃を加えてしまいました。日本が大変な先制攻撃をしてしまった事実すら知らない人がほとんどなのです。本当に恐ろしい状況です(尚、SWIFT停止は欧州が抜け穴を作ることで回避されました))。


日鮮同祖論と満鮮史 満鮮不可分論とは何か

先の話に関連して、もう一つ重要な歴史を紹介しておきます。「満鮮史」です。これも隠蔽されています。

日本は戦前、韓国を併合し満州を占領しましたが、その際に、満州人と朝鮮人と日本人が同じ民族だという歴史観を利用して侵略を正当化しようとしました。ただ、満州の占領に関しては海外から強い批判を浴びました。そりゃそうなります。そもそも同祖という事実と侵略してよいという価値の話は繋がりません。でも、日本はその批判を受け入れず、批判の矛先そらすために陽動でわざと上海事変を起こすなどしました。なぜそこまでして満州にこだわったのでしょう。ちなみに、これも研究していたのは東京大学です。(満鉄調査部から東大に研究が移管。満鉄調査部は当時大陸のプロパガンダを主導した重要な組織。)

日本は1904年に勃発した日露戦争でロシアに勝利し南満洲鉄道を獲得しましたが、その後、満州侵略を前提に「日鮮同祖論」と「満鮮史」を繋げる作業に着手しました。稲葉岩吉という人が作業の中心人物でした。この人は朝鮮総督府として出版した「朝鮮史」を編纂した重要人物でもあります。「満鮮不可分論」により満鮮の一体性を主張し、満鮮卑下政策に与するとともに、日本に同化することの必然性を説いたのです。「朝鮮史」では朝鮮の古代史を消去してしまいました。話がややこしいですが、「満鮮史」という歴史観を作り上げるために、朝鮮の古代史を否定した「朝鮮史」を編纂したんです。ただ、当時は、稲葉に限らず、白鳥庫吉など東洋史の専門家や、夏目漱石など著名な文人、それから新聞社などのメディアも、満鮮卑下政策に与してしまうことになりました。とにかく朝鮮の古代史を消すことに必死なんです。古代朝鮮王朝の王とされる檀君(だんくん)は日本のスサノオであり、古朝鮮神話(檀君神話)は嘘だと喧伝しました(檀紀(前2333年開始)は皇紀(前660年)よりも千年以上も古いのです)。

なぜ「日鮮同祖論」とは別に「満鮮史」を研究する必要があったのか不思議に思われる方がいるかもしれませんが、それは、「文献学的日鮮同祖論」が、人流や文化の伝播の起点が日本だということを前提にして論理が組み立てられていたからです。また下でも説明しますが、この日本から全てが生じたとする「ニニギの天孫降臨神話」を前提にした考えが「文献学的日鮮同祖論」の特徴なのです。単に同祖と言ったのではなく、日本から全てが始まったという立て付けなのです。

そういう立て付けのもとできあがった「文献学的日鮮同祖論」は主に日本と新羅との関係に重点を置いたものでしたので、おそらく、当初は、高句麗(今の満州)との連続性についても論理補強する必要性を感じていたのではないかと思います。(「文献学的日鮮同祖論」は、日本書紀の「一書(あるふみ)」にある「スサノオが新羅に降りた」という記載が大元の根拠になっています。日本はこの記載を拡大解釈し、スサノオが朝鮮の始祖であり、またアマテラスの弟でもあるので、朝鮮は日本より下の立場であり日本によって併合されるのは当然のこと、と主張したのです。ただ、「スサノオは高天原を追放されたのち、新羅に降り、それから出雲に着いた」とあり、なぜこのような記載から人流の起点が日本だとする「文献学的日鮮同祖論」を組み立てることができたのか意味不明です。スサノオは新羅と日本をいったりきたりしていたらしく、そのあたりを拡大解釈して都合の良い論理を構築したものと思われます。次項で取り上げますが、このような杜撰な立て付けに抗議する学者もいました。)

細かい話はともかく、当初は、満州人、朝鮮人、日本人が同じ民族で、しかも満鮮は文化的に劣っているので、日本が支配するのは合理的なことだと主張できるように「満鮮史」が研究されていたんです。ただ、侵略を正当化するために研究していただけのようで、実際には柳条湖事件を起こし言いがかりつをけて侵略を開始します。そして、映画「ラストエンペラー」で有名な溥儀を傀儡国家の君主に据え、占領行為を既成事実化してゆきます。(満鮮卑下に与した文人として夏目漱石(「韓満所感」)が取り上げられることが多いですが、満鮮入りして日本の占領を正当化するような発言をしたり、侵略を美化するような本を書いた文人は漱石の他にも何人もいます。)

ただ、途中からどうも目的が変わっていったように感じます。鳥居龍蔵の存在が影響していたのではないでしょうか。歴史学者によって「文献学的日鮮同祖論」や「文献学的満鮮史」の研究が行われる一方で、現地に入って人類学的な調査をしていた鳥居龍蔵は、そこである重大な事実を目にすることになります。現地の人々の習俗が日本の神道の儀礼にそっくりだったのです。そしてその後鳥居は「固有日本人説」(北東アジアが日本人の起源だという説)を提唱しはじめます。これがどういうことかわかりますかね?政府の方針とまるで違うことをやり始めたわけです。鳥居は文化の伝播の起点が満州にあると主張したのです。古朝鮮神話が嘘ではない可能性が出てきたのです(逆にニニギの天孫降臨神話に疑義が生じ始めたのです)。鳥居の「固有日本人説」は当時メディアでも取り上げられかなり有名な学説だったようです。しかし、これによって日本の侵略行為に歯止めがかかることはなく、逆に、鳥居は失意の中大学を去ることになりました。

上で説明したように、ドイツの国際調査団のレポートにより、アルタイ語系の民族は同根で発祥の地が現在の満州あたりだったと確定しました。ですので、「日鮮同祖論」と「満鮮史」は、結局のところ、民族の連続性(同祖性)という意味では事実だということが明らになったと言えます。ただ、この「満鮮史」についても、当時はとにかく侵略ありきでこれが研究されていたということが問題で、「日鮮同祖論」と同様に戦後批判され隠蔽されてしまいました。ちなみに鳥居の人類学的な研究成果は、「文献学的日鮮同祖論」の根幹を揺るがすものであったにもかかわらず、その点は無視され、逆に「満鮮不可分論」を補強することに利用され、同じ民族を中国やロシアから守る必要があるというアクロバティックな主張に繋がってゆくことになりました。とにもかくにも、侵略ありきだったのです。

注意が必要なのは、批判というのは学界の中で行われたのみで(戦後批判を行ったのが旗田巍)、学校ではこのような日本側の重要な主張について全く教えてもらえないわけですから、「日鮮同祖論」と「満鮮史」は結局のところ隠蔽されたと言えます。隣国を侵略するに際し非常に重要視された価値観や主張であったにもかかわらず、歴史の教科書にも出てこないのです。客観性が担保されているとはとても思えません。当時、歴史学者はとにかく古朝鮮神話(檀君神話)を否定するのに必死だったわけですが(朝鮮の古文書も多数破棄したそうです)、私はやはり鳥居龍蔵の動きが影響したのではないかと思います。満州が日本人や神道の起源である可能性が浮上したからこそ、徹底的にその証拠を消し始めたのではないでしょうか。日本側の論理にそぐわない古代史を修正するのは理屈としては分るんですが、そもそも結構杜撰な立て付けで、他に杜撰なことがわりと放置されているなかで、古朝鮮史の消去だけはあまりに必死過ぎるのです。これを見ていると、満州侵略も日本人のルーツを消し去るために行ったのではないか?と勘繰りたくなるほどです。なぜなら、侵略後、日本の神道を満州に逆輸入するなどして、満州でも現地に残っていた原始神道の残影を徹底的に消去していた痕跡が見られるからです。(ただ、これは見方によってはそう見えてしまうというだけかもしれません。私の妄想です。)

それで、いわゆる「古朝鮮神話」や「桓檀神話」といったものを日本ではファンタジーだと批判する人たちが大勢いるのですが、そういう人々は、侵略に際し同祖だと主張していたのが実は日本側だっだということを知らないのです。「日鮮同祖論」や「満鮮史」について学校の授業で全く教えてもらえないので、日本人、朝鮮人、満州人が同じ民族だと言い始めて侵略を正当化しようとしていたのが実は日本側だということを全く知らず、朝鮮の方からそのような説が出てくると馬鹿にしてしまうのです。本当に愚かで恥ずかしいことだと思います。(ちなみに桓檀神話は桓因(インドラ)の子である桓雄と熊女との間に生まれた檀君(王倹)による建国神話ですが、インドラとスサノオを同一視したり、この檀君をスサノオと考える主張もあるそうです。そういう意味で日本がスサノオを檀君と考えたのは完全な間違いではなく、記紀の記載に合わせて檀君を日本のスサノオと言ったのが間違いなのです。檀君がスサノオである可能性はあるのです。)

でも、私は、そうやって批判する人々を批判してるのではないです。国家が隠蔽してるんです。歴史の授業で習ってないのだから知らなくて当たり前です。隣国との関係における当時の日本の重要な主張をなぜちゃんと教科書にも載せずに隠蔽するのでしょうか。それがいざこざの元になっています。この理由はこの記事の最後の方で書きますが、意図的に分断工作が行われているからです。本当に悲しいことです。大国のはざまで、日韓・日朝の関係が意図的に悪化させられているのです。

ドイツの国際調査団が実際に調べてみると、満鮮史についても民族の連続性(同祖性)という点においては事実だったわけで、当時の研究者には真面目に学問として研究していた人もおそらくいると思います。鳥居は真面目に研究をやっていた人物であり功績は大きいのですが、本当のことを言いすぎて学界から追放され、実質的に功績が歴史から消されてしまいました。ただ、真面目にやっていた人たちも、結局はなんらかのかたちで、多くが侵略に加担してしまうことになってしまったという事実については押さえておく必要があると思います。
下にウィキペディアに掲載のあった「朝鮮史」と「満鮮史」の記述を引用しておきます。

日韓併合直後より、日本側において朝鮮半島植民地化の正当性を示すために朝鮮半島の本格的な通史編纂を計画し、黒板勝美・三浦周行・今西龍らに検討させたのが始まりとされている[1]。実際に計画が動き出したのは、1922年に中枢院の下に「朝鮮史編纂委員会」が設置され、1925年に勅令でこれを朝鮮史編修会に改組してから後のことになる。同会には今西龍や稲葉岩吉・末松保和・中村栄孝ら日本側の歴史学者のみならず、洪憙・李能和・崔南善・李丙燾ら朝鮮側の知識人・文化人も参加し、その数は合わせて41名にのぼる[2]
(中略)
韓国の이주한 (ハンガラム歴史文化研究所研究委員)は、「檀君神話は事実ではなく、単なる神話にすぎない」「中国からの遺民の衛満が建国した衛氏朝鮮は韓半島で建てられた最初の国である」「韓半島の鉄器文化は中国から流入した」という歴史観は、「韓半島の古代史が日本植民地時代の朝鮮総督府によって歪曲された」ものであり、「日本は1910年から韓国の古代史を抹殺するために数十万冊の史料を回収・廃棄し、朝鮮史編修会を通じて2万4千ページにのぼる『朝鮮史』を新たに発刊した。『朝鮮史』発刊の目的は、朝鮮の歴史から古朝鮮を消去することであり、日本の歴史より長い朝鮮史を取り除くことだった」として、「古代韓国文化が、中国の黄河流域やシベリア地域から流入されたという先入観を捨てなければない」と主張しており、古朝鮮の鉄器生産は紀元前13世紀であり、中国の紀元前8世紀よりもはるかに上回り、鉄器は、中国から輸入されたものではなく、古朝鮮の領土である満州と韓半島地域の東夷族の発達した鉄器文明を中国が輸入したものであり、さらに「古朝鮮の周辺国に過ぎなかった戦国時代の燕の衛満が1000人を率いて古朝鮮に入国し、朝鮮の歴史において初めての強力な国家を作った」という歴史観も、古代朝鮮史の主体を中国人にするために操作されたものであり、朝鮮総督府の『皇国史観』によるものと主張している[6]


フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』朝鮮史 (歴史書)より

主な満鮮史研究者
1908年より満鉄東京支社嘱託・満鮮地理歴史調査室の満州朝鮮歴史地理調査部門において研究をした白鳥庫吉、津田左右吉、松井等、稲葉岩吉、池内宏、箭内亘、和田清[3]、朝鮮総督府の朝鮮史編修会において研究をした今西龍、瀬野馬熊、黒板勝美、小田省吾、藤田亮策、末松保和、田保橋潔など[4]。

批判
現代韓国の研究者からは、満鮮史は朝鮮が中国の満州を領有する主権を行使できなくするために編み出されたものであり、中国史から満州史を分離させて朝鮮史と束ねることにより、日本の満州支配の合理的理由を歴史学的に示すとともに、朝鮮史の独自性・自主性を消失させる典型的な植民史観(朝鮮語版)の一つであり、「日本の東洋学者が日本の大陸政策すなわち満韓経営に直接的かつ組織的に関わって生み出されたもの」として厳しく指弾されている[5]。
(中略)
主な批判
日本の進出対象であった満州と朝鮮の不可分性を主張することによって、日本の満州と朝鮮進出を正当化する目的があった[14][15]。
歴史的な考察ではなく、日本の朝鮮支配と関連して満州と朝鮮は一体という結論があり、それを説明するために提唱された[16][15]。
朝鮮史は朝鮮民族の歴史であるため、満州と朝鮮を一体とした歴史観は成立できず、朝鮮民族は統一新羅以後、満州人とは異なる歴史がある[7][15]。
(中略)
再評価
旗田の満鮮史批判が、朝鮮と中国東北史の関係を断ち切らせてしまい、戦後日本や韓国の朝鮮史研究が、朝鮮の歴史を朝鮮一国だけで考察する一国史観に閉じ込めたという主張がある[6]。
(以下、略)

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「満鮮史」より

檀君神話
古朝鮮の建国神話。天孫の檀君が古朝鮮を開き、その始祖になったというもの。『三国遺事(さんごくいじ)』(紀異巻1)によると、天帝桓因(かんいん)の子桓雄(かんゆう)は、天符印(てんぷいん)3個を父より授けられ、徒3000を率いて太伯(たいはく)山頂の神檀樹(しんだんじゅ)という神木の下に降臨した。そして洞穴にいた虎(とら)と熊(くま)が人間に化すことを祈っていたので、蓬(よもぎ)と蒜(にんにく)を食べて忌籠(いみごも)るよう告げると、熊だけが女となり(熊女(ゆうじょ))、桓雄と婚して檀君を生んだ。檀君は平城に都を開き、1500年の間国を統治したという。この神話の前半の部分は、日本の天孫降臨神話に対応するものである。また、この神話のおもな登場人物である桓雄、虎、熊はそれぞれ主権、軍事、豊穣(ほうじょう)の機能を代表するもので、東アジアにおけるインド・ヨーロッパ諸族神話的な社会的三機能体系の一例である。他方、檀君神話でことに興味深いのは熊と虎の問題であり、熊女の忌籠りは巫女(みこ)の成巫(せいふ)過程に比例するものである。さらにこの神話は、北方ユーラシアの熊信仰と深い関係があり、ツングース系諸族、ことにアムールランドのツングース人の間に普遍的に分布している熊祖神話や、熊や虎と人間の女との交婚譚(たん)ときわめて深い親縁関係を示し、その一異伝と考えられる。したがって、これは朝鮮文化とツングース文化との密接な関係を物語っている。また歴史的にみると、支配者層に支持された箕子(きし)神話に対し、檀君神話は13世紀以降モンゴルなどの侵入に対する民衆の義兵闘争を契機として広まった、朝鮮の被支配階級の民族主義的神話である。なお、韓国では独立後の1948年から61年まで、檀君紀元(西暦の紀元前2333年を元年とする)を使用していた。[依田千百子]

小学館 日本大百科全書


日鮮同祖論と修史事業 真実と虚構の対立

日鮮同祖論について語ってきましたが、「明治政府の修史事業」についても語ってみたいと思います。この修史事業を見てゆくことで、「文献学的日鮮同祖論」が出来上がった経緯がより深く理解できると思います。修史事業というのは、明治期に政府が国史を新しく編纂し直そうとした事業のことです。時系列としては、日鮮同祖論の主張を始める前の話です。実はこの国家事業が、ある事件をきっかけに中止になってしまったのです。国家の歴史編纂事業が中止になるというのは大事件です。

先の項目でも説明しましたが、「文献学的日鮮同祖論」と「人類学的日鮮同祖論」は、字づらだけ見ると同じ日鮮同祖論ですが、中身がまるでちがいます。結局、「方向」としては鳥居の主張が正しかったわけですが、当時、歴史学者の中にも、鳥居の主張を待つまでもなく、同様の考えを持っていた学者はいました(江戸期から歴史学者の中でもこの「方向」についての議論はあり、本居宣長と上田秋成、藤貞幹との論争は有名(日の神論争))。ようするにですね、おそらく多くの歴史学者も内心「文献学的日鮮同祖論」はおかしいと分かっていながら与してしまったんです。ニニギが文明の起点で、スサノオがアマテラスの弟だから併合していいなんて無茶苦茶ですからね。でもその無茶苦茶に与してしまって、日本にとって都合の悪い古朝鮮史を徹底的に消去しようとしたんです。もう、みな、歴史学者ではなく、歴史を消す学者なわけです。無茶苦茶なわけですが、でも、その無茶苦茶が通ってしまったんです。なぜでしょう。

結局、真実を主張することよりも、虚栄心の方が勝ってしまったんだと思います。日本は長らく大陸の文化を享受する側だったことで、潜在的な劣等意識が募り(江戸期の国学形成の流れがこれで、文献学的日鮮同祖論はその流れを受けている)、立場の弱い自分は「善」であり、強者である大陸の国々は「悪」だという「価値の転倒」が起きてしまったのではないかと私は考えています。これはニーチェが西欧文明を批判するために「道徳の系譜」の中で展開したルサンチマン思想ですが、日本の当時の状況はこのニーチェの言う「価値の転倒」に酷似しています。(ルサンチマンというのは弱者が抱く妬みや僻みの感情のことです。ちなみに人類学者のルネ・ジラールはこれをもっと宿命論的に捉えてミメーシスという概念を提示しています。)

もちろん、実際には様々な圧力があったり、個人の生活もあったでしょうから、なかなか単純化して語ることは難しい面もありますが、でも、私は、当時の日本において、ニーチェが指摘したような、弱者である自分たちの方が正しいという「価値の転倒」が起きてしまった可能性が非常に高いと考えています。この「価値の転倒」という現象は決して珍しい現象ではなく、世界の歴史をこの視点をもって概観すると、実は様々な場面で同じような現象が起きていたことに気が付きます。いやむしろ、妬みや僻みの感情こそが原動力となり、今日までの歴史がかたちづくられてきたのです。プロメテウスが天界の火を奪ったあの日から。

さて、若干話がそれてしまいましたので、話を戻して、少し視点を変えながら、もう一度「文献学的日鮮同祖論」を最初から見てゆくことにしたいと思います。
まず、政府が「日鮮同祖論」を真面目に論理構築しようとすると、必然的に困ることが三つ出てきてしまうと思います。

①最初のニギハヤヒから韓神にかけての項でも書きましたが、もともと日本で最初に王朝を築いていたのは新羅系の出雲族です。出雲族が韓神を中心とした神道文化をもつ出雲王朝を築いていました。つまり、日鮮同祖論を主張しようとする際に最初に出てくる問題は、神話と事実の切り離し作業が必要になってしまい、そのことで、出雲族の方が本来の神道の系統だとバレてしまうという問題です。日向系ではなく出雲系の方が本来の神道の系統だとバレる。これが第一の問題。その結果、日向族の天皇家が天皇家でいられる根拠が揺らぐというのが第二の問題。実際には多くの証拠があって真面目に日鮮同祖論を主張するなら出雲族と朝鮮半島を繋げる作業をやるしかないのです。(念のため、私は天皇制を貶めるつもりは一切ありません。日鮮同祖論の問題点を指摘しているだけです。私は日本人のルーツについては政治的意図を極力排除して真摯に解明すべきだと考えています。このあたりはまた後で説明します。)

②アマテラスとはいったい何者なのか?という疑念が生じるというのが第二の問題です。天皇家(日向族)は、神武東征によって大和の地に後から来て「国譲り」によって出雲族から国を譲り受けたということになっているのですが、この話が本当なのか嘘なのか、全くわからないのです。神武が実際本当にいたのか、東征がなんなのか、そこからわからないのです。わからないままでもいいような気もしますが、日鮮同祖論を真面目に論理構築しようとするなら、アマテラスをそのままにしておくことは出来なくなると思います。日鮮同祖論を真面目にやろうとすればするほど「アマテラスという問い」が余計に浮かび上がってくるからです。

ニニギの降臨が事実だという主張もあり、恐らく当時の歴史学者はニニギから日鮮同祖論に繋げられないか試みたはずで、しっかりと調べたはずです。でも結局、アマテラスとスサノオが兄弟という事しか主張できなかった。日本はスサノオと朝鮮を繋げるための論理構築も杜撰でしたが、これは、アマテラスとスサノオの関係を兄弟としか言えなかったからではないでしょうか。スサノオと朝鮮の建国神話がガッチリ繋がってしまうと、今度はアマテラスとスサノオの関係があまりにも脆弱に感じる(いやむしろ、スサノオが日本に文明をもたらしたのではないかという疑念すら生じ始める)。つまり、「文献学的日鮮同祖論」の立て付けが全体的にかなり杜撰なのは、そもそもアマテラスから繋げたことによる宿命みたいなものだったのではないでしょうか。

「文献学的日鮮同祖論」の構築を真面目にやることで日本の建国神に疑義が生じるとしたら、それは本末転倒ですので、そんなことは許されない。つまり、アマテラスを大前提にしたことが、それこそ全ての始まりになってしまったのではないでしょうか。韓神を排除し天皇を現人神にしてしまったことで後戻りができなくなってしまったのです。つまり、明治憲法ができたあたりが分水嶺だった、と言えるのかもしれません。なぜならこの憲法の内容は、完全にルサンチマンまるだしだからです。結果、虚栄心に負けてしまった多くの歴史学者、日本の政治機構が、「文献学的日鮮同祖論」というファンタジーを作りあげてしまったのです(そしてそのことが結局、今日においてアマテラスの問題を浮かび上がらせてしまい、天皇制に疑義を抱かせることに繋がっています。いや、疑義というか、私にはアマテラスが問うているような気がするんです、アマテラスとは何者かと)。

でも、ファンタジーを作るしかなかったとは言え、ファンタジーを作って朝鮮が納得するでしょうか。しないに決まってますよね。そもそもインドラ(桓因)から始まる古朝鮮神話をねじまげ時系列を無視して檀君は日本のスサノオだと言ってみたり朝鮮人にはとても受け入れられない立て付けになっていました(古朝鮮神話では檀君は桓因の孫)。それで、実際には金沢庄三郎の「言語学的日鮮同祖論」がしつこく政府に利用されていくわけです。つまり、ニニギの降臨神話から繋げた日鮮同祖論は朝鮮を説得するという意味でははなっから使えないものだったのです。歴史学者は恐らくそんなことわかっていたはずなのに加担してしまったんです。私は考えれば考えるほどよくわからなくなります。いったい人間とはなんなのか。実は底なしの卑しさこそが、人間を規定する正義の正体なのではないでしょうか。(※ニニギの天孫降臨神話自体は史実だと考える学者もいるようです。ただ、記紀の記述や状況証拠から考えると、日向系は元々南方から渡来した人々である可能性が高いようです。日向系を伽羅系とする学者も、もともとは南方系だったと考えているようです。一方、百済系と考える学者もおり、なお議論の余地が残るところところではあるようです。)

③三つ目の問題は、外向きには日鮮同祖論を主張しながら国内で天皇を現人神とした国家神道を布教するのは、根本的に矛盾するという問題です。話がややこしいですが、ようするに今説明してきたように、日鮮同祖論を真面目に論理構築してしまうと、国家神道と矛盾するんです。でも、明治政府はこれをあまり気にしなかったようです。国内では人間動物園で朝鮮人を見世物にしようとしたり大陸卑下政策を行いながら、一方では日鮮同祖論を喧伝していました。海外から日本に抗議がきたようですので朝鮮にもバレたのではないでしょうか。つまり、国内で矛盾したことを平気でやっていたので、海外にそれがバレてしまって、はなっから日鮮同祖論によって朝鮮を説得できる見込みはなかった。つまり、最初から日鮮同祖論を真面目に論理構築するつもりなんかなかったんだと思います。最初からニニギから全てが始まるという立て付けにする(国家神道に沿わせる)つもりだったんです。このような事実からも、日鮮同祖論は併合の根拠とされながら、その実、最初から侵略ありきの明らかなこじつけだったと考えられます。むしろ、こんなものを海外に対して主張してしまったせいで天皇家の素性を怪しまれる切っ掛けになったと思います。だから今日において素性の詮索は禁忌で、万世一系という永続性がことさらに強調されています。

それで、明治政府がやろうとしていた対外政策と国内政策における根本的な矛盾が、修史事業に際して大変な事件を引き起こしてしまうことになります。あたりまえですよね。学者はそりゃあ困りますよ。日鮮同祖論と国家神道は基本的にかみ合わないのです。どちらも主張しようとすると嘘を紛れ込ませる必要が出てきます。当時は真摯な学者が多かったのでそれに反発する学者が出てきたのです。何が起きたのかを先に言っておきますと、学者が喧嘩を始めて事業が中止になり、真面目に事実を国史として編纂しようしていた学者の方が追い出されてしまったのです。そしてこの事件の後、このようなプロパガンダの作成に際しては、学者ではなく文人が登用されてゆくことになります。学者は賢いので意見対立が起きてスムーズに事業が進まなくなることに明治政府が気付いたのです。それで、平気で嘘をつける文人を使い始めたのです。だから私はこの時代の日本の文人の多くが大嫌いなのです。

伊藤は、ベルリン大学のルドルフ・フォン・グナイスト、ウィーン大学のロレンツ・フォン・シュタインの両学者から、「憲法はその国の歴史・伝統・文化に立脚したものでなければならないから、いやしくも一国の憲法を制定しようというからには、まず、その国の歴史を勉強せよ」という助言をうけた。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』大日本帝国憲法より

では実際に何が起きたのか説明してゆきます。
これも結論を先に言っておきますと、明治政府は国内向けの国家神道を作り上げることを優先し、対外向けには(朝鮮向けには)、「スサノオ縄文人説」(これはわたしの造語です。ネットには今もこれを主張してる人が沢山いますので。)というおかしな説をつくりだします(これが「文献学的日鮮同祖論」です)。これは既に上でも説明しましたが、アマテラスの弟であるスサノオが日本から朝鮮に渡り朝鮮を建国したので日本の方が立場が上だという説です。つまり、「日本人が朝鮮人」なのではなく、「朝鮮人が日本人」(朝鮮が弟で日本が兄という関係)という説です。朝鮮から文明が入ってきたのではなく、日本で文明が誕生して日本が人流や文化の伝播の起点となったと主張したのです。ニニギの天孫降臨から全てが始まったという説です。この説によって、本来かみ合うはずのない国家神道と日鮮同祖論を無理やり整合させようとしました。この記事では今後この主張を「スサノオ縄文人説」と呼びます。

まず最初の事件が起きます。
「重野安繹と川田甕江の論争」と呼ばれる事件です。二人とも当時日本の漢学者を代表するような人物でした。その二人が国史の編纂作業の途中で大喧嘩を始めたのです。
もう何が起きたのか分かると思いますが、ちゃんと事実に基づいて史書編纂をやるべきだと主張する派閥とファンタジーでもいいんじゃないの?と主張する派閥で喧嘩になってしまったのです。

重野安繹は史実に基づき忠実に編纂しようとしましたが、川田甕江は事実の裏付けがないファンタジーでも許容されると考えました。ちなみに、重野安繹は大アジア主義者でした。大アジア主義というのは、アジア諸国が同じ立場で共同、協調しようとする考えです。ようするに、真面目に朝鮮と協調しようとして日鮮同祖論をやってた人だったのです。重野はもともとそういう考えを持っていたので、国史編纂に当たって、ちゃんと事実に忠実にやろうと表明していました。

川田甕江はそれが気に入らず国史編纂を辞退してしまいました。要するに、国家神道の布教を重視する派閥だったのです。
喧嘩の結果、ファンタジーではなく真面目に国史編纂をしようとしていた方の重野安繹が編者を首になり、東大教授も首になってしまいました。一方、川田甕江は後に東大教授に就任します。これはどういうことなのでしょうね。

ウィキぺディアに詳しい説明がありました。ちょっと変だなと感じるところもありますが、そのまま引用しておきます。とにかく、日本を代表する漢学者の喧嘩ということで、当時大変な大論争を巻き起こした大事件でした。

修史館での対立

藩の存続が決まると、方谷が引退したこともあり甕江は藩を退いて東京(江戸)に上った。江戸で塾を開いた甕江は薩摩藩の重野安繹と双璧をなすと言われるようになった(この二人に甕江の盟友・三島中洲を加えて「明治の三大文宗」と称された)。この頃、江戸漢学界の第一人者であった安井息軒は、訪問した井上毅に「自分に会う暇があるなら川田に会え」と言ったと言われている。

山田方谷に対して尊敬の念を抱いていた木戸孝允は、甕江に方谷の出仕を要請するように依頼した。方谷の引退の意思は固く、木戸の期待には応えられなかったものの、甕江を太政官に出仕して大学小博士として重野安繹とともに国史編纂の責任者になれるように推挙したのである。やがて国史編纂構想は太政官内における修史館設置(明治10年(1877年)1月、現在の東京大学史料編纂所)へと発展する。

だが、甕江と重野の対立はその最初から生じていた。新しい日本の国史を作ろうと意気込む重野に対して甕江は国史編纂よりも史料の収集に力を注ぐべきだと考えていた。更に完璧なものを追求して妥協を許さない重野と気さくで大らか(悪く言えば大雑把)な甕江では性格が全く合わなかったのである。

そのような時に生じたのが『太平記』の扱いを巡る問題であった。重野は『太平記』を創作であって史実ではないと考え、同書にしか記述の無い児島高徳や「桜井の別れ」(楠木正成が死の直前に息子正行との訣別を行う場面)は国史に載せるべきではないと唱えたのに対して、甕江は『太平記』に対する史料批判を行わずに初めから創作と決め付けるべきではないと反対して、両者は激しく論戦を行い、学者達を2分するかの勢いとなった。その結果、明治14年(1881年)、甕江は修史館を去って宮内省に移ることになった。

この論争について今日の史学史では論争中に甕江が発したとされる「事実の詮索過ぎて忠君孝子地下に涙し…」という発言が一人歩きして、甕江が歴史学を「名教道徳」に従属させて国家に不都合な歴史の存在を否定しようとしたという評価がされている[2]。だが、甕江自身の経歴から見れば甕江もまた重野同様に実証主義を取り、それゆえに独善的に陥りがちであった重野の手法を批判してより慎重な史料批判を求めたのが論争の実態である。むしろ、その後の国学者や神道関係者、国粋主義者によって甕江の発言を都合よく利用して重野や久米邦武の追い落としを図ったことや、激しい論争のために多くの人間を巻き込んだ派閥論争へと変質してしまい、互いに妥協の出来ないところまで行き着いてしまったことが、日本の歴史学・史学史にとっては大きな不幸であったといえよう。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』川田甕江

1871年(明治4年)に上京し、1875年(明治8年)以降太政官正院修史局・修史館にて修史事業に関わった。1879年(明治11年)、帝国学士院会員。1881年(明治14年)、『大日本編年史』編纂に参加した。清代考証学派に範をとる歴史学方法論を主張、これに基づき児島高徳の実在や楠木正成の逸話を否定し「抹殺博士」の異名をとった。しかしこのような主張は川田甕江ら国学系・水戸学系歴史学者との対立を激化させ、のちの久米邦武筆禍事件の原因の一つとなった。

この間、1879年(明治12年)の東京学士会院創設とともに会員となり、漢文訓読を廃し音読による中国語教育の水準向上を主張した。また同年来日した清国の洋務派知識人の王韜との交遊を契機に、翌年結成された日本最初の本格的アジア主義団体・興亜会に参加した。

1888年(明治21年)、帝国大学文科大学(のちの東京帝国大学文学部)教授に就任、その翌年には「史学会」初代会長に就任。

1889年(明治22年)近代実証史学の立場から『赤穂義士実話』を著す。それまであった赤穂浪士・寺坂信行逃亡説の証拠を論破し、逆に彼が討入に参加した証となる史料を提示した。それ以来、寺坂逃亡説は口にする者が減ったとされる。

1890年(明治23年)、星野恒・久米邦武と共に『国史眼』を執筆。同年9月29日には貴族院勅選議員となった[4]。しかし1892年(明治25年)の久米邦武筆禍事件の影響で重野は翌年に帝大教授を辞職、修史事業も中止された。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』重野安繹


それから、次に、「久米邦武事件」という大事件が起きます。
事件の構図は先に紹介した「重野安繹と川田甕江の論争」と同じで、久米は国史の編纂に際して真面目に事実を反映させるべきと主張しました。そのことが大事件になってしまったのは、久米邦武がおもいっきりタブーに踏み込んでしまったからです。そのため、国家神道を重視する国粋主義者から猛烈に批判されることになりました。
実は、先に生じた「重野安繹と川田甕江の論争」は、神話の記載が直接の問題になったのではなく、太平記の解釈が問題の争点でした。久米の方は争点になった部分が国家神道の根幹にかかわる部分だったので大きな事件になってしまったのです。

具体的には、久米が「神道ハ祭天ノ古俗」という論文を出したことが切っ掛けで、その内容が猛烈に批判され、論文が発禁処分となり、おまけに東大教授も首になってしまったという事件です。久米邦武は著名な歴史学者で重野安繹と同じく東大教授でしたが、重野と同様に首になりました。真実を編纂しようとすると東大を首になるようです。

発禁になるくらいですからよほど重大な真実を書いたのでしょう。表題から、「神道は天を祭るための古俗」だということを言ったと推察できますが、私はこれを見たことがないので全く分かりません。この事件のことが平凡社の百科事典に掲載されていたので下に引用します。

この平凡社の解説を読むと、三種の神器の扱いが問題になったようですので完全に禁忌に触れてしまったんでしょうね。
久米は国家神道という新しい宗教(それまでの神道とは別物)を作り上げようとする明治政府が、三種の神器を国家神道の神器にしようとすることに文句を言ったようです。神道の宮中祭祀は本来は韓神を中心とした新羅系出雲族の祭祀ですので、三種の神器は関係ありません。韓神を中心とする本来の神道に三種の神器は全く関係ないのです。つまり、三種の神器は明治政府が新しく作った国家神道にとっての神器だということです。韓神を排除して天皇を現人神に祭り上げ、架空の神器である三種の神器によって権威づけしようとしたのです。しかし、その神器が、久米によって神事には関係ない一般の習俗だとバラされてしまったのです。明治政府は逆切れして国粋主義者を使って追放したのかもしれません。そして、結局、論文は発禁処分となってしまいました。

日本刀も勾玉も青銅鏡も、製造加工技術は出雲族がもたらしたものですが、こういうものがすでに広く一般の人々にも行き渡っていて、そういうものを使って行う儀式なんかがすでに俗習化していたのかもしれません。(※三種の神器についてはよくわかりませんが、鳥居を含め神道の起源を北東アジアに古くから伝わる満州族の習俗だと考えていた学者は、石器時代にそのような習俗がすでに日本にも入って来ていたと考えていたようです。習俗というのは、例えば相撲や田楽なんかをイメージすると良いと思います。)
いずれにせよ、明治期にできた国家神道という新宗教が神器と定めるものは、神器であるにふさわしい根拠が乏しいのではないかと思います。そもそも、都合が悪いから発禁処分にしてるんだと思います。こういうことは、結局あとあとのことを考えると悪手だと思います。
ただ、この事件について、わたしは具体的な事を詳しく知りません。状況から推察しているにすぎません(私の妄想です)。

久米邦武事件

この時期以降の歴史教育の方針を強化するうえで重要な役割を果たした事件が二つある。一つは1892年の久米邦武事件。これは帝国大学教授久米邦武が論文《神道は祭天の古俗》において,神道は豊作を祈り天を祭る古来の習俗で,三種の神器は祭天に用いられたもので神聖視は誤りと論じたため神道界から強い反発を受け,大学の職を免ぜられた事件である

出典: 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版「久米邦武事件」

平凡社百科事典 久米邦武事件
 

ウィキペディアの記事も残しておきたいので引用します。

久米邦武筆禍事件(くめくにたけひっかじけん)とは、帝国大学文科大学[1]教授であった久米邦武の論文「神道ハ祭天ノ古俗」を、1892年(明治25年)に田口卯吉が主宰する『史海』に転載したのをきっかけに問題となり、久米が教授職を非職、また論文が発禁処分となった事件。久米事件[2]、久米邦武事件[3]ともいう。

この問題は、学問の自由(特に歴史学)と国体とのかかわり方について一石を投じ、政治に対する学問の独立性および中立性を考えさせるものになった。

経過
1891年1月 - 「神道ハ祭天ノ古俗」を『史学会雑誌』[4]に発表する。
1892年 - 『史海』に転載する。このとき、主宰者の田口卯吉は以下の文を掲載し、神道家を挑発する。
「余ハ此篇ヲ読ミ、私ニ我邦現今ノアル神道熱心家ハ決シテ緘黙スベキ場合ニアラザルヲ思フ、若シ彼等ニシテ尚ホ緘黙セバ余ハ彼等ハ全ク閉口シタルモノト見做サザルベカラズ」
1892年2月28日 - 神道家の倉持治休、本郷貞雄、藤野達二、羽生田守雄が久米邦武に詰め寄り、論文撤回を要求する。
1892年3月3日 - 久米は新聞広告を出し、論文を取り下げる。しかし、主張は曲げていない。
1892年3月4日 - 久米は帝国大学教授職を非職[5]。
1892年3月5日 - 「神道ハ祭天ノ古俗」の掲載された『史学会雑誌』第二編第23、24、25号および『史海』第8号が発禁処分[6]となり、一応の決着となる。

余波
1893年3月29日 - 修史編纂事業の是非の議論が起こる。
1893年3月30日 - 史誌編纂掛の廃止が決定する。
1893年4月7日 - 帝国大学総長の浜尾新に通達する。
1893年4月10日 - 重野安繹、星野恒ら編集委員を解任する。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』久米邦武筆禍事件

三種の神器は素性が判っていません(私は知りません)。
草薙剣はスサノオが天羽々斬で倒したオロチから出てきたもので縄文人の象徴です。それを国家神道の神器とすることで、明治政府は縄文人要素を敢えて朝鮮由来の神道に加味したのです。縄文人の象徴である剣を渡来人である天皇家の神器とするのはまともな歴史学者からすれば意味不明ということになると思います。日鮮同祖論とも整合がとれなくなりますし。
(※オロチ族の素性については様々な説がありますが、ツングース系の一民族とする説もあり、これが仮に事実なら、明治政府は意図せずに朝鮮要素を付加してしまった、と考えることもできます。いずれにせよ、いろいろな物事の素性や経緯をあやふやなままにしたまま、それに異を唱える学者を排除しながら、国家主導で作り上げられたのが国家神道だと言えそうです。)

細かなことは分かりません。ただ、明治政府が布教する国家神道は完全にでっち上げられた新宗教だったということです。新宗教なのに神道という名称を残し、国民の錯誤を利用して、もともとあった権威だけは利用したんですね。人間の認知バイアスを利用した巧妙なマーケティングです。その他、この時代には縄文時代の八百万の神信仰(アニミズム信仰)を神道(古神道とも呼ばれる)だと言い出す人々も出てきました。本来の神道とは別物なのに、これも神道という名称を使って表面的な権威を流用しながら、神のすげ替えを行おうとしたんですね。
※神道は、国家神道、古神道、神道の3つの意味で使われますが、国家神道と古神道は明治期に作られた新宗教です。

韓神を排除して新宗教である国家神道を作った理由は、国民国家を作り上げるためです。そしてそれは、結局のところ、国民を洗脳してみな兵士にしてしまうことが目的だったのです。国民国家を作るのは(国家という概念を明確に国民に植えつけるのは)、愛国心を煽って国家が無償で兵士を手に入れるためなのです。これはナポレオンの時代から戦略的に始められた国家によるマーケティングなのです。愛国心を煽ることで国民が自分から死んでくれるようになると為政者が気付いたんです。(それまでの兵士は基本的に傭兵でした。)このことを理解することが重要です。

結局のところ、明治政府は最初から朝鮮と共同するつもりがないから韓神を排除して天皇を現人神に据えたわけです。なぜなら、日鮮同祖論を本気で主張するなら韓神が神であるもともとあった神道でよかったわけです。そして、事実に基づいて国史編纂をやればよかった。そうしなかったから歴史学者も反対して喧嘩になったのです。そうしなかったのは、結局、国家神道を利用して(愛国心を煽って)軍事国家を建設するのが目的だったからです。つまり、優先順序としては、まず、①国内向けの洗脳のために国家神道を作り(これをまず重視)、それから、②国内向けに作った国家神道を使ってアクロバティックに日鮮同祖論を展開していくわけです。

余波
1893年3月29日 - 修史編纂事業の是非の議論が起こる。
1893年3月30日 - 史誌編纂掛の廃止が決定する。
1893年4月7日 - 帝国大学総長の浜尾新に通達する。
1893年4月10日 - 重野安繹、星野恒ら編集委員を解任する。


それで、久米の事件の後、最終的にひねり出されたのがスサノオ縄文人説です。国家神道を作ることを優先しニニギの天孫降臨神話を踏襲したので、天皇のことを当然朝鮮人なんて言えないわけですから、縄文人と言うしかない。しかし、日鮮同祖論も主張したい。その証拠は新羅系出雲族にしかない。だから、縄文人の王がかつて日本を支配し、そして朝鮮半島も支配していた!という論です。これを大真面目に主張する人は今でも沢山見かけます。

この主張の元になったのが星野恒の日鮮同祖論です。
星野は久米と同じく歴史学者でした。
星野恒に関連するウィキペディアの項目を見てみると、

星野恒
1890年、重野安繹、久米邦武とともに『国史眼』を編纂した。同1890年、「本邦ノ人種言語ニ付鄙考ヲ述テ世ノ真心愛国者イ質ス」と題する論文を発表、スサノオが「新羅の主」であり、朝鮮と日本はもとはひとつの国であったと主張、のちに日鮮同祖論として形成される言説の先駆となった。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』星野恒

星野は記紀の研究を通して、1890年の「本邦ノ人種言語ニ付鄙考ヲ述テ世ノ真心愛国者イ質ス」と題する論文において、「皇室は半島の支配者で、半島と列島はもともと一国であり、日本人と朝鮮人は言語的にも人種的にも同一であるゆえ、半島を再び皇室の領土に編入させるのは当然である」と主張した[注 1]。

[注 1]
星野は「「皇祖」はまず「出雲地方」(現在の島根)に定着し、次いで大和地方(現在の近畿)に勢力を広げ、神武東征を経て列島先住民を征服し、太陽神に擬されたアマテラスの下、皇国を築いた」という。また、「スサノヲは新羅の主であり、日本列島征服後も朝鮮半島と行き来していた」という。そして、「後にアマテラスとスサノヲが仲違いして、半島側が熊襲を支援し反乱を起こしたことにより半島は列島より離反してしまい、神功皇后による半島侵攻と熊襲鎮圧により一時は「日韓複タ一国ト為リ」はしたが、程なくして再び新羅が離反、唐と連合して白村江の戦いで日本と百済の連合国を破り、天智天皇の代にして完全に半島を失うに至る」という。星野はこれを「憤慨歎惜」と嘆き、豊臣秀吉の朝鮮征伐を「其武功ヲ激賞」している。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』日鮮同祖論

と書いてあります。星野は久米や重野と一緒に「国史眼」という歴史書を編纂し、もともと日本と朝鮮は一つの国だったと主張しました。この説は、この記事の最初から話しているように事実だと思いますが、星野は人流の起点を日本だと考えていたようです。星野によれば、スサノオが朝鮮の主でしたが、アマテラスと喧嘩をして朝鮮半島と別れてしまったとのことです。だから再び一緒になるのは当然だという論理です。この星野の日鮮同祖論に、政府によって三種の神器など縄文人要素が加えられることによってスサノオ縄文人説が誕生します。苦肉の説といいますか、本来の朝鮮由来の神道に敢えて縄文人要素を加えたトンデモ論です。

ちなみに、今日、邪馬台国論争が盛んに喧伝されていますが、邪馬台国は日本の国体とは基本的に関係ないと捉えた方が良いと思います。そもそも朝鮮人が畿内に建国していた国というのが事実のようです。鍵は古代朝鮮語で万葉集などの文献を再解釈することにあるそうです(なんと万葉集は古代朝鮮語で解釈すると隠れた意味が読み取れる(李寧煕「もう一つの万葉集」)。)つまり、邪馬台国が大和政権の前身です(無論、諸説あり。邪馬台国自体が九州から東遷したという説もあります。)。卑弥呼をツングース系のシャーマンだったと考える学者もおり、そもそも邪馬台国が縄文系ではなく朝鮮系の国だったと考えると筋が通ります(鳥居もこの点を指摘している)。従って、邪馬台国を縄文系のように印象操作しているのは、国家神道を補強するために国民の錯誤を利用しようとしているのだと思います(いや、そもそも縄文人にも朝鮮系がいたと考えた方がよいのかもしれません)。詳細については様々な説があり議論が残るところですが、史実としては、どうやら、邪馬台国がそもそも朝鮮系だったようです(と言っても、実際には、アイヌ人も含め複数のルートから日本に渡来してきた民族同士がゆるやかに合わさった混成国家(共同体)だったのだろうと思います(鳥居は縄文系としてインドネジアンとインドシナ民族を挙げている))。

史実は今述べてきた通りだと思いますが、明治政府は国家神道を作り上げることを優先しながら韓国併合も目的としたので、ニニギの天孫降臨神話からつなげたい思惑を優先させ、新羅系の出雲族が古代王朝を作った事実をねじまげて、日本を起点として文化が朝鮮半島に伝わったというトンデモ論が出来上がったのです。真面目に日鮮同祖論をやっていた歴史学者からすれば、韓神を主神とする本来の神道や皇統に縄文人要素が入ってくると意味不明になってしまいますので、これに反対するのは理解できます。星野恒も編集委員を解任されてしまいました。(ただ、何度も同じことを言いますが、真面目に日鮮同祖論をやっていた学者も多くが侵略に加担してしまいました。今語っているのは、あくまでも日鮮同祖論と国家神道の整合における論争の話であって、侵略には賛成という学者もいました。)(※ニニギら日向族を南方系渡来人とする説もあり、皇統に縄文要素が入ること自体は問題ではないのかもしれません。ただ、国家神道が本来の神道と矛盾する問題は残ります。)

修史事業は中止になりましたが、こうして出来上がったスサノオ縄文人説に基づく日鮮同祖論というトンデモ論を主張して日本は韓国を併合してしまいました。そして、このことが日本国民にバレることを危惧して戦後この主張は隠蔽されました。戦後日本と朝鮮半島は意図的に分断されているため、その内容はさることながら日鮮が同祖だと主張していたことが国民にバレると都合が悪いのです。

ウィキペディアの日鮮同祖論の項目はニギハヤヒの項目と並び、書き変え合戦の最前線にある項目です。結局、神話にもつながる話なので、現体制の国体を瓦解させる端緒となりかねないのです。

といっても、既に何度か説明しましたが、昨年、ドイツの国際調査団によって文化の伝播の起点が遼河流域つまり大陸の方だったことがレポートされましたので、これによって現体制の国体には重大な疑義が呈されたということになります。このレポートによって、縄文要素が加味され、日本を起点として文化が伝わったとする日鮮同祖論がトンデモ論だったことが学術的に明らかにされてしまいました。

そもそも鳥居龍蔵が遼河文明を発見し、当初から大陸から文化が渡ってきたことを主張していましたので、鳥居は実はこのことが原因で追放されたのかもしれません。すでに説明しましたが、鳥居も日鮮同祖論者ですが、あくまでも文化の伝播の起点は大陸側だと主張していたのです。北東アジアを起点に考えるのが「人類学的日鮮同祖論」なのです。加えて、鳥居は、学校教科書の記載もそのように変えるべきだと主張していました(上でも書きましたが、鳥居は新石器時代に東北アジアから農耕の伝播と共に民族(固有日本人)の移動が起きたと主張していました。)。

金沢庄三郎の言語学的日鮮同祖論に関しては、民族の連続性という意味では結局のところ正しかったわけですが、方向としては伝播の起点が日本だとするスサノオ縄文人説と連動していましたので(金沢は日本を兄、朝鮮を弟の関係と考えていた)、主張の土台が抜け落ちた感じになっていると思います。内鮮一体というプロパガンダを補強して朝鮮人を兵士にしたり日本語を強制するのに一役買った主張だったわけですから。ただ、そういう経緯もあり、金沢庄三郎の言語学的日鮮同祖論は韓国ではよく知られているようで、戦後は、日本がこの主張を引っ込めてしまっていることに対して、逆に韓国の側から、日本側の首尾一貫しない主張として持ち出されることが多いようです。韓国の学者によれば万葉集を古代朝鮮語で解釈できるそうで驚きましたが、とにかく、日本語と朝鮮語は同系統だったわけですから、あとは、日本人がいつになったらこの事実と真摯に向き合うことができるか、ということにつきると思います。(尚、金沢の主張について、本人の意図と政府の意図には実際のところかなり乖離があったのではないか(金沢も鳥居と同じように文化の伝播の起点を大陸と考えていた)と考える学者もいるようですので、この点付け加えておきます)。

余談ですが、芥川龍之介が大アジア主義になったのは、大陸の学者から渡来人が侵略者だと教わったからなのだそうです。芥川は、日本人がかつて日本に渡来してきて縄文人を征服した朝鮮人の末裔だと分かっていたんです。移動の起点が大陸側だと分かっていた。だから「桃太郎」を執筆したんです。(わたしたちがよく知る鬼退治のストーリーではなく、桃太郎を悪者として描いた作品です。)ようするに、この作品はスサノオ縄文人説に対する抗議として書かれているんです。わかりますかね?芥川の「桃太郎」は伝播の起点が大陸側だと主張してるのと同じで、明治政府の主張と違うことを言っているんです。(当時は併合後でしたが朝鮮半島では同化政策が行われていました。ちなみに、芥川が師と仰ぐ夏目漱石は政府のためにペンをとりました。)政府にしてみたら、学者を使うと盾突く人間が出てきて面倒だから積極的に文人を使うようになったのに、芥川のように大アジア主義に傾いて邪魔をしてくる文人がいると目障りだったのではないでしょうか。芥川は自殺してしまうわけですが、本当に自殺なんでしょうか。私は暗殺だと思っています。暗殺の後、文人の多くが政府に取り込まれていくことになりました。私はこういう経緯を知ることが文学の意味を理解する手掛かりになると思います。「桃太郎」という作品はとても短い作品でただ読んでるだけでは単なる一風変わった鬼退治の話のようにしか感じませんが、実は体制への強い反抗の意思が込められていたのです。クロード・モネの「日の出」という作品にとてもよく似ています。一見、単なる日の出を描いた簡単な油絵なのですが、この作品にも、体制への強い反抗の意思が込められていました。

話を戻します。
星野恒、久米邦武、重野安繹はもともと同じ派閥で仲良しでした。でも、久米と重野は東大を首になり、星野は首にはならなかった。星野も編者を首になりましたが、星野は日鮮同祖論の土台を作り(縄文要素を加えたのは政府)、その際に政府が進める朝鮮侵略を積極的に支持しました。

「久米邦武事件」や「重野安繹と川田甕江の論争」、それから鳥居龍蔵の辞任は、本当のことを主張すると大学から追放されてしまうという前例を作り、このことが今日まで影響を及ぼしています。

後に起こる閔妃暗殺により大アジア主義は決定的に潰されてしまいますが、明治政府は当初から大陸と共同するつもりがなく、意図して大アジア主義を潰していたのだと思います。「重野安繹と川田甕江の論争」や「久米邦武事件」でそのことが学界に周知されることになりました。大アジア主義に拠って意見をすると職場を追われるという前例となったのです。


戦後の話を少しします。
日本は戦争に負けてしまいましたが、国家神道は生き残り今日に至ります。いまでも日本の国史は日向族の天孫降臨神話から始まります。なぜでしょう。なぜ国民が真実を知ることを許さないのでしょうか。誰が日本国民が真実に触れることを阻んでいるのでしょうか。日鮮同祖論との関係という観点で、数名わたしが気になっている人物を取り上げたいと思います。

まず、三笠宮崇仁親王。


下でもまた触れますが、三笠宮崇仁親王がとんでもない爆弾発言をされました。「神武天皇の即位は神話であり史実ではない」と発言されたのです。皇族の発言ですから非常に重たいのですが、皇族の発言にも噛みつく国家主義者が沢山いました。赤い宮様なんて言われてますが、優しい方だったのではないかと思います。三笠宮崇仁親王は研修生として東大で歴史を学ばれた方です。三笠宮様はとても聡明な方で上で私が語ってきたような経緯を全て知ってるわけです。「真面目な学者ほど虐げられてきた事実がある」。それで、皇族として敢えて次の発言(下の引用)をしてくださったのだと思います。

1950年代後半から『紀元節』(神武天皇即位紀元に基づき、自身の父系祖先にもあたる初代天皇の神武天皇が即位したとされる西暦紀元前660年2月11日を「日本建国の日」とする)の復活への動きが具体的なものになってくると、考古学者及び歴史学者としての立場から「神武天皇の即位は神話であり史実ではない」として、「『神話』と『史実』は切り離して研究されるべき」と強く批判し、天皇の弟宮という身分でありながらも積極的に「紀元節復活反対」の論陣を張った。編著『日本のあけぼの』は、このときに刊行されたものである。このため「赤い宮様」と渾名された。

それから、梅原猛氏。
スサノオ縄文人説がその後どうなったかと言いますと、いまだに日本の学界に影響を与えています(なぜなら鳥居龍蔵はいまだに再評価されないままだからです。鳥居の場合、神道の起源の深層を知る重要人物につき、日鮮同祖論に与したということが過剰に喧伝されて歴史から消されているのではないかと考えています)。ただ、学界の外からスサノオ縄文人説はインチキだと主張する人たちがいました。梅原猛氏は有名。


この方は哲学者ですが、思いっきりメディアで反スサノオ縄文人説をやっていた人で、かなりヤバい人だと思われていました。日本では真実を語ると変人扱いされてしまうのです。同調圧力(忖度)というのは恐ろしいですね。日本の学界は、真実を語ることが悪とされ、嘘を語ることが正義とされるおそろしい所です。日本は戦争に負けてしまいましたが、明治の頃からこういう部分は全く変わらず踏襲されているのです。なぜでしょう?どうして戦争に負けたのに、相変わらず国家神道という明治期にできた新宗教が日本の宗教なのでしょうか。どうして、戦前の事件(久米事件)などを踏まえて、事実に基づいた国史を編纂しないのでしょうか。

GHQは国家神道に問題があることに気が付き神道指令を出しましたが(再編事業も潰しました)、天皇制の存続と同時に、実体として国家神道を存続させてしまいました。アメリカは頭のいい国なので無駄なことはやりません。つまり、また日本人を人間の盾にすることが出来るように、そのあたりは大目に見たということなのでしょう。政治の話はまた後でしますが、戦後は意図的に日本と朝鮮半島を対立させる工作が行われていますので、結局のところ、アメリカからみても国家神道を存続させるほうが都合がよかったのでしょう。そのような流れの中、結局、神道の神様が「韓神」に戻ることはなく、各地で「韓神の社」がどさくさ紛れに取り壊されることになりました。戦前は英国による、戦後は米国よる朝鮮半島との分断工作によって、日本の本来の神様は奪われ、消し去られたと考えることも可能かと思います。彼らにとって日本は、戦前はロシアの脅威を防ぐため、戦後は共産主義の脅威を防ぐための盾として機能しているのです。


ちょっと脱線したので話を戻します。
梅原は哲学者です。哲学者がなぜ隠蔽された日本の歴史にかみついたのでしょう。哲学に興味のない方は知らないかもしれませんが、哲学は人類学と連動していている学問なのです(といいますか、基本的に哲学はあらゆる学問と連動しています)。なので、人類学に信頼がおけないと、梅原のような哲学者は当時仕事にならなかったのではないかと思います。特に、当時は哲学者が人類学を非常に重視していた時代(構造主義哲学の時代)でしたので、日本の歴史に嘘があることで、哲学者として非常に困ったのではないかと思います。見過ごせなかったのでしょう。

専門家界隈は梅原を専門外の人間が適当なことを言うなと批判したのですが、当時は構造主義哲学(社会構造を人類学や言語学の知見を応用することで解明しようとした哲学)の見地から哲学者がいろんな分野に口を出すと言うことが多々ありました。レヴィ・ストロースがしたような仕事を、本来は人類学者がちゃんとやってくれないと日本が哲学という分野で取り残されるという危惧があったのではないかと思います。特に梅原は京都学派(脱西欧主義が特徴)の哲学者でレヴィ・ストロースが主導した構造主義哲学との親和性が高かったのです。おそらく、西欧中心主義を脱して東洋思想の重要性に目を向けてほしいと考えていたのだと思います。

梅原猛は吉本隆明と懇意にしていたようです。吉本隆明も哲学者です。吉本隆明は途中で哲学に転向した人物ですが、この人も何かにつけていろんな問題に口を挟んで専門家から文句を言われた人です。梅原猛とよく似ています。そもそも哲学者は色んな分野に口をはさんで文句を言うのが仕事なのですが、日本ではそういうことをする人が疎ましがられるのです。

吉本隆明は「共同幻想論」の著者として有名です。ここで少しだけややこしい話をしようと思います。
吉本隆明の「共同幻想論」は、構造主義人類学の観点を取り入れた思想書です。構造主義哲学というのはそれまで主流だった実存主義哲学を人類学や言語学の観点を用いて批判的に乗り越えようとした哲学です。個人の認識構造を解明しようとする学問から、社会(共同)の認識構造を解明しようとする学問へと主題が移った、というようなイメージでよいかと思います。ただ、吉本隆明の「共同幻想論」は非常に奥の深い思想書で、ポスト構造主義(構造主義を乗り越えようとした哲学)の観点を先取りしていて実存主義的観点と構造主義的観点を上手く調和(止揚)させようとしています。吉本は、国家を、単なるルール体系ではなく、共同体が抱く幻想だと論じたのです。

吉本隆明の「共同幻想論」の趣旨は、今振り返ると、私はブルデューの文化資本という概念を使うとより上手く説明できるのではないかと思います。たとえばネトウヨとか、ネトウヨじゃなくても、それこそ何も考えてない普通の日本人が漠然と抱いている国家観を、吉本は幻想という言葉で表現するのですが、この幻想というのは、ようするに、国家への無意識的な性向(依存)を意味していて、この感覚が、学校なんかで国家から自覚のないままに植えつけられているんです。ようするに、国家というものが、なんとなく、当然あるべきものとして無意識的に受け入れられているということです。このあたりはみなさんそうだと思いますが、ちょっとそこを疑ってほしいということなんです。

重要なところなのでもうちょっと話を進めますが、このあたりは、ガルブレイスの言った依存効果で説明した方がわかりやすいかもしれません。ようするに、人間に備わる欲望の生成メカニズムが悪用されて、自覚のないままに、国家に仕向けられてしまうということを言ってるんです。その結果、身体的な依存が起きているんです。ポテトチップスがやめられない、チョコレートがやめられないというのと同じです。無意識に嗜好が植えつけられているんです。実は言葉も同じです。例えば、みなさん、日頃だれかと意思疎通をするのに言葉を使いますが、言葉を使うことについて、ほとんどの人は疑問を抱くことはありません。言葉が悪いものだなんて疑っている人はほとんどいません。でも、人類は脳を獲得し言葉を操ることができるようになることで生態系の法則(自然状態)から大きく乖離を始めました。ここでは、言葉を国家に置き換えてみます。国家というのは、本来は観念的な言葉で、現実には存在しません。わかりますかね?日本人と朝鮮人は本来同じ民族というのが日鮮同祖論で、それが事実なら、日本とか韓国とか、そういう国家というのは、それこそ歴史の流れからたまたま生じた便宜的(恣意的)な枠組みみたいなもので、単なるルール体系なわけですが、吉本隆明は国家とはそういうものじゃないと言ってるんです。

ようするに、言葉と同じなんです。言葉も単なる音や文字であって観念的なものですが、でも、もう共同体の営みとして使わざるを得ないし、当然あるべきものとして存在しています。この状況は、言葉に依存し、逆に言葉によって支配されていると言ってもいいような状況なんです。つまり、言葉というのは共同体と不可分の関係にあり、実は身体的なものなんです(チョムスキーの現代言語学はこの観点を取り入れている)。ですので、ソシュールが言ったように、言葉が恣意的で構造的な差異の体系という捉え方だけをしていると見誤ると思います。それで、このような状況を、依存とか中毒のような概念で捉えていることが重要なんです。例えば、日本語を上手く使える人と、上手く使えない人がいますが、私たちは何も考えていないと日本語を上手く使える人の方が優秀だと考えてしまいます。でも、上手く使える人は、これは依存の度合いが進んでいると捉えることもできるわけです。シンプルに考えて下さい。記憶にあるものは、本来は忘れてゆくものなんです。それで生態系の調和は保たれているんです。でも、人間が脳を獲得してしまったように、いつまで経っても言葉を忘れない人が出てきはじめる。それで、忘れない人ほど優秀な人と捉えられるようになる。結果、恐ろしいスピードで社会がシステム化され、みながシステムに隷属するだけの単なるプログラムのようになってしまっています。なぜいつまで経っても忘れない人のほうが優秀なんでしょうか。実はこのような観点で物事を捉えることに、人類誕生の究極の謎(言葉の発生の謎)を解くカギがあります。

実は哲学の分野では、実存主義以降、構造主義も、ポスト構造主義も、一貫して文明批判を展開しているのですが、通底しているのは、人間を劣化していると捉える観点です。今の哲学の世界では、人間を進化ではなく劣化していると捉えているんです。このような観点のなかった方には信じがたいかもしれませんが、哲学の分野ではこういう観点を前提で議論をすすめているということは知っておいてほしいと思います。私たちは、実は、進化ではなく、劣化していて、滅びの途中にあるという観点です。哲学に触れたことのない人は、世の中が技術革新によってなんとなく進歩しているように捉えがちですが、哲学の分野ではまるで反対方向の議論がおこなわれているんです。

それで話をまとめますと、劣化の過程で言葉が生まれ、国家が生まれ、それで今日、一般大衆は国家への依存がもう身体的な中毒になっていて抜け出せないんです。ネトウヨとか、このような観点のない一般的な日本人は、もう疑うことができないんです。お酒と同じです。アルコール中毒を国家中毒とか言語中毒に言い換えてみて下さい。それで、どんどんアルコールの量が増えていて依存が強まっているんです。それが今なのです。国家や企業にとって有利な環境に作為的に慣らされてしまって、好き勝手に操作されてしまうということです。「朝鮮人」という言葉にものすごい拒否反応を示す人が沢山いるのは、ようするに身体的な中毒症状で、それは国家によってそう仕向けられていて、なかなか簡単には抜け出すことができないということです。それで結局、日鮮が同祖であるとか、神道の起源がどこにあるのかとか、そもそも私たち日本人がどこからきてどこへいこうとしているのかという根源的な問いについて、あいかわらず人類学や哲学といった学問分野の研究者が正面から取り組むことができていないのです。

話を戻しますと、梅原の時代は、進化という観点で物事を捉えるのはもしかしたら間違えているんじゃないかと気が付き始めた時代で、哲学を人類学と連携させて社会構造の本質(共同体の意味)を見極めようと模索していた時代でした。日本は今でもこういうことすら全くできていないので絶望的なのですが、このことが本質において日本という国を完全にアホな国にしている元凶です。これが日本という国の元凶ですので、少し難しい話だとは思いますが、敢えて脱線して説明しました。ようするに、近視眼の専門バカ(専門分野以外に目を向けない学者)が多くて違う分野の学と連携できないのです。哲学者は人類が劣化しているのではないかと疑っているのに、ほとんどの学問分野の学者は、イノベーションだとか、経済成長だとか、そういう言葉を疑うことができず、進歩観念に囚われているのです。本当に恐ろしいことだと思います。認識が180度違うのです。この記事のテーマでもありますが、この国にはとにかくタブー(禁忌)が多すぎて、それで真面目な議論が学際的にできないんです。

禁制論
個人がいだいている「禁制(タブー)」の起源は、じぶん自身にたいして明瞭になっていない意識からやってくる。〈黙契〉では、人は共同体の中で怖れや崇拝を対象にした時に、その人の意識が共同体から赦(ゆる)されてなれ合っている。それに対して〈禁制〉では、人はどんなに共同体の内部にあるようにみえても、神聖を強要され、その人は共同性から全く赦(ゆる)されていない。

吉本隆明「共同幻想論」より一部抜粋

以上で、ちょっと長くなりましたが、梅原猛の話を終わります。

次に、宮地正人氏。この方は歴史学者です。この方は神話の中身がどうこう言ったわけではなく、植民地支配がそもそも間違いだったと言って運動していた方です。

左派系歴史学者として知られ、歴史学研究会編集長、歴史科学協議会代表委員、日本歴史学協会学問思想の自由・建国記念の日問題特別委員長などを務めた。国旗国歌法、新しい歴史教科書をつくる会の教科書、沖縄戦集団自決の教科書記述削除などに反対するアピールや要望書に名を連ねてきた。
九条の会賛同者。植民地支配の完全な清算と歴史認識の共有をめざす「併合」100年日本委員会呼びかけ人でもある。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』宮地正人より一部抜粋

おかしいことにおかしいと声を上げるのは大切だと思います。これは知る者の義務だと思います。その行動が素晴らしいというよりも、わたしは学者の義務だと思います。解釈が間違えていたことが長い年月を経て受け入れられるということはあると思いますが、それは誤認や錯誤があった場合に限られるべきだと思います。学者が知っている事実を隠しておいて、それがいつのまにか真実になることを狙うのはおかしすぎます。最初から御用学者になることが目標ならやればいいですが、いずれこの世から去ってしまう人間として生まれてきて、そのような生き方ができてしまう人がいることがちょっと信じられません。そんなことをしたいなら文科省の官僚にでもなればいいのに。わたしは、学者の倫理崩壊をこんな状態になるまで放置してきたから、国民の八割もが毒のワクチンを打たされてしまったと思います。知識を持つ人がその義務を果たさないことが、最終的に大変な惨劇をもたらすと思います。

宮地正人のウィキペディアを見ると「左派系」と書いてあって面白いと思います。実は、この宮地正人のような人がもともとは保守で右派なんです。(※ウィキペディアは誰でも編集できるので、どのような記述であろうと、その時々の「世相」を理解するという意味では結構重要なのではないかとわたしは考えています。したがって、この記述について批判しているのではありません。)

後でまた説明しますが、明治期に右翼が結成された当初は、そもそも右翼は大アジア主義を掲げてアジア諸国が同じ立場で協調することをめざしていました。アジア諸国が団結することで帝国主義に対峙しようとしたのです。ですので、隣国と仲良くしようとする行為が左派というのは本来おかしいのです。今の時代、そもそも保守が生まれた時にどういう考えを持っていたのか、とか、神道とは本来どういう宗教だったのか、とか、そういうことをまるで知らない人ばかりですが、日本人は学校で教わる内容についてもうちょっと疑問をもったほうがいいと思います。「学校で教わることは半分は嘘」、くらいの感覚で臨む方がよいのではないかと私は思います。


それから重要なことは、この方が東京大学史料編纂所所長や国立歴史民俗博物館館長をされていたということです。実は、東京大学史料編纂所の前身は修史事業で国史の編纂を担当した修史館なのです(太政官内に設置された)。その修史館が、上ですでに説明した重野安繹と川田甕江の論争の後、東京大学史料編纂所になったのです。重野安繹が東大を追放され、川田甕江が東大教授になったわけですが、そのことと同時に、川田甕江の希望通り修史館が史料編纂所になったのです。そのような経緯で設立された東京大学史料編纂所の所長だった歴史学者が、日鮮同祖論に基づき強行した侵略(植民地化)は間違いだったと言っているわけですから、これは非常に勇気のいることで、学者としてはあるべき姿ではないかとわたしは思います。

沿革史料編纂所の起源は、1793年(寛政5年)に開設された塙保己一の和学講談所とされる。明治維新後、史料編輯国史校正局、大学校国史編輯局、太政官歴史課、臨時修史局などと変遷している。1888年(明治21年)、帝国大学(現:東京大学)に修史事業が移管されるが、のちに編年史の編纂は中止と決まり、代わって蒐集した史料自体を編纂・刊行することになり、1895年(明治28年)文科大学(現:文学部)に史料編纂掛が設置される。1901年(明治34年)に「大日本史料」「大日本古文書」の刊行を開始、現在まで事業が続けられている。1929年(昭和4年)に史料編纂所と改称。戦後は、1950年4月に文学部から独立し、1954年より教授・助教授(現在は准教授)・助手(現在は助教)の教官制となった。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』東京大学史料編纂所


それから、宮崎駿氏。
最初の項で宮崎駿三部作に込められた意味を説明しました。映画「もののけ姫」に込められた「共に生きよう」というメッセージは、芥川龍之介が「桃太郎」という作品に込めたメッセージと同じです。ファンタジー(或いは文学)という手法を用いて、視聴者(或いは読者)と問題意識を共有しようとしているのだと思います。したがって、視聴者は、モデル的な視聴者となって作者の意図をしっかりと汲み取り、ひとりひとりが社会の調和を図るべく努力すべきだと思います。

それから、これは余談ですが、児童文学の作家として有名な上橋菜穂子さんは、宮崎駿と同様の試みをしているのではないかとわたしは考えています。上橋菜穂子さんも国家による歴史の隠蔽を度々作品のテーマにされていますが、上橋さんも日本史の解釈に疑義を呈されているのではないかと思います。ただ、上橋さんの作品はテーマが国家による歴史の隠蔽とストレートなので、逆に、作品の要素から日本的なものを排除しているのではないかと思います。(もちろん、私の勝手な推測です。)


もうちょっと続きます。

青谷上寺地遺跡という今非常に注目されている遺跡があります。

もはやだれもが存在を信じて疑わない隠蔽された古代王朝である出雲王朝について、研究者がどのような見解を述べるかが注目されていたのですが、これも結局、なんだかよく分からないことを言い出している感じになっています。「出雲大社境内遺跡」が出た時と同じではないでしょうか。意味がよくわからない難しい話を始めて煙に巻いて忘れ去られるのを待つ戦法です。

そんなことをしている最中に、ドイツの国際調査団による調査の結果が出たのです。この調査結果は、文化の伝播の起点が遼河流域あったことを示しているわけですから、スサノオ縄文人説は否定されたことになります。それに基づく日鮮同祖論も詭弁だっと言われているようなものなのです。大変なことが起きてしまったのです。海外から、日本の国史は嘘、日本の学者は嘘付きだと言われているのと同じ状況なのです。本当に恥ずかしいことです。結局、鳥居龍蔵が正しかったのです。私は、「固有日本人説」を含め、鳥居は日本民族の起源をかなり正確に捉えていたのではないかと考えています。鳥居は神道の起源もこのあたりではないかと踏んでいました。だからこそ、「固有日本人説」を提唱し、教科書の記載もそのように変えるべきだと主張したのです。

国体の根幹にごまかしがあることが、この国の社会構造に多大な影響を与えています。このことに対し国民がなにも疑問を抱かないことは恥ずかしいことですが、そもそも作為的に「今」に慣らされてしまって、疑問を抱くことすらできないのです。現状、このような状況ですので、この国では何かにつけ自分で調べないと真実を手に入れることが出来ません。そして真実を手に入れることができたとしても、周りはその真実にまるで無関心という状況なのです。でも、明治期にはちゃんと喧嘩をしてまで真実を主張しようとした学者がいたということ知ってほしいと思います。

この項目はこれで終わります。




日鮮同祖論と征韓論

征韓論については、西郷隆盛の逸話などやたらと詳しく知ってる人がいるのですが、私はよくわからないことが沢山あって上手く書ける自信がないです。陰謀論を羅列して細かな事実関係をあれこれ検証しても意味がないので、やはり、重要なキーワードである日鮮同祖論との関係を検証しながら、私なりに語ってみたいと思います。

そもそも、征韓論は非常に有名ですが、より重要な意味を持つ日鮮同祖論についてはほとんど知られてません。これがそもそも変です。
時系列的には征韓論(1875年江華島事件)の方が前です。日鮮同祖論(1910年日韓併合)が後。わたしはこれがそもそもおかしい気がします。
日鮮が同祖だから征韓すべきという主張なら論理的につながるのですが、江華島事件(征韓論における最初の攻撃)以降、侵略を開始してから日鮮同祖論を主張しているのです(上でも言いましたが、日鮮同祖論自体は明治より前からあったものです)。つまり、侵略の過程で論理に一貫性がないのです。これは絶対不自然です。なぜなら江華島事件は完全に言いがかりのような事件だったからです。なぜ論理に一貫性がなかったのでしょうか。

学校では征韓論が生まれた理由について李氏朝鮮が明治政府の国交回復の申し出を失礼な態度で何度も断ったからだと教わります。この話に西郷やら偉人を絡めていかにも日本の主張が正しかったように誘導するのですが、おかしな話です。国交するかどうかなんてその国が決めることです。

当時もそうでしたが、戦後もメディアを使って明らかに意図的に明治維新の美化、それに関わる登場人物の英雄化、征韓論の正当化が行われています。でも、その一方で日鮮同祖論は隠蔽されている。おかしいと感じるのは、侵略当時、日鮮同祖論も正当化に使われていたのですから、戦後においても征韓論を正当化するなら、同じように日鮮同祖論も戦後において正当化すればいいはず。でなければ論理に一貫性がない。

でもこれはすでに述べたように出来ないんです。
戦後日本と朝鮮半島が意図的に分断されているからです。それに、そもそもスサノオ縄文人説を採用した日鮮同祖論(神道に縄文人要素を加味した国家神道との整合を図った同祖論)はトンデモ論だし、皇統の正統性に疑義を生じさせる端緒となりかねない。つまり、戦後の流れを正しく評価するなら、相変わらず朝鮮侵略を正当化しながら、都合の悪い日鮮同祖論は隠蔽されたということでしょう。戦後、日鮮同祖論が戦後民主主義という論調の中で批判されたという見解もありますが、大局としてみれば誤りで、批判されたのではなく隠蔽されたのです。日鮮同祖論というキーワードを軸に戦前から今日までを振り返ると日本の政策はブレブレです。こんなトンデモ論を隠蔽して今日まで侵略を正当化しているのです。

話を戻します。
何度も言いますが、日本は完全に言いがかりで江華島事件(最初の侵略行為)を起こしています。国交正常化しないから攻めて良いなんていう道理は完全におかしいです。それに、異常に屁理屈が多い。学校では屁理屈を習いますが、私が行っていた大手塾では、侵略したくて因縁をつけたとさらっと習いました。屁理屈が多すぎる点もかなり変です。屁理屈を多用するなら、なぜ日鮮同祖論を持ち出さなかったのでしょう。何度も言いますが、征韓論は時系列的に韓国併合よりも前ですので、征韓論に日鮮同祖という理屈が入ってないのはおかしい。

当時は殺しのエージェントである岩倉が暗躍し(外国人嫌いの孝明天皇や三条実美を暗殺した説がある)、大久保が西郷を嵌め、最終的に西南の役が起き征韓論ではなく遣韓論を主張しただけの西郷が自刃に追い込まれました。どちらかというと融和政策を考えていた西郷が失脚したのです。なんだかよくわかりません。なぜこんなことになったのでしょう。日鮮同祖論と征韓論の関係をどう捉えればいいのでしょうか。

ポイントは、政局の混乱や修史事業のもたつきといった日本国内の事情というより、英国が日本を使ってロシアの南下政策をどのようにして防いでいこうとしていたのか、という観点で見ることではないかと思います。実は日本とウクライナは同じ地政学的立場で、日本は対ロシア南下政策の東の砦です。ウクライナは西の砦です。これは重要な観点ですので世界史の授業でもしっかり勉強するところです。

少し話がそれますが、私はこの観点が映画「風の谷のナウシカ」の原案のひとつになっているのではないかと考えています。つまり、宮崎駿はウクライナを描くことで日本を描いているということです。だからウクライナを舞台にしながら、日本の神話と絡まったアニメになっているのではないでしょうか。ようするに、映画「風の谷のナウシカ」は明治期の日鮮同祖論に関連する問題が原案の一つである可能性があるのではないかということです。(ここまで話すのに長文を要してしまいました。私は以前からこの直観をもっていましたのでここまで話を繋げてきました。)

当時日本が置かれていた状況を理解するには、当時の世界の状況を理解する必要があります。つまり、当時、「いち早く産業革命を成し遂げ近代的な資本主義を成立させた大英帝国が、それに対抗しようとするロシアの南下政策を防ぐために(インド、中国との搾取貿易の権益を守るため)、日本を人間の盾にしようとしていた」という理解です。これに、当時中国の冊封体制下にあった朝鮮をどうやって横取りしていくか(どう支配して対ロシアの盾にするか)、という観点が加わります。満州もですね。ようするに、英国とロシアの喧嘩に巻き込まれた、という視点です。

ここで、なぜ当初から日鮮同祖論を主張しなかったか、という話に戻りすが、とりあえず、考えられること羅列してみます。

・戦争マーケティングとしての日鮮同祖論の利用が遅れたというだけ?
・そもそも、当初、日本政府は日鮮同祖論を重要視しておらず、利用する気がなかった?
・日本政府は実は日鮮が同祖という主張をしたくなかった?
・政府内の派閥争いで忙しく、論理的にものを考えることができなかった?
・江華島事件1875、日清戦争1894・三国干渉1895以後、国際社会から地政学的に緩衝地帯にある朝鮮半島の動向が注目されはじめており、ケチをつけられないように急に理論武装した?
・国際法が厳しくなった?
・萩という町は朝鮮人陶工の街でもありました。もしかして、朝鮮から見捨てられて恨みを持っていたので、同祖などとは主張したくなかった?(でも、逆に同祖を主張することも可能)

よくわりません。でもまあ、上に列挙した仮説のいくつかが複合的に関係しているのでしょう。(わかりませんが)


このあたりの事情の謎を解くカギのひとつが吉田松陰の「幽囚録」ではないかと思います。これは朝鮮征服を含む征亜論です。この予言の書として知られる吉田松陰(1830~1859)の「幽囚録」が書かれたのは、時系列的には明治維新よりも前です。

幽囚録 → 明治維新 → 征韓論 → 日鮮同祖論 という流れです。

国際的なイベントを考慮すると、

アヘン戦争 → 幽囚録 → 明治維新 → 征韓論 → 日清戦争・三国干渉 → 日鮮同祖論 → 韓国併合

ウィキペディアの『幽囚録』の記載です

『幽囚録』で「今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と記し、北海道(当時の蝦夷地)の開拓、琉球王国(現在の沖縄県。当時は半独立国であった)の日本領化、李氏朝鮮の日本への属国化、そして当時は清領だった満洲や台湾・「スペイン領東インド」と呼ばれていたフィリピン・ロシア帝国領のカムチャツカ半島やオホーツク海沿岸という太平洋北東部沿岸からユーラシア大陸内陸部にかけての領有を主張した。その実現に向けた具体的な外交・軍事策を松陰は記さなかったものの、松下村塾出身者の何人かが明治維新後に政府の中心で活躍したため[注 9]、松陰の思想は日本のアジア進出の対外政策に大きな影響を与えることとなった。


「幽囚録」にも日鮮同祖論は出てきません。
この方、1859年に29歳で亡くなられました。
予言の書と呼ばれるだけあって私もこの記述は具体的すぎると思います。にもかかわらず日鮮同祖論は出てきません。琉球は説得して、朝鮮は責める?
原文を再度チェックしてみます。

原文
日不㆑升則昃、月不㆑盈則虧、國不㆑隆則替、故善保㆑國者、不㆓徒無㆒㆑失㆓其所㆒㆑有、又有㆑増㆓其所㆒㆑無、今急修㆓武備㆒、艦略具、礮略足、則宜開㆓‐墾蝦夷㆒、封㆓‐建諸侯㆒、乘㆑間奪㆓加摸察加隩都加㆒、諭㆓琉球㆒朝覲會同比內諸侯、責㆑朝‐鮮納㆑質奉㆑貢、如㆓古盛時㆒、北割㆓満州之地㆒、南牧㆓台灣呂宋諸嶋㆒、漸示㆓進取之勢㆒、然後愛㆑民養㆑士、慎㆓守邊㆒、固則可㆑謂㆓善保㆒㆑國、矣不然坐于群夷爭聚之中、無㆓能舉㆑足揺㆒㆑手而國不㆑替者其幾與、

読み下し
日は升のぼらざらば則ち昃かたむき、月は盈みたざれば則ち虧かけ、國は隆さかんならざれば則ち替すたれる。故に善く國を保つ者は、徒いたずらに其れ有る所を失うこと無からず、又た其れ無き所を増すこと有り。今ま急に武備を修め、艦略具そなえ、礮略足らし、則ち宜しく蝦夷を開墾して、諸侯を封建し、間に乘じて加摸察加カムチャッカ隩都加オホーツクを奪かちとり、琉球を諭し朝覲會同し比ひして内諸侯とし、朝鮮を責め、質を納め貢を奉る、古いにしえの盛時の如くし、北は滿州の地を割わり、南は台灣・呂宋ルソン諸島を牧ぼくし、漸に進取の勢を示すべし。然る後に民を愛し士を養い、守邊を愼みて、固く則ち善く國を保つと謂うべし。然らずんば、群夷爭聚の中に坐し、能く足を擧げ手を搖らして國の替すたれざる無き者は、其れ幾あやうき與かな。

現代語訳

日は昇らなければ沈み、月は満ちなければ欠け、国は繁栄しなければ衰廃する。よって、国をよく保つ者は、有る領土をむなしく失わないだけではなく、ない領土を増やすのである。今、急いで軍備を整え、海軍の計画を持ち、陸軍の計画も充足すれば、すなわち北海道を開拓して諸侯を封建し、間に乗じてカムチャツカ半島とオホーツクを取り、琉球を理によって説得して国内諸侯のうちとし、威力をもって朝鮮に質を納めさせ、貢を奉らせていた古代の盛時のようにし、北は満州の地を分割し、南は台湾とルソン諸島を治め、しだい進取の勢いを示すべきだ。その後、住民を愛撫し、国土を養い、辺境の守りに気を配って、つまり堅固によく国を維持するといえるのだ。そうでなく諸国民が集まって争っている中で座りこみ、うまく行動することがなければ、国は㡬らかのうちに廃れるのだ。

ウィキソース/吉田松陰「幽囚録」より一部抜粋

やっぱり琉球は説得して朝鮮は責める(貢を奉らせる)と書いてある。
おかしいですね。日本はこの後、日琉同祖論と日鮮同祖論を同時に主張しはじめます。つまり、最初は朝鮮を責めるつもりだったけど、どこかで方針が変わって、朝鮮も説得することにした。(沖縄(琉球)が別の国だったことを知らない方がたくさんいるのですが、日本は沖縄と韓国をこの時期に併合しました。)

私は松陰と英国は連動していたと思うので、英国の方針が変わったのではないでしょうか。つまり、韓神が日本の本当の神様だと英国が気付くのが遅れたのではないでしょうか。英国のスパイはこの頃やたらと日本の神話や国史を調べまくっていた。それで日本と朝鮮の歴史的な関係を理解するに至り、それを政策に反映した。それが日鮮同祖論だった?わかりません。でも、結局のところ政策に盛り込むのが遅れたのではないでしょうか。
それについて検証するために当時の英国の状況を見ていきます。

有名な長州五傑の説明を見てゆくところから始めたいと思います。だらだらと長い文章になりますので、最初にこの時代の大きな流れを言っておきます。

英国で資本主義が発展 → 金融資本の誕生(帝国主義と連携)→ インド・中国との三国貿易 → 英国によるロシア南下政策の阻止(今のウクライナあたり) → 次にロシアが極東から南下してこようとしたので阻止(明治維新→日露戦争→日韓併合→満州国建設)

最初に、そもそも論を少し説明しておきます。ロシアがそもそも南下政策を始めた理由は、英国で興ったような産業革命をロシアでも興したくて、そのための資金を調達するために、小麦を輸出することが出来る不凍港(凍らない港)が欲しかったからです。つまり、ロシアはそもそも侵略目的で南下してきたのではありません。資金調達のために麦を売りたかったんです。でも、ロシアをライバル視していた英国はなんとしてもそれを阻止したかった。つまり、日本は、ロシアの南下を食い止め世界の覇権を単独で牛耳りたかった英国の防衛戦に組み込まれてしまったのです。(この観点は世界史の授業でも必ず習う重要なポイントです。)

下の引用が長州五傑の説明です。これから見ていきます。

ウィキペディアの長州五傑から一部抜粋

長州五傑(ちょうしゅうごけつ)は、江戸時代末期(幕末)の1863年に長州藩から清国経由でヨーロッパに派遣され、主にロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに留学した、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)の5名の長州藩士を指す。

駐日イギリス領事であったエイベル・ガウワーや、ジャーディン・マセソン商会(横浜・英一番館)のウィリアム・ケズウィック(創業者ウィリアム・ジャーディンの姉の子)、武器商人のトーマス・ブレーク・グラバー(グラバー商会)らの協力を得て成し遂げられた。イギリス留学中は、ジャーディン・マセソン商会創業者の一人ジェームス・マセソンの甥にあたるヒュー・マセソン(英語版)(マセソン商会社長、ジャーディン・マセソン商会取締役)が世話役となった。

この5名はロンドン大学において長州ファイブ(Choshu Five)として1993年に顕彰碑が建てられており、そのことを知った西日本国際交流推進協会が「地元にも顕彰碑を」と運動した結果、2003年に山口市に顕彰碑が建てられた。

マセソン商会は、当時は国策会社と大して変わりません。前身は東インド会社です。ここが当時、英国による東アジア侵略の尖兵を担いました。長州藩はその日本代理店で武器商人でもあったグラバーから支援を受けていました。グラバーは坂本龍馬を使って仲の悪かった薩長を和解させ、薩摩藩から長州藩に武器を流すことに成功し、薩長を討幕へと駆り立ててゆきました。当時、幕府に目をつけられていた長州藩はグラバーから武器を買うことを禁止されていたのです。

坂本や長州五傑のメンバーはフリーメーソンだったと言われていますが、私は詳しく知りません。ただ、マセソン商会や巨大通信社・ロイテルの上にいたのはロスチャイルド家です。別の記事でも書きましたが、イギリスでは農奴の解放に伴って貨幣経済が浸透し(百年戦争、バラ戦争によって封建領主が没落)、株式会社が発達、巨大金融資本が生まれ、資本集約型の産業が可能になり工業化に成功し、産業革命が興りました。その過程で金融資本が力を持つようになり、金融資本が産業を支配する構造が出来上がりました。

近代的な資本主義においては、お金の貸し借りや株式の売買が効率的に行われるようにするための金融システムが産業発展の基盤となるため、金融資本が力を持つのは必然です。その金融資本が帝国主義や重商主義と連動しながら、傘下の企業を通じてアヘンや武器を売ったり、メディアを支配していったんです。この辺りは陰謀論のように面白おかしく語られますが、普通に考えれば必然的にそうなると理解できます。決して陰謀論ではありません。当たり前の話をわざわざ陰謀論のように話して真実を相対化する連中がいるだけです。世界史をしっかり勉強してないだけだと思います。

明治維新以降、日本も中央銀行(日銀)を設立して近代的な金融システムを構築し、近代的な資本主義の発展を国策として促しました。殖産興業が工業じゃないのは金融業も入るからです。近代国家の建設において一番重要なことは、中央銀行の整備など、金融システムの構築なのです。その際、他国の金融システムの重要部分に入り込んでいくこと、これこそが英国金融資本による世界支配のテクニックであり大英帝国が最強になった理由でもあります。陰謀論でも何でもないです。彼らは普通に頭がいいだけです。設立経緯から日本銀行に関与しているのもある意味当然で日本人がだらしないだけです。そもそも、極東の武士道社会がアングロサクソンの金融論理に無理やり合わせているのですから、こうなってしまうに決まっています。

世界に先駆けて近代的な資本主義を成立させ精緻な金融システムを築き上げた大英帝国が、世界中を植民地にして傀儡の国民国家を築き、金融システムの主要部分を押さえて国際金融資本として君臨しているのはある意味で必然です。国際金融資本による世界支配を陰謀論のように言うものも間違えていますし、国際金融資本を悪者のように言うのも間違えています。このような流れは歴史の必然なんです。貨幣経済の発生と発達がもたらした必然です。要するに、早い者勝ちなのです。いち早く効率的な金融システムを整え、近代的な資本主義を確立し、それで国際金融市場を支配したものが勝ち。こういうことなんです。ロシアへの金融制裁に使われたSWIFTというのは他国との間で決済を行う際に使うルール(プロトコル)ですが、こんな基礎的なものが一部の国々の恣意的な裁量で突然使用できなくなったりするんですから、国際金融システムがいかに公平性を欠くものか分かると思います。

自らを省みることなく、なんでもかんでも陰謀論にするのは良くないと思います。搾取されるのが嫌なら日本人の性質に合った社会システムを自ら構築できるよう頭を使うべきだと思います。先の項目でも問題にしましたが、日本ではいまだに学問分野が縦割りになっていて、連携して社会構造を克服してゆこうという動機すら生まれません。後でまた話しますが、アーネスト・サトウはこのような日本人特有の体質を「服従の習慣」だと言いました。ようするに、家畜だと言われているんです。バカだから家畜にされたのです。巨大金融資本を悪者にしてる方はちょっと反省が足りません。この世界は早い者勝ちで、自由と平等は嘘です。彼らに植え付けられた美辞麗句を真に受けて、その植えつけられたロジックを用いて彼らを批判してるんだからお笑い草です。それに気が付かないことがもう終わっていますし、家畜の檻を飛び越えられない一番の理由です。

こういうことは非常に重要なことなのに学校では教わりません。社会に出てからなんとなくネットでワーワー言っている不勉強な陰謀論者に出くわして、この手の話を陰謀論だと思ってしまったら、すぐ目の前にある支配構造に一生気が付かない可能性があります。恐ろしいことです。自由と平等なんてウソです。最初から勝者と敗者がいるだけです。このような必然の流れの中で、どうすれば今の状況を必然として克服することができるのか、日本人はもっと連帯して真摯に考える必要があると思います。まずは自分の周囲に当然のこととしてあるもの、普通だと思い込んでるものを疑うことです。みなさんが日ごろ当たり前のように利用している銀行、それらが束になった金融システム、その上にのって動く経済も、よくよく考えてみるとおかしなことだらけです。そもそもみなさんが大前提にしている経済成長って、必要なんでしょうか?経済学は本来何を目指してきたのでしょう?そもそも貨幣とは、お金とはいったい何なのでしょう?私たちは実はこんな身近なところから問うことができていないのです。

この記事でテーマにしていることでもありますが、日本は隠蔽体質で且つ詭弁が異常に多い国です。だから何かにつけ自分で調べて検証してゆく必要があります。歴史を検証する際は、個々のイベントを点として捉えるのではなく、線として繋げていく必要があります。線として繋げてゆけば、農耕牧畜の誕生の末に、必然的に貨幣経済が生まれることも、資本主義の誕生が必然であることも、金融資本の誕生も、金融資本によって産業が支配されるのも、全て必然であることが理解できます。それから、なぜ奴隷制度が民主主義にすり替わり、自由と平等という詭弁を伴って世界に広まったのかも理解できます。民主主義は合法的な奴隷制度です。今の私たちに最も必要なのは、歴史を線で捉える視点と詭弁を見抜く論理性であり、必然として訪れるであろう未来を見抜く力だと思います。

ですからね、何でもかんでも陰謀論にして小銭を稼ぐのはもうやめた方がいいと思います。最近はそんな人しかいませんが、そうすることで、何もかもがシステマティックに相対化され、皆が本質を見抜けなくなるんです。そうすることで、私たちは自分で自分を追い込んでいるんですよ、家畜の檻に。この檻の中ではもう多くの物の価値がすでに記号の差異でしかないわけですが(ボードリヤール「シミュラークルとシミュレーション」)、そんな世の中の何が楽しいんでしょうか。与えられた人工的な享楽が、人工的なものだと、本当の享楽とは違うものだと、見抜けない人が増えれば増えるほど私たちはもう引き返すことができなくなるんです。皆さんが小銭に目がくらんで真実を面白おかしく相対化するほど、それで今を疑うことが出来ない人が増えれば増えるほど、社会として袋小路に嵌っていくんです。これが民主主義の意味です。


話しをもどします。
長州五傑を援助したのはマセソン商会。マセソン商会はもともと東インド会社ですので、かなり昔から日本にやって来ていたと思います。松陰はマセソンやイギリス公使らとどこかでコネクションがあったのではないでしょうか。
以下はアヘン戦争に至るまでの当時の英国のイベントです。

・1757年 広東貿易制度開始 ※中国清朝時代の管理貿易制度のこと
・1773年 イギリス東インド会社、ベンガル阿片の専売権を獲得 
・1797年 イギリス東インド会社、ベンガル阿片の製造権を獲得 ※この頃より、中国毒化開始
・1840年 アヘン戦争
・1859年 吉田松陰死去(当時29歳)

当時、英国は輸入超過(貿易赤字)に陥っていて貿易代金としてアヘンを使うようになりました。いわゆる仲介貿易というやつです。これで自国から資金が流出しないようにしたんです。英国は中国の毒化(アヘン中毒にすること)を始めて以降、中国を植民地化することを念頭においていたのではないでしょうか(インドのようにしてしまおうと考えてのではないでしょうか)。アヘン戦争は完全に言いがかりで始まっており、日本が朝鮮で起こした江華島事件とそっくりです。わざわざ因縁をつけたとしか思えません。侵略の足掛かりだったのです。

重要と思われる人物をまとめてみました。
ヤバそうな人ばかりです。誰がそうだとは言いませんが、完全にスパイでしょうね。この時代の人類学者や考古学者はみんなスパイです。日本だってそうでした。人類学者や考古学者というのは敵を知るための斥候なのです。本人が意図していなくてもそうなってしまうのです。ですのでスパイというのは言葉のあやです。

おそらく、彼らは日本の神話や歴史を研究する中で、日本と朝鮮における本当の事実関係を知ることになったのではないでしょうか。日鮮は実は同祖だと気が付いたのでしょうね。神道の神様が韓神で日本人が実は渡来してきた朝鮮人だと気が付いたのでしょう。金沢庄三郎は英国の学者とも交流があったようですし。それで日鮮同祖論というのが使えそうだという結論に至ったのではないでしょうか。あくまで推測ですが。

バジル・ホール・チェンバレン1850年10月18日 - 1935年2月15
イギリスの日本研究家。東京帝国大学文学部名誉教師。
『君が代』や『古事記』などの英訳。

ウィリアム・ジョージ・アストン1841年4月9日 – 1911年11月22日
英国の外交官。日本語、朝鮮語の研究者。1879年「日本語と朝鮮語の比較研究」、1896年『日本書紀』を英訳、1899年『日本文学史』、1905年『神道』。フリーメーソン。

サー・アーネスト・メイソン・サトウ1843年6月30日 - 1929年8月26日
『アーネスト・サトウ 神道論』
 ・古神道の復活(1874年、『日本アジア協会紀要』)
 ・古代日本の神話と宗教的祭祀(1878年、『ウェストミンスター評論』)
 ・伊勢神宮(1874年、『日本アジア協会紀要』)
『一外交官の見た明治維新』

サー・ハリー・スミス・パークス 1828年2月24日 - 1885年3月22日
1869年に『日本紙調査報告』 和紙を調べるなら陶器も調べるのでは。萩焼は朝鮮人が始祖。薩摩藩・長州藩と接近し、高杉晋作と会談したり、鹿児島や土佐を訪問するなどして幕府以外から情報収集。結果、倒幕・明治新政府樹立の政治路線に影響を与える。薩長を懐柔したのはこの人。グラバーも重要。

小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 1904年(明治37年)9月26日)
ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、英文学者。イギリスと日本の二重国籍。


次に、ロシアとの関係におけるイベントも補足。

1854年(嘉永7年)千島列島、全樺太島やカムチャツカ半島までも明記した「改正蝦夷全図」なる(加陽・豊島 毅作)。
1855年日本(江戸幕府)との間に樺太方面での国境を定めない日露和親条約締結。
1858年太平天国の乱とアロー戦争が同時進行で混乱した大清帝国との間で黒竜江北岸のロシアへの割譲と烏蘇里江以東の外満洲を清露共同管理地とするアイグン条約を締結。
1860年太平天国の乱とアロー号戦争で弱体化した大清帝国との間に、アイグン条約で共同管理地とされた烏蘇里江以東の外満洲のロシアへの割譲を決めた北京条約を締結、外満洲全土を獲得。不凍港のウラジオストクを得る。
1867年日露間樺太島仮規則を締結。
1875年樺太千島交換条約を締結。樺太全島がロシア領になった。
1877年露土戦争によってオスマン帝国に完全勝利。サン・ステファノ条約によりバルカン半島の覇権を握った。翌年に列強の圧力によりサン・ステファノ条約は破棄されるも(ベルリン会議)、セルビア、ルーマニアなどが、オスマン帝国から独立した。ただし全ての南下政策が終了した訳ではなく、バルカン半島のスラヴ民族の独立抵抗は継続され、これに欧州列強による帝国主義が関わり、衰退するオスマン帝国に対する東方問題、南下政策に代わるロシア帝国の汎スラヴ主義がバルカン半島の火薬庫として燻り続け、第一次世界大戦の伏線となる。
ヨーロッパにおける南下の限界を知ったロシアはアジアにおける南下進出を図る。アジアに対する南下政策は、すでに17世紀末からあった。シベリア遠征の結果、ロシアの勢力圏は1697年には太平洋まで達していた。これは直接的には、南下政策とは関係がなかったが、シベリア遠征が完了するとロシアの目は中国に注がれた。しかし当時東アジア最大の大国、清に阻まれている(ネルチンスク条約)。しかしアジアが弱体化した18世紀末以降、不凍港問題を解決するために、ロシアはインド、ペルシアに目を付け、当時海上覇権を確立しつつあったイギリスと衝突する様になる。19世紀末には中国北東部を拠点として朝鮮半島・中国中央地域支配をもくろむも、当時国力を高めつつあった日本の干渉により難航。
1891年、ウラジオストクから太平洋に進出するルートとなるシベリア鉄道が着工される。
1895年、三国干渉により、東アジアにおける第2の不凍港となる旅順租借地を獲得。
シベリア鉄道の全線開通が迫る1902年、大韓帝国の支配権をロシアと争う日本と、ロシアの海洋進出を恐れるイギリスにより、日英同盟が締結される。
1904年日露戦争が勃発し、ポーツマス条約によって日本に旅順と東清鉄道南満州支線(後の南満州鉄道)と南樺太を奪われ朝鮮進出も絶望的になると、中央アジア進出を積極的に行うようになった。

やはり日鮮同祖論の利用が遅れたんでしょうね。神道の研究が遅れたのではないでしょうか。(神道のことも英国人の方が日本人より詳しそうです。)いや、遅れたからこその日鮮同祖論なんでしょう。ロシアは、1891年にシベリア鉄道敷設開始。もう、英国には猶予があまり残されてなかった。日本と朝鮮を代理戦争させる時間的余裕もなかったし、戦争なんてやって朝鮮の国力を落としたくなかったのではないでしょうか。できたら、そのままの国力でロシアにぶつけたかった。

英国が日本を懐柔したのもそれが理由ですからね。日本と朝鮮を戦争させて互いに体力を消耗させると対ロシアの盾にならなくなる。それで1904年に日本人は思いっきり人間の盾としてロシアにぶつけられることになった。江華島事件はアヘン戦争のとっかかりとよく似ていて、無理やりいざこざを起こしていますが、その後、日鮮同祖論を持ち出して朝鮮を取り込むような政策に転換している。江華島事件がいいがかりのようなかたちになったのは、日本はそもそも日鮮同祖論を持ち出すつもりがなかったからではないのか。国家主義者には耐えがたい主張のはず。それに、これをもちだしたことで日本には余計な仕事と面倒ごとが増えすぎている。つまり、日鮮同祖論には英国がコミットしているのではないか。アメリカ大陸を侵略するのにキリスト教が利用されたのと同じで、建前を欲しがったのではないか。

この時代、日本で殖産興業を主導した外国人の学者はみんな実質スパイです。といいますか、宗教指導者みたいなものです。啓蒙思想や進化論をもちこんで、科学的に発展している民族こそが優れている、経済的に豊かな民族ほど優れている、という進歩観念を植えつけに来たんです。結局、日本人は彼らに上手く懐柔されて尖兵にされてしまったのだと思います。孝明天皇は外国人嫌いだったので暗殺されてしまいました(という説がある)。閔妃もです。欧米の論理に懐柔されなかったまともな指導者はみんな暗殺されてしまいました。

逆の立場で考えれば分かります。日本も人類学者や歴史学者、それから言語学者を使って朝鮮半島を侵略したんです。戦争によらず謀略によって。英国が日本にしたのと同じことを、日本は朝鮮にしたんです。でも、結局のところ、一連の流れの裏に英国がいたのではないでしょうか(英国による対ロシア防衛戦のにまきこまれてしまったのです)。ただ、細かい部分では日本と英国の方針に違いがあったのではないでしょうか。征韓論にはない主張(日鮮同祖論)が江華島事件後に出てくるのはやはり変だと思います。侵略開始から併合まで論理に一貫性がないのはお粗末です。それだけ焦っていたということでしょう。

そもそも、明治維新後に恐ろしいスピードで軍事国家に成長し隣国に喧嘩を売りまくること自体が異常に不自然です。ちょんまげ結って下駄をはいていた日本人が突然狂戦士になってロシアに立ち向かってるんです。これは普通に考えて異常です。この記事では細かな事実の検証までやりませんが、大局的に見ると、同じアジア人同士が突然狂ったように喧嘩を始めるのは明らかにおかしいです。極東の国々が大国のはざまで犠牲になったとしか考えられません。

アーネスト・サトウが興味深いことを言っています。

アーネスト・サトウ「日本の下級階層は支配される事を大いに好み、権力を持って対する者には相手が誰であろうと容易に服従する。ことにその背後に武力がありそうに思われる場合にそれが著しい。伊藤には英語が話せるという大きな利点があった。これは当時の日本人で、特に政治運動に関わる人間の場合には、稀にしか見られなかった教養であった。もし両刀階級たちをこの日本から追い払う事が出来たら、この国の人々には服従の習慣があるのだから、外国人でも日本の統治はそれほど困難ではなかっただろう。」

岩波文庫「外交官の見た明治維新」〈下〉より


この「服従の習慣」って言葉、凄く的確な言葉ですよね。最初見たとき、ちょっと普通じゃない洞察力だと思いました。これはアメリカの情報局で日本を研究していたベネディクトと言ってることが同じです。ベネディクトは日本人の性質を「恥の文化」だと言いました。心に芯がなく他人に合わせることしかできない民族だと言われているんです。字づらは違いますが、彼らの言ってることは同じです。サトウさんはおそらくイケメンのスパイでしょうね。ピアーズ・ブロスナンみないな感じです。

サトウさんが日本で反逆分子を育てクーデタを起こす下準備をしていた工作員だったという話は有名です。普通ではちょっと考えられないレベルの洞察力なので、確かにただものではない感じがします。それに、神道を調べまくっていたようですしかなりの勉強家です。「服従の習慣」を持つ日本人は虐殺せず懐柔できると判断してくれたのなら命の恩人かもしれません。でも、大陸侵略に際して、この「服従の習慣」が逆に多くの悲劇を生んでしまったわけですから、あまり良い性質だとは思えません。このような国民性が仇となって、最近では毒のワクチンを国民の八割もが打ってしまいました。このような日本人の性質を現代において生かすなら、私は鎖国するのが良いと思います。アングロサクソンのロジックに合わせていても絶対に勝てないからです。

この時代はよくわからないことが多いです。
公武合体論を唱えていた佐久間象山の暗殺。吉田松陰の奇行と処刑。殺しのエージェントである岩倉の暗躍。私は研究者ではないので細かなイベントの意味は分かりません。しかしよく考えてみると、この項目はそういう部分に立ち入らず(余談が多くなってしまいましたが)、征韓論と日鮮同祖論の関係を考えることでした。この点についてはすでに説明した通り自分なりの結論を得たような気がします。ということでこの項目はこれで終わります。

元治元年(1864年)、象山は一橋慶喜に招かれて上洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説いた。しかし当時の京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、「西洋かぶれ」という印象を持たれていた象山には危険な行動であった(しかも京都の街を移動する時に供も連れなかった)。7月11日、三条木屋町で前田伊右衛門、河上彦斎等の手にかかり暗殺される。享年54。

ウィキペディア「佐久間象山」より

アメリカ大陸における教化

インディオへのカトリックの布教も大々的に進められ、キリスト教への改宗と、インティやパチャママへの信仰といった本来のインディオの信仰の廃棄が暴力を背景として進んだ(強制改宗)。一方でイエズス会の布教村落が築かれたパラグアイなどではスペイン・ポルトガル王権からのインディオの保護が進んだ。

征服当初からの疫病(インディオは旧大陸の病気に免疫を持たなかった)、戦争、強制労働によって15世紀から17世紀までの間に数千万人単位のインディオの命が失われ、カリブ海の大アンティル諸島のようにインディオが絶滅した地域もあった。どれだけの人口減があったかは定かではないが、少なくともペルーでは、インカ帝国時代に1000万を越えていた人口が1570年に274万人にまで落ち込み、1796年のペルーでは108万人になった(数字はH.F.ドビンズの推計による)[4]。

また、このような征服事業は思想的な正当化が図られた。初期においてはキリスト教信仰と、「半人間」である非キリスト教徒のインディオへの改宗事業によって思想的な正当化が図られた。これに対し、1537年にローマ教皇パウルス3世が「新大陸の人間は真正の人間である」と宣言し、インディオへの非人道的対応を改めるようカトリック教会の立場を打ち出したが、人文主義者のファン・ヒネス・デ・セプルベダのように、教皇の宣言を認めない人物も現れた。これに対し、バルトロメ・デ・ラス・カサス神父のように、キリスト教の立場からインディオ文明を擁護したスペイン人も少数存在したが、植民地支配体制を揺るがすことは出来なかった。キリスト教の後に犯罪の思想的正当化の試みは啓蒙主義や自由主義によって行われ、フランシス・ベーコンやシャルル・ド・モンテスキュー、デイヴィッド・ヒュームらはインディオを「退化した人々」とし、ヨーロッパ人による収奪を正当化した[5][6]。19世紀に入ると、「近代ヨーロッパ最大の哲学者」ことヘーゲルはインディオや黒人の無能さについて語り続け、近代哲学の立場から収奪を擁護した。19世紀後半には社会進化論などの様々な立場から、インディオやメスティーソ、黒人に対する収奪を近代科学によって正当化する試みが進んだ。
(中略)
「黒い伝説」とはスペイン人による新大陸征服を、政治的プロパガンダの下に否定的に伝えたものである[7]。これによれば、コンキスタドーレスの初期のアメリカ大陸での基本方針は、レコンキスタ終焉後の宗教的熱狂から来るキリスト教の布教と、入植することよりもまず黄金や財宝をかき集めることにあった。コンキスタドーレスはマヤ文明、アステカ文明、インカ文明といったアメリカの文明を破壊して金や銀を奪い、莫大な富をスペインにもたらした。この過程で多くのインディオが虐殺され、キリスト教への改宗事業が進み、また、インディオ女性に対する強姦が横行し、さらに、ヨーロッパ由来の疫病が免疫のない多数のインディオの命を奪った。スペインにもたらされた富はスペインの王侯貴族による奢侈や、オスマン帝国やオランダ、イギリスといった勢力との戦費に使用されてその多くがスペインから流出した。これは後の重商主義による奴隷制プランテーションや大西洋三角貿易、ポトシやグアナファト、サカテカス、ミナスジェライスの鉱山からの金や銀の流出に先駆けて、オランダやイギリスにおける資本の本源的蓄積の原資を担った。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』スペインによるアメリカ大陸の植民地化より


韓国併合の闇

ナウシカが朝鮮人だという話をすると、新羅や百済があった時代の朝鮮人は今の朝鮮人とは違うと文句を言ってくる人がいるのですが、ズレていると思います。そもそも「同じ」とはなにか、「違う」とはなにか、もうちょっとよく考えた方がいいと思います。科学的なエビデンスだけに頼らず、文化とはなにか、風土とはなにか、そもそも人間とはなにかというところからやり直した方がいいのではないでしょうか。それに、そもそも日鮮同祖論を喧伝したのは明治政府と東大です。日鮮が同祖だということが韓国併合の根拠なのです。それを今も合法だと言ってるんです。同じ民族だから併合してもよいという論理で併合してしまったんです。そもそも同祖だと主張したのは日本の政府なんです。

ここまで説明してきたように、日鮮同祖論によって上手く朝鮮を懐柔出来たわけではありません。いや、そもそもいい加減な立て付けで、これによって朝鮮を説得できる見込みは最初からなく、単に建前だけあればよかったんです。それが今になって、日本という国のありように大きな疑念を抱かせることに繋がっています。学者や政治がその場その場において日本の未来に対して責任を負わず虚栄や保身に絡めとられてきた結果、日本という国の社会構造に致命的な脆弱性をもたらしてしまっています。マーケットで駒のように動く大衆を操作して利益を得ることだけに人生を費やすことが正しいと思い込み、それを疑う事すらできない無数の嘘つき人間の集まり。これが今の日本という国の実情ではないでしょうか。

ここまで、実は韓国を併合し満州を占領するに際し利用された根拠が、日本と朝鮮を横断する古代の記録であったことを説明しました。捻じ曲げられた古代の記憶が利用されたとはいえ、戦前日本は、日本人と朝鮮人は同じ民族だと言ってたんです。学校では差別をやめようと教わりますが、こんな重要なことすら学校では教えてもらえないのです。本当のことは教えずに、表面的に差別をやめようと言ってるわけです。さて、この項では、神話の話から少し離れて、韓国併合の裏で起きていた重要な事件を取り上げたいと思います。いがかりの江華島事件に始まり、その後も脅したり策謀を巡らせながら行った韓国併合ですが、実はその裏で大変な事件が起きていたのです。李氏朝鮮の皇后だった閔妃の暗殺事件です。閔妃は当時国王である高宗よりも権力を持っていたようで、実質的に李氏朝鮮の王様みたいな人物でした。だから酷い殺され方をしました。これも知らない人が多いですが、日本軍は李氏朝鮮の皇后を殺してしまったんです。外国の皇后を殺したんですよ。

国王の高宗を毒殺したのも日本軍でしょうね。日本軍は王様も殺してるんです。とにかく韓国の皇族を殺しまくりました(諸説あり)。明治政府は孝明天皇も暗殺したのではないかという噂があります。伊藤博文を暗殺した安重根は、伊藤博文が孝明天皇を殺したと主張しました。(岩倉具視という説もある。)安重根という人は、実は親日で、どうやらアジア主義者だったらしく、一般に言われているように単純に反日の思想家だったわけではないようです。暗殺とか毒殺とかいうのは、これはあくまで噂であって本当かどうか全くわかりません。でも、閔妃の暗殺だけは事実です(日本がやったのではないという主張もありますが、これは裏がとれていて日本でまちがいないようです)。外国の皇后を殺すなんて普通ではありません。普通は絶対にやらないと思いますし、仮にやるとしても、絶対にバレない方法でやると思います。だから閔妃の暗殺は凄く目立つんです。奇妙なことに、閔妃の暗殺は毒殺ではなく、白昼どうどうと行われているんです。だから犯人がハッキリしています。敢えて毒殺を選ばず、犯人を周知させたのではないかと思います。

有名な書籍を紹介します。角田房子氏の「閔妃暗殺」です。この事件は白昼堂々と大韓帝国の皇后を殺した事件でしたが、この本が出版されるまで一般にはほとんど知られていなかったそうです。本当に滅茶苦茶です。他国の官憲がいきなり押し入ってきて皇后が暗殺されてしまったんです。白昼堂々とですよ。日本は、日鮮同祖論もそうですが、この閔妃暗殺についても、都合の悪いことは学校で一切教えないし、メディアも報道しません。それどころか、日本と韓国、日本と北朝鮮との仲を分断するような報道ばかりしています。私は閔妃暗殺については大手塾の授業で教わりました。当時、塾の授業で朝鮮の皇后が酷い殺され方をしたと具体的に教わって衝撃を受けた記憶があります。こういう出来事は、学校の教科書が無視できるような小さい出来事ではないと思います。日本は隠蔽国家です。

※私はこの事件を歴史の闇として面白おかしく取り上げようとしているのではありません。当時、帝国主義に対抗するために、アジア諸国が対等の立場で連携すべきだと考えていた大アジア主義が、この事件によって完全に瓦解させられてしまったんです。そういう意味で大変に重要な事件だったんです。大アジア主義を瓦解させ、絶対に日本とアジア諸国が連携しないようにするために仕組まれた事件だったと思います。日本はウクライナと同じで、地政学上非常に重要な位置にある国なのです。つまり、単に一国の皇后が暗殺されたという話ではなく、歴史的に大変大きな転換点となった重要な意味を持つ事件だったのです。

角田房子「閔妃暗殺」

時は19世紀末、権謀術数渦巻く李氏朝鮮王朝宮廷に、類いまれなる才智を以て君臨した美貌の王妃・閔妃がいた。この閔妃を、日本の公使が主謀者となり、日本の軍隊、警察らを王宮に乱入させて公然と殺害する事件が起こった。本書は、国際関係史上、例を見ない暴挙であり、日韓関係に今なお暗い影を落とすこの「根源的事件」の真相を掘り起こした問題作である。第一回新潮学芸賞受賞。
https://www.amazon.co.jp/-/en/%E8%A7%92%E7%94%B0-%E6%88%BF%E5%AD%90/dp/4101308047

角田房子「閔妃暗殺」の紹介文より

まさに根源的事件ですよね。こんなこと逆の立場でされたら怒り狂います。それから、事件と並び衝撃的なのは、事件の首謀者が裁判で全員無罪になっっていることです。びっくりですよね。それでこのことも、この閔妃の暗殺事件とは別で、大変に重要な問題であると主張する学者もいます。どういうことかと言いますと、この無罪判決がいわゆる「愛国無罪」という前例を作ってしまい、軍部の倫理崩壊をもたらし、結果、天皇軽視につながってしまったという主張です。閔妃の暗殺も大問題ですが、加えて、その暗殺が無罪になったということも大問題だということです。この事件が無罪となったことで「愛国無罪」という価値観が醸成され、その結果、軍部による数多くの暴走をもたらし、重要な作戦の失敗を平気で隠蔽してしまうというような事態を招いたのです。国家のためなら何をやっても許されるという価値観が、文民統制から軍部を解放してしまったのです。

閔妃暗殺が無罪になったことが、軍部に倫理崩壊をもたらし、満州事変や盧溝橋事件など、軍部の暴走につながり、ミッドウェー海戦や台湾沖航空戦での大敗を平気で隠蔽するような事態を招いたのです。海軍は陸軍にすら失敗を隠していたわけですから、もう、何をやってるかわからなくなってしまっていたんです。それぞれがそれぞれ、プライドで動いたんです。結局のところ、当初から、国家とか、国民とか、何かを守ろうとして始まった戦争ではなかったということです。各人がそれぞれ自分のプライドをまもりたいがために始まってしまったんです。慰安婦問題や捕虜の大虐殺もそうです。「愛国無罪」という前例が仇となって、人間を簡単に殺したり、辱めたり、味方にも嘘をついたり、そういうことが軍部で頻繁に起こるようになったんです。軍部は天皇陛下が反対しているにもかかわらず平気でアヘンを栽培して売りさばいて戦費を稼いだり、大陸を毒化したりして、その結果、岸や関東軍が大陸で大きな権力を持つようになりました。関東軍は生物兵器を研究するだけでなく実際に使用したんです。その生物兵器は子供までなぶり殺しにして開発されたものでした。閔妃暗殺は、結果として満州にもう一人の天皇を誕生させてしまう原因になってしまったのです。


要するに、閔妃暗殺事件は、反日感情を生み出したという意味で根源的な事件になったのと同時に、日本にとっても、その後の日本軍の姿勢を決定づけた大変に重大な事件だったのです。それから、重要なことなのでもう一度言いますが、この事件は、大アジア主義を完全に瓦解させるための策謀だったのです。この事件により二度と日韓が協調できないようにされたわけです。このように歴史の転換点となった大変に重要な事件なのですが、学校の授業では素通りでした。私が通ってた大手塾では講師がかなり熱く語ってたのを覚えています。今考えると、この事件を素通りしてしまう学校教育はろくでもないですね。ハッキリ言って私が行ってた学校の授業は無駄でした。時間を返してほしいです。嘘ばかり教えて、結局操作されやすい従順なロボット人間を生産するための工場が学校ということなのでしょう。これが日本という国の実像です。

それから、もうひとつ、これも一般にはほとんど知られていませんが、当時の大韓帝国の皇室にまつわる出来事で、日本人が必ず知っておかなくてはいけない出来事があります。日本政府は併合後に大韓帝国の皇太子である李垠(りぎん)を日本に連れてきて日本の皇族と結婚させたんです。いわゆる政略結婚と考えてよいと思います。要するに、日鮮同祖論を完成させるために政略結婚させたんです。いや、完成と言いますか、日鮮同祖論で朝鮮人民を説得することはそもそも不可能だったので、両国の皇族を結婚させて既成事実を作ろうとしたんです。これにより日本人と朝鮮人が同じ民族であることをPRし、その後、特に朝鮮人を「内鮮一体」(朝鮮人に日本語を強制したり日本の兵士にしたりした政策)へと駆り立ててゆきます。このような経緯から、実は、日本と韓国の皇族は親戚なのです。といいましても、韓国の皇族も同化政策の犠牲者となり、併合により大韓帝国が消滅したことに伴い皇族の身分を失うことになります。代わりに、日本の皇族に準じる王公族の身分を与えられ、当時の皇帝・純宗は李王となり、その後、純宗が死去した際に、李垠が地位を引き継いで李王となります。

李家は直系子孫が亡くなったため断絶し、皇室は廃絶に近い形となっています。とんでもない話ですが、日本政府は韓国皇室を廃絶させたんです(廃絶に関しては諸説あり)。そもそも、韓国皇室を日本の皇室に同化させるための政略結婚だったんです。ありていに言いますと、吸収合併というやつです。李垠(りぎん)の政略結婚は、日鮮同祖論と同じ線上にあった政策だという理解が大切です。そういう意味で、この出来事も、本来教科書が無視できるような出来事ではないのです。
戦後、日本国憲法が施行されると王公族制度が廃止され、李垠は地位を失い一般の在日韓国人と同じ身分となります。それで李垠は韓国に帰ろうとしますが当時の李承晩が王政復古を恐れて帰国を認めませんでした。酷い話です。その後、朴正煕政権の時にようやく帰国が認められることになります。念のため補足しておきますが、軍事クーデタで政権の座についた朴正煕は日米の傀儡政権でした。
※大韓帝国の皇室にまつわる逸話は今日の日本に通じている部分も多々ありますが話がそれ過ぎるので以上に留めます。


韓国併合に関する戦争マーケティングの話を少しだけしておきます。
当時日本は朝鮮に対し同じ民族だから併合してよいという論法を用いました。同じ民族だから併合してよいというのは論理が繋がりませんので、併合ありきで理由が後付けだったわけです。しかしこんな論理はバカじゃなければ詭弁だと気が付きますので、夏目漱石やら福沢諭吉やら、著名な文人や学者を使って必死に大陸の文化が日本より劣っていると喧伝(マーケティング)しました。日本が正しいような雰囲気を作り出そうとしたんです。「脱亜入欧」なんかがそうですね。欧州のほうがアジアより科学的に優れており豊かな国だと喧伝したんです。満鮮に対しては、同じ民族なのに豚小屋みたいな生活をしているので日本が助けてやる!という論法です。

上でも説明しましたが、こういう科学的に発展している方が豊かだという価値観を啓蒙思想といいます。科学や理性を重視する思想のことです。言い出しっぺとしてはヴォルテールが有名です。日本に積極的に啓蒙思想を導入した人物としては福沢諭吉の他に西周も有名です。科学を重視する思想は、この時代のすこし前くらいに英国の経験論(哲学)から生まれ、理性を重視する思想は大陸の合理論(哲学)から生まれました。英国の経験論はもともとは保守的(実証主義的)な思想でしたが、進歩観念に基づいていたことが原因で科学主義(自然科学を重視する考え)を生み出してしまい、これが大陸の合理論と結びついてゆくことになります。ヴォルテールがニュートンを絶賛していたのは有名です。そしてこの啓蒙思想が一方では古典派経済学(資本主義)を誕生させます。つまり、科学主義と資本主義は連動しているのです。ちなみに、科学や理性をさらに信頼しこれによって社会を管理しようというのが共産主義ですが、この共産主義もそういう意味で進歩観念に基づいています。

進歩観念というのは、人類は進歩(進化)しているという考えです。日本は、こういう考えを広めて科学的に劣った国は科学的に優れた国に併合されるのは正しいこと、という雰囲気(世論)を作り出していったのです。もちろん、これは西欧の受け売りで、そもそも西欧諸国がこういう進歩観念に囚われていたということは言えると思います(今もそうですが)。進歩観念なんてあたりまえじゃないの?理性的に物事を捉えるのがなぜいけないの?と今でもほとんどの人はこのよなことを言うと思うのですが、それは当時と同じで雰囲気に騙されているだけです。すでに説明したように、哲学の分野では特に構造主義以降、このような進歩観念に疑義が呈されています。

李垠(りぎん)の政略結婚もそうですが、この時期、ありとあらゆる方法を使って、とにかく日本に併合されることは当然だという雰囲気を作り出そうとしたのです。後に日本軍が朝鮮の人々に行ったことを考えれば酷い詭弁ですよね。とにかく侵略ありきで、日鮮同祖論や、このような啓蒙思想を、侵略を正当化するために使ったんです。文人に侵略を正当化させる記事や本を書かせたりもしました。日本の紙幣に印刷されてる人物にはろくな人物がいないように思います。紙幣は最も効果的な宣伝媒体なのです。

それから、韓国併合に関するマーケティングつながりでこの話もしておきます。「人類館事件」です。当時、大陸の文化が日本より劣っていると喧伝するために、東アジアの人々を動物園の檻に入れて見世物にしたんです。いわゆる「人間動物園」です。人間を動物園の檻にいれて見世物にしたんです。本当に恐ろしい行為です。当時、多くの西欧諸国でいわゆる後進国の人々が檻に入れられて見世物にされるということがあったんですが、日本はそれを真似したんです。本当にとんでもない話です。それで過去にこういうことがあったことも教科書には出てこないんです。日本は都合の悪ことを隠してばかりです。何のために学校があり教育があるんでしょうか。過去から何も教訓を得ることができない教育って、いったいなんなんでしょうか。上でも話しましたが、人類館事件でよくわからないのは、朝鮮人も対象に入っていたことです。日鮮同祖論を喧伝していたのに、一方で朝鮮人を檻に入れて卑下しようとしたのです。政策としてかなり杜撰な感じがします。本当に意味不明で酷い話です。

ちなみに、日本人も海外で同じことをされていたことをみなさんは知っていますか?パリ万博では日本人が動物園の檻に入れられていたようです。それでシャポニスムが興ったんです。日本人が見世物にされることで日本文化への興味が掻き立てられたようです。シャポニスムっていいことだらけのように語られていますが、日本は都合の悪いことを隠しすぎだと思います。だから教訓を得るということができないのではないでしょうか。都合の悪ことを隠すから歴史が繰り返されてしまうのだと思います。都合の悪い歴史は隠せばいいというものではありません。

それと、これは余談ですが、当時、日本は「からゆきさん」を海外に輸出していましたが、欧州や米国でそのような日本の政策(外貨獲得のため当時日本政府も日本人婦女子を売春婦として輸出することを容認していたし、著名な学者や大アジア主義者の中にもこの政策を支持する者がいました)が批判されて政策としての日本人婦女子の輸出は終わってゆきます。アメリカなどで大規模な日本人排斥運動が起きたのです(排日移民法の成立など)。日本は政策として日本人婦女子を売春婦として輸出していたんです。国家がです。国家がそういうことをしていたんです。樋口一葉はそういう政策を支援するために筆を執りました(と私は思っています)。


東京大学と人類学

東大人類学教室は創設当初から日本人のルーツを調べてきました。
実は日本に初めて人類学という学問が入ってきたのは東大なんです。エドワード・S・モースという人物が明治期にいわゆるお雇い外国人として東大にやってきました。この人は一般的には日本にダーウィンの進化論を紹介した人だとされています。(また後で語りますが、この「進化論」というのは「自由と平等」と同じで宗教のひとつです。私は、それを布教に来た宣教師だとみています。)

この時代、人類学者というのは基本的に斥候として送り込まれることが多かったんです。もちろん、逆の立場でも同じです。戦争をしかける前、または、侵略直後に人類学者を送り込むんです。人類学者や考古学者を単に呑気に趣味に耽っている人たちだと考えてはいけません。国家にとっては大変に重要な意味を持つ学問であり学者なのです。敵を知ることができる学問でもあり、敵国の歴史を修正できる武器(思想洗脳のツール)にもなるのです。このモースさんがどういう立場だったかしりませんが、当時のお雇い外国人というのはわたしにとってはそんなイメージです。この方、明治10年とかなり早い時期に日本に来ていたようです。

日本(東京大学)に初めて人類学をもたらしたモースさんは縄文人に食人文化があったことを突き止めた人物でもあります(アイヌ人には食人文化がありませんでした)。貝塚を調べたら人骨が出てきたんです。で、これも日本ではタブーです。日本は都合の悪いことを隠してばかりです。日本の始祖を縄文人だと主張している人たちが、今度は、縄文人が人間を食べていたというのが気に入らないようです。でも、実は鳥居龍蔵はこの事実から縄文人のルーツも調べまくりました。そしておおよそのルーツを見つけました。鳥居の推論は非常に興味深いものなのですが、長くなりすぎますし、縄文人の話はテーマからそれますのでこれ以上は踏み込みません。興味がある方は調べてみて下さい。(鳥居はコロポックルやアイヌ人についても調べまくりました。こちらも興味深いのですが、アイヌ人の話もこの記事の本筋から話がそれるのでしません。)

ただ、この話だけちょっとします。
人間が人間を食べるとクールー病(プリオン病)という病気になって自己崩壊します。狂牛病と同じです。牛が牛(肉骨粉)を食べると自己崩壊します(ヤコブ病といいます)。過去に何度か生態系に関する記事でRNAの自己崩壊メカニズムについて話しましたので、それ関連ということで話します。実は、パプアニューギニアに儀式として人間の遺体を食する人々がいて、世界の人類学者から非常に注目を浴びた時期がありました。パプアニューギニアは、地球上で最も文明の影響を受けなかった地域の一つなのです。また後で紹介しますが、生物学者のジャレド・ダイアモンドがこの地域を研究対象にしたのも、もしかしたらそういう注目を浴びた地域だったからなのかもしれません(ジャレド・ダイアモンドは文明の発生要因を地理的要因によるものだと断言し進歩観念に基づいた人種差別に警鐘を鳴らすと同時に、行き過ぎた科学主義(科学を重んじる考え)が文明崩壊をもたらす契機になると主張しました。「銃・病原菌・鉄」(1997年))。

ついでなのでこの話もしておきますが、この地域をフィールドワークの対象にして、進歩観念に囚われていた欧米の人類学に「機能主義」という観点をもたらしたのが人類学者のマリノフスキという人物です(『西太平洋の遠洋航海者』(1922)で有名)。この人は現地の島々で行われていたクラ交易という交換スタイルや呪術(神性)をベースにした「互酬的な関係(つながり)」を観察することで、地域の人々が利益よりも関係性(つながり)を重視して生活していることに気が付いたのです。私なりに言えば、要するに、生態系の維持を重視し敢えて進化しないような生き方を選んでいるということです。つまり機能主義の機能というのは進化させないような互酬的な関係性を成立させるための各要素のことを意味しています。当時の欧米人にはこのような生活態度が非常に驚きだったようで、この観点が西欧の文化人類学に大きな転機をもたらし、「社会進化論」(スペンサーが有名。また後で説明します)へのアンチテーゼとなってゆきます(機能主義という考えが後にモースの「贈与論」に繋がってゆき、そしてこの「贈与論」がレヴィ・ストロースに影響を与え、ソシュールの記号概念が導入され構造主義が生まれることになります。)

このあたりのことは下にウィキペディアのリンクを貼っておきますで、興味がある方は読んでみてください。

話を戻します。
実は、東大は遺伝子解析により日本人が朝鮮人であることを突き止めています。下にリンクを貼った記事から少し抜粋します。

その結果、アイヌ人と琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、琉球人に次いでアイヌ人に近いことが示された。一方、本土人は集団としては韓国人と同じクラスター(注2)に属することも分かった。


私は東大の遺伝子解析の結果をことさらに強調して日本人は朝鮮人だと言いたいのではないです。東大は明治の頃より日鮮が同祖だという主張を変えてないんです。この遺伝子解析の結果も、彼らの既存の主張を補強しているだけなんです。突然、日本人は朝鮮人だと主張し始めたわけではないのです。東大の主張は明治から一貫しているんです。

日本は平気でなんでも偽造する国なので解析結果をただちに信じるべきだとも思いません。そもそも、東大はワクチン接種やウクライナ戦争に関して、反ワクチンと反ウクライナ(ロシア支持)を同じカテゴリーにひっくるめて陰謀論者扱いしているとんでもない学府です。基本姿勢が政府と一体なので信用しすぎると足元をすくわれます。

国際調査についても同様です。直ちに信用はできないと思います。西側はウクライナ戦争やワクチン接種に関して嘘情報ばかり喧伝してますよね。すぐに情報を信じてはいけない時代だと思います。ですので、広く情報を収集しながら何が真実なのか自分で考えながら繋げていくしかないと思います。ハッキリ言って国家も学者も直ちに信用できないと思います。重要なことは自分で調べて自分なりの確証を得ることです。信用できそうな人の言っていることを信じるのではなく、自分で情報を集めて検証することが重要です。
※特に、人類学や考古学は国家の利益と直接つながることが多く調査結果を直ちに信用できないことが多いと思います。嘘つき学者が異常に多いのです。(私が言ってることも正しいとは限りません。歴史や人類学、それから考古学に関しては、日頃から物事を柔軟に捉えるようにしておいたほう方が良いと思います。そもそも視座によって力点や表現がどうしても変わってしまいますので。)



王家のルーツと歴史の隠蔽

ここまで、神話の話を絡めながら、明治期以降、東大や政府が日本人が朝鮮人だと主張してきたことを述べてきました(日鮮同祖論)。ここ最近は、国際調査団や東大による民俗学的、科学的調査によっても、日本人が朝鮮人らしいことがわかってたことも説明しました。天皇家と本来の神道の神である「韓神」との関係、それから、日韓の王族が親戚どうしである事実は無視できない重要なポイントです。そもそも、今上上皇陛下は天皇家に百済系の血が入っていることを隠していません。

今上上皇陛下は、まずは日韓がお互いに正確に事実を知ることが大切だと言っています。下に引用した文章を全部読んでください。素晴らしい文章です。

天皇陛下のお言葉

日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招へいされた人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。

しかし,残念なことに,韓国との交流は,このような交流ばかりではありませんでした。このことを,私どもは忘れてはならないと思います。

ワールドカップを控え,両国民の交流が盛んになってきていますが,それが良い方向に向かうためには,両国の人々が,それぞれの国が歩んできた道を,個々の出来事において正確に知ることに努め,個人個人として,互いの立場を理解していくことが大切と考えます。ワールドカップが両国民の協力により滞りなく行われ,このことを通して,両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております。

http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h13e.html

宮内庁HPより

でも、日本人には朝鮮人だと言われるのを嫌う人が多いです。
だから宮崎駿はナウシカやラピュタ、それにもののけ姫を描いたのではないでしょうか。事実を知り歴史の隠蔽や民族の分断をやめましょうってことです。だって、私たちどう考えても朝鮮人ですよ(本土人は特に)。
特に、もののけ姫に込められたメッセージは具体的でした。縄文人(サン)もアイヌ人(アシタカ)も朝鮮人(エボシ)も、みなで「共に生きてゆこう」と。

上でも少し取り上げましたが、上橋菜穂子さんのメッセージはより具体的です。上橋さんの作品がとても面白いのは、歴史の隠蔽が王族やその体制を守るためという視点でハッキリと描かれていることです。隠蔽された歴史が作品に描き込まれている点は宮崎駿と同じですが、上橋さんの場合は王家による歴史の隠蔽自体を作品の主題に据えているので、ファンタジーとはいえかなり踏み込んだ内容になっていると思います。といっても、これはわかる人にだけわかるような内容なわけですが。上橋さんは児童文学作家と呼ばれていますが、上橋さん自身は文学と児童文学が分けられることを嫌っているようです。私も同意見で、分けることにほとんど意味はないと思います。だって、上橋さんの作品はそこら辺にあるいわゆる大人向けの文学作品よりも、しっかりと体制を問うている点、とても文学的です。歴史修正に対する批判作品なんです。芥川龍之介と同じ視点です。ちなみに上橋さんの作品の中で私がいちばん好きな作品は「獣の奏者」です。

為政者にとって都合の悪い歴史は隠蔽されます。人類学者のルネ・ジラールはニーチェとは違い人類の歴史とはそういうものだと宿命論的に結論付けています。それが共同体の宿命であり、共同体とはそもそもそういうものだと。共同体のために一部の人々が差別されスケープゴート(供儀)にされるのだと。でも私はルネ・ジラールに疑義を呈したいと思う。なぜなら私はそうは思わないし、そんなことは許さないから。だから私はニーチェの言ってることの方が正しいと思う。これは私だけがそう思っているわけではないと思う。宮崎駿も、上橋菜穂子さんも、そうは思わないから筆をとった。芥川龍之介もそう。そんなふざけた世の中を許したくない人が増えてゆけば、きっと世界はかわってゆけると信じている。(ニーチェが何を言ったかは調べて下さい。)

もちろん、日本の歴史も隠蔽されていることが沢山。当然、為政者が天皇だとはかぎりません。最近は、記紀の編纂者やその政治的な意図についてさまざまな議論がかわされ始めているように感じます。天皇の裏にいて、私利私欲のために、天皇を、天皇制を上手に利用してきた人々がいるのかもしれない。わざと日本人と朝鮮人を仲たがいさせている人々が誰なのかは分らない。誰か分からないけど私は言っておきたい。島国の日本だからこそ同じ民族である朝鮮人との深い関係は隠蔽するべきじゃないと思います。少なくとも、いがみ合うような方向に隠蔽すべきじゃないと思います。そもそも、嘘の歴史なんて知りたくない。この国の成り立ちや王の素性に偽りがあるとしたら、それはとても悲しいことだと思います。

上でも言及しましたが、今上上皇陛下は隠していません。それは平和を希求されてのことだと思います。歴史を修正してまで、なぜ同じ民族がいがみ合わなければならないのでしょう。三笠宮崇仁親王が非常に重要な発言をされていますので、下に引用します。三笠宮様は戦中から侵略に反対だった方です。東大で研究生として学ばれた歴史学者でもあります。専門はアナトリア(小アジア)考古学でした。

1950年代後半から『紀元節』(神武天皇即位紀元に基づき、自身の父系祖先にもあたる初代天皇の神武天皇が即位したとされる西暦紀元前660年2月11日を「日本建国の日」とする)の復活への動きが具体的なものになってくると、考古学者及び歴史学者としての立場から「神武天皇の即位は神話であり史実ではない」として、「『神話』と『史実』は切り離して研究されるべき」と強く批判し、天皇の弟宮という身分でありながらも積極的に「紀元節復活反対」の論陣を張った。編著『日本のあけぼの』は、このときに刊行されたものである。このため「赤い宮様」と渾名された。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』三笠宮崇仁親王

ウィキペディアには三笠宮様の重要な著書「日本のあけぼの」項目がありませんでした。下にこの書籍で語られた有名な言葉を引用します。

「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵(ののし)られた世の中を、私は経験してきた」

三笠宮 崇仁「日本のあけぼの」(光文社)より



資源のない島国は隣国と仲良くすべき

なぜ、いがみ合うような方向に隠蔽すべきじゃないのか?
まず、この方を知っていますか?ジャレド・ダイアモンドさん。
知らなかった人は知っておいたほうがいいと思います。有名な方です。

彼の著書「銃・病原菌・鉄」は、西欧の近代文明を評価する上で重要な著書のひとつです。反西欧中心主義という観点で、西欧主義・科学主義の傲慢さについて語られています。(上でも語りましたが、戦後から今日に至る西欧思想の潮流は、一貫して反西欧中心主義を貫いています。実存主義哲学を批判的に継承した構造主義哲学から今日のポスト構造主義までの流れは、とても簡単に言ってしまうと、これまでの西欧合理主義の詭弁を明らかにして既存の社会構造を論理的に乗り越えようとする流れです(脱構築)。この思想の潮流は、実は人類学や物理学などの他の学問的成果と連動しているのです。そしてこの流れは、改めて東洋の価値観を見直す流れでもあることを付け加えておきます。)

彼のイースター島に関連する研究成果は、日本という島国の安全保障を考える上で重要だと思います。事実関係に疑義が呈されている部分もありますが、全体としてみれば、資源のない島国が国家としてどうリスクマネジメントしてゆくべきか、という点において極めて重要な示唆を与えてくれます。昨今、日本は極東の隣国に喧嘩を売りまくってますが、これが本当に安全保障なのでしょうか?私には疑問があります。意図的に隣国との関係が分断される中で、盲目的にそのような国家の姿勢を正しいと思い込んでいる方(思い込まされている方)が多数なのですが、本当に隣国と喧嘩をしまくってそれが安全保障になるのでしょうか。彼の著書「銃・病原菌・鉄」は、島国としてどういう観点を持つことが本当の安全保障になるのか、ということを考える上で根源的なヒントを与えてくれると思います。

文明崩壊はあり得る、ということです。日本は科学主義の暴走を省みることなく未だに環境を破壊しまくってますが、大勢の人々は、そもそも文明が崩壊するわけないと高を括っているように感じます。そもそも、科学が本質的に無根拠であることを知っている人はほとんどいません。現代における科学主義のもっとも重要な成果は、実のところ科学は真理には到達し得ない人間にとっての科学でしかなかったということを証明したことです。そういう本質的な事実を知り、この事実から目を背けず、常に技術を自制的にコントロールする努力が求められているのではないでしょうか。

ウィキペディアからで恐縮ですがジャレド・ダイアモンドは次のようなことを言っています。他にも重要な示唆は沢山あります。読んでみてください。(わたしは基本的に書籍などから勝手に文章を引用することを好みません。)

ダイアモンド自身は、2020年に来日した時の産経新聞とのインタビューで「イースター島で起きたことは、過剰な資源収奪がもたらす最悪のシナリオです。この島は太平洋で孤立し、森林伐採など自然を破壊したときに助けを求める社会が他になかった。宇宙では地球も孤立しています。だからイースター島は世界の縮小モデルなのです。人間は自身が依存している資源を破壊してはいけないのです」と答えている。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ジャレド・ダイアモンドより

ジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」


日本はフッ化水素戦争で韓国に貿易戦争を仕掛けましたが、あのような事をして政治家の評価が上がることがまずおかしいです(知らない人がほとんどですが、実は経済界は大変な被害を被ったのです)。そもそもフッ化水素の原料である蛍石ですが、日本は輸入しなければ手に入れられないのです。やってることがおかしすぎる。半導体の産業構造を知っていれば普通は絶対にやらないような事です。日韓は上手く相互依存関係が出来ていたのにそれをぶち壊したんです。
下の記事はかなり話題となった記事です。(興味があれば読んでみてください。湯之上氏はこの分野のエキスパート。)

結果起きたことは半導体不足、BEV用電池の不足です(それぞれ韓国に世界的な巨大サプライヤーがいるため)。熊本にTSMCを誘致するのも韓国に仕掛けた戦争に負けたせいなのに隠蔽されています。それどころか、誘致に成功したみたいな報道ばかりです。本当にびっくりします。ワクチンの大変な薬害もそのうち政府の大成功みたいな報道にアクロバティックに改変されるかもれませんね。
不足している状況は政権が代わって徐々に解消されつつありますが、まだまだ大きな足かせとなっています。ジャレド・ダイアモンドの言った文明崩壊は、経済崩壊と言い換えても良いと思います。助けてくれるところがなければ文明は簡単に崩壊してしまいます。フッ化水素戦争はまだ続いてますが、早く止めて、これによって経済が窮地に陥ったことを今後の教訓にすべきだと思います。隣国との関係を政治利用するのではなく、国家の安全保障のために関係は良好に保つべきだと思います。

現代までつながる戦争マーケティング


この項目は加筆・修正中です

既に何度か説明しましたが、もともと明治期の右翼には大アジア主義を主張して真面目に朝鮮人や中国人と同じ立場で共同・協調しようとしていた人も多かったんです。(同祖という面を主張するより、欧米帝国主義に対抗するため日本と朝鮮の協調を模索していました。)


でも、欧米はアジアで連携されると困るので、結果として大アジア主義は瓦解させられました。欧米は極東を対ロシア南下政策の人間の盾にしたかったわけですからね。万が一にでも、極東がロシアと連携されるなんてことがあっては困るわけです。ただ、ロシアは基本的に小麦を売りたかっただけです。そのための凍らない港が欲しかった。それが南下を始めた基本的な動機です。そんなロシアが潜在的な売り先である国々と好んで喧嘩をするでしょうか。今でもはなっから当時のロシアを敵視するような見解が当たり前のように語られていますが、ロシアは基本的に小麦を売りたかったのだという視点は重要です。(わたしは世界史の授業でこう習いました。基本的にロシアに産業革命を興されたくない英国の策謀だったと。英国の覇権主義。)

このような大きな流れの中で、大アジア主義は結局瓦解させられたわけですが、上手く取り込まれ利用されてしまった側面もあります。大アジア主義にも様々な考えがあり一枚岩ではなかったんです。日鮮同祖論のところでも言いましたが、真面目に協調することを考えていた人と、政府の走狗となって併合ありきで考えていた人がいました。そして結局、閔妃や金玉均の暗殺によって大アジア主義は決定的に瓦解させられてしまいました。いつの時代も同じです。ワクチンを平気で勧める政府の走狗と、人々の健康を親身に考えている真面目な人がいます。

それから、この時代において見過ごせないのは、暗殺事件もありましたが、脱亜論や脱亜入欧のようなプロパガンダ作戦(戦争マーケティング)(これは形としては民間人が唱えた)によって併合が正しいような雰囲気づくりが意図的に行われたことです。人間動物園のような酷いことも行われました。著名な文人も平気で大陸卑下をやってましたし、軍部の暴走にペン部隊として加担しました。学者も文人もメディアも右翼も最終的に体制側に取り込まれてしまったのです。みんな操られていたんです。

この項目では、この「操られていた」ということについて少し詳しく検証してみようと思います。この時代、暗殺など工作活動を含め戦争マーケティングが巧みにミックスされながら、日本は対ロシア南下政策の人間の盾とされました。この手法は今も同じです。基本は変わらないのです。2013年にウクライナで起きたマイダン革命と、その後に行われた民族主義を煽るようなプロパガンダは、この時代の日本で行われた手法と全く同じです。マーケティングの精緻さは進化していますが、基本は同じなのです。当時、日本でどのような戦争マーケティングが行われていのかについて知ることは、今後の時代を生き延びるための重要な教訓となると思います。

これから戦争マーケティングについて話しますが、戦争マーケティングの基本戦略は、
①要人暗殺、クーデタなどの工作活動(インテリジェンス含む)・・・策謀
②宣伝(マーケティング)・・・国民の洗脳
③軍略(ロジスティクス含む)・・・兵士の洗脳
の三つです。

戦争マーケティングには、商用マーケティングにはない①と③が入ってきます。①は、例えば、ウクライナ戦争ならマイダン革命ということになります。日本なら明治維新です。誰かを暗殺したり、(虐殺を含め)大事件を起こしたり、クーデタを起こしたり、革命を起こしたり、このような策謀が戦争マーケティングには入ってきます。恨みつらみ、悲しみ絶望、そういう人間の感情(イデオロギーや民族の対立関係)を巧みに利用するのです。そういう戦略を使えるか確認するために、まずは人類学者を斥候として送り込むのです。人類学って物凄く恐ろしい学問なんです。なぜ明治なってすぐに東大に人類学教室が出来たのでしょうか。その理由はこういうことです。戦時には思想洗脳を担う情報担当の軍事部門として機能するのです。

明治維新も閔妃暗殺も、戦争マーケティングにおける工作活動だったと考えることが出来ます。明治維新がウクライナにおけるマイダン革命のように策謀によって起こされたクーデタであることをほとんどの人が知らないのですが、これを見誤ると、完全に間違えた歴史観を持ってしまうことになります。明治維新は外国勢力によって起こされた日本侵略における最初の策謀でした。

順序が前後しますが、まず③軍略について、兵士の洗脳という観点で少しだけふれます。(少しではなくなりました。)兵士の士気を維持するために、先の大戦ではミルグラム効果が利用されました。これは後でわかったことです。戦後、なぜ人間があれほど非道になれるのかということについてミルグラム実験という実験をして分析したのです。

上で、日本人の体質について、英米人から「服従の習慣」や「恥の文化」などとボロカスに言われていた話をしましたが、実はもともとあったこのような性質(文化)に加え「ミルグラム効果」も大きかったことがわかっています。ミルグラム効果とは、組織の指揮命令系統の中で兵士が罪悪感を極小化してしまう効果です。要するに、命令されたら殺人でも強姦でもなんでもできてしまう心理効果のことです。戦争では兵士をいかにして強化するか、という観点が入ってきます。罪悪感を極力低減させ心理負担を減らすことは重要な戦術なのです。なぜなら、罪悪感を抱きながら命令を遂行することには大変な心理負担を伴い、途中で戦線を離脱する原因となったり、後に心理的な後遺症が残ってしまう原因となるからです。
実は、日本軍はこの兵士の心理面における強化だけは非常に上手かったのです

日本軍は、儒教精神を悪用し、軍人勅諭や作戦要務令、それから戦陣訓など、精神的強化に重点を置いた軍律を作成しましたが、これらを採用にしたことでミルグラム効果が増大されていたと考えられます。これらの軍律は具体性のない精神論だったと揶揄されますが、精神論であるがゆえに、実はミルグラム効果が絶大だったのです。さらに、兵士は麻薬でも強化されてましたので、現場の士気は異常に高かったのです。あまり知られてないですが、特攻攻撃(肉迫攻撃)は陸軍においては通常戦法でした。なにより、精神性の高い軍律や麻薬による強化よりも前に、既に日本軍には閔妃暗殺による「愛国無罪」という作為的倫理崩壊が付与されていたので、冷静に分析すると恐ろしいほど効果的なミルグラム効果が発揮された強化兵だっと考えられます。閔妃暗殺における無罪判決によって、天皇陛下がある意味で残虐行為を黙認してしまったのですから日本軍は怖いものなしです。

実際、日本軍の要所には皇族が配置され陣頭指揮をとって兵を動かしていました。そして、ミルグラム効果が最大限発揮されてしまったことで、アジア各地で大変な問題を起こしてしまうことになります。皆さんは南京大虐殺という言葉を知っているかもしれませんが、この作戦は中国北部より南下しながら中国人を皆殺しにしていく三光作戦(中国名)という作戦のほんの一部の作戦にすぎません。皆殺しです。中国共産党の兵士は便衣兵になってゲリラ戦で応戦したので、軍人と民間人の区別がつかず、北部から南下しながら皆殺しにしていったんです。女性を凌辱してぶち殺したり、慰安婦にしたり滅茶苦茶しました。美しい女性は裸にして靴だけ履かせて軍と一緒に行軍させ、レイプしながら南下したんです。

日本軍はその後もアジア各地でこんなことばかりしています。至る所でこんなことをやっていたので、慰安婦問題が国際的な問題になったんです。恥ずかしい話です。後世の事を少しは考えて行動すべきだと思います。ワクチンの問題にしても、日本人は子や孫の世代に思いをはせてリスクマネジメントするということが出来ないようです。後世が迷惑するようなことを平気でする人々がいますが、自分たちの子や孫も被害を受けるかもしれないという事すら考えられないというのは一体どういう精神構造をしているのでしょうか。あまりにも近視眼過ぎると思います。

「はだしのゲン」には一升瓶を女性の膣に突っ込んで蹴り上げて女性を殺すシーンが描かれています。最初見たときは衝撃過ぎて絶対に戦争はしちゃいけないと思いました。そのようなシーンを描き歴史の真実に迫ろうとした「はだしのゲン」ですが、歴史修正の流れの中で学校図書から一掃されてしまいました。恐ろしいことですよね。戦争がどのような悲劇をもたらすか、子供の時にしっかりと教えるべきだと思いますが、それが徐々に行われなくなり始めているんです。いつでも戦争できる国にしておくためには、無用な感傷だということでしょうか。

わたしが言いたいことは、後世に知られたくない行いなら最初からやるなってことです。麻薬で強化されてたからそうなってしまってたんでしょうか。天皇陛下から禁止されていた阿片栽培や大陸毒化(阿片を意図的に大陸にバラまくこと)を平気でやってた人たちが戦後もこの国を支配していて、不都合な事実を全部修正していっています。その一方で国民の多くが傍観者となりその修正されてゆく事実を受け入れているわけです。

日本人の多くは、失敗は隠すのが正しいと思っているようです。ベネディクトは日本人のこのような精神性を「恥の文化」だと言いました。彼女の著書を批判する意見も多いですが、私は彼女の指摘はかなり的を得ていると思います。彼女はアメリカの情報局にいた専門家でした。すでに何度か説明しましたが、戦争マーケティングには人類学の専門家が登用されるんです。国同士が戦争をして生き死にを競っているのに、人類学の専門家がそんなに的外れなことを言わないと思います。

それから、そもそも虐殺があったのかなかったのかという論点があります。歴史に関しては、点として個々の事実だけを検証するのではなく、線として当時の流れを検証する必要があると思います。閔妃暗殺や三光作戦など、絶対に関係修復不可能だと思わせるような出来事が起きた裏にはいったいどういう意図があったのでしょうか。事実を線として繋げて理解するべきことがないか検証しようとする姿勢は重要です。関係ない世代だからと目を背けてはならない直視すべき歴史というのはあります。過去の事実を見定め、ぬぐい切れぬ感情を清算し、お互い未来志向で理解しようと努力する必要があります。でも、とても悲しい事ですが、このような過去の悲惨な出来事を克服しようとするのではなく、アジアで連携することを阻むために悪用しようとする人々が今もいます。そいう人々に操作されないためには、常に隣国と協調しようという姿勢で歴史を検証する視点が必要だと思います。そのためにも、大きな歴史の流れを見誤ってはいけないと思います。

話しを戻します。
日本軍はこの兵士の士気の高さに、戦略(論理性)が伴わず太平洋戦争でアメリカに敗北しました。異常なほど従順で残酷な強化兵を作り出すことには成功しましたが、技術力や兵站(ロジスティクス)をあまりにも軽視してしまったのです。ただ、そもそも戦争に勝てないことは米国に留学していた山本五十六も十分わかっていました。(山本五十六が米国のサプライチェーン(ロジスティクス)に驚いていた話は有名です)。

日本は勝てないことが分かっていながら戦争を始めてしまったんです。それで、一般には最初から講和狙いだったと言われていますが、そんなことあるんでしょうか。そんな都合よくいくと思いますかね、普通?本当にそう思ってたなら、最初から出来レースとしてスタートした戦争の可能性すらあると思います。昨今はこの辺りの裏話も含め、これまでの通説と違う見解もいろいろと出てきているようです。話の筋からそれるので裏話には踏み込みませんが、わたしは講和狙いというのはあまりにも不自然だと思います。

日本軍は兵站(ロジスティクス)を軽視したため、末端の兵士は生のままミミズやモグラを食べたり、果ては人間を食べたりしながら過酷な戦闘を強いられました。ニューギニアではそんな状況で何度も数千メートル級の峠越えをさせられました。最も過酷な戦場だったニューギニア戦線では、敵兵の食人が軍令で許可されるほど追い詰められ、果ては、口減らしのために意図的にバンザイ突撃させられるほどでした。食料が少なかったので、味方の兵士を減らすためにバンザイ突撃させられたんです。本当に無茶苦茶です。

ニューギニア戦線は最も過酷な戦場だったにも拘わらず(マッカーサーが兵糧攻めを行ったため)、メディアで取り上げられることはほぼありません。インパールやガダルカナルよりも過酷な戦場だったのに、一般にはほとんど知られていないのです。本当に酷い話です。一番過酷な戦場が報道されないんです。それは、軍令で敵兵の肉を食べることが許可されるほど過酷な戦場だったことと、口減らしのため日本兵がわざとバンザイ突撃させられた戦場だったからだろうと思います。

一番過酷な戦場で散っていった英霊をメディアが無視しているんです。酷いです。これもタブーなんです。日本では都合の悪いことは全てタブーなんです。ただ、生き残った人には取り上げてほしくない人もいるようです。個人としても語られたくないタブーがあるのです。そのタブーに切り込んだのが映画「ゆきゆきて、神軍」です。大手メディアもニューギニア戦線の真実を報道すべきです。空腹が原因で日本人が日本人を罠にはめ殺して食べた事実をしっかり報道すべきだと思います。

そもそもなぜ撤退を許さなかったのか。大本営が撤退や降伏を許さなかったことで各地で恐ろしい悲劇が起きました。なぜ過去に起きた悲劇をタブーとして隠蔽するのでしょう。何度も言っていますが、都合の悪い事実を隠すと教訓を得られないと思います。また同じ悲劇を起こしたいのでしょうか。きっと起こしたいのでしょうね。ワクチンを打て打てやるばかりで撤退できない日本はまた同じ歴史を繰り返していると思います。ワクチン災害という大災害が再び起きたことは、おそらく偶然ではないのです。
わたしは、都合の悪い事実をタブーにするのではなく、後世が教訓を得られるようにしっかり教えるべきだと思います。それこそが今を生きる世代の責任ではないのでしょうか。

アメリカ留学
1919年(大正8年)4月5日にアメリカに駐在を受命、ハーバード大学に留学した(~1921年5月5日)。アメリカに駐在する前の1918年(大正7年)から「ナショナルジオグラフィック」を購読していた。長男の山本義正は、2度目のアメリカ滞在から日本に戻った1928年(昭和3年)以降のこととして「(山本がアメリカから帰国してから1930年(昭和5年)まで住んだ)鎌倉・材木座の自宅には、ナショナルジオグラフィックがアメリカから毎月届きました。当時小学生だった私は、父より先に封筒から取り出して良く見たものです」「(山本の)本棚の半分はアメリカの歴史に関する本で、他に黄色い背表紙のナショナルジオグラフィックがたくさん並んでいました。付録地図もケースの中に大切にとってありました。父はアメリカを知るためのあらゆる勉強をしていました」と語った[35]。

アメリカ国内を視察し、油田や自動車産業、飛行機産業とそのサプライチェーンに強い印象を受けている[36]。日本では専売指定されていた砂糖と塩でさえ、アメリカでは、ともにプラントで大量生産され、市場で大量消費されていることをワシントンD.C.の喫茶店で身をもって知り、彼我の生産および流通の圧倒的な差に衝撃を受ける。後に軍縮会議出席のため渡米中、山本がコーヒーに多量の砂糖を入れて飲むのを見た同席者が「ずいぶん甘党ですね」と声をかけると、「できるだけ(仮想敵である)アメリカの物資を使ってやるんだ」と冗談で答えている。

このアメリカ滞在時に駐米海軍武官の上田良武大佐(海軍航空開発の第一人者)より受けた指導と視察、研究の影響が、航空機の活用に着目するきっかけになった可能性がある[37]。

日本人は昔から電波を軽視する傾向があります。今日におけるIT軽視も結局は同じことで、日本人は目に見えない現象を感覚的に軽視する傾向があると思います。一方アメリカは、索敵のためのレーダーやカミカゼ特攻に対抗するためのVT信管を開発するなど、無線技術を重視しました。無線傍受など情報戦においてもです。アングロサクソンは日本人と異なり、電波を重視します。つまり、論理的(科学的)なのです。(※ただ、わたしは脳が論理性を持つことは人類学的見地から一概に進化だとは言えないのではないかと考えています。そのあたりの考えをここで披露することは記事の趣旨とそれますので控えます。)

日本の軍部には精神論だけで勝てると本気で思っていた人がいたようです。大西滝次郎は2000万人で特攻すればアメリカに勝てると本気で最後まで上奏していたサムライでした。わたしにはよく理解できないのですが、サイパン陥落後、日本は制空権を奪われて絶対に負ける戦となったわけですが、精神論だけでそんな状況を覆し本当に勝てると思っていたのでしょうか。

日本は英国によって即席の技術力を与えられていましたが、頭の中は武士道精神でサムライでした。だから精神論ばかりで末端の兵士は武器として銃剣しか持たされず、ネズミやミミズを現地調達しなければなりませんでした。一方、アメリカ兵はニューギニアのジャングルでも缶詰が配給されて神父によるミサも行われていました。太平洋の島々で飛行機の滑走路を建設をするのに、日本兵はスコップで一月以上かけて建設しましたが、アメリカは大型重機を輸送してあっという間に作っていました。

話をまとめますと、結局のところ日本軍は、ミルグラム効果や麻薬によって兵士を強化することには成功しましたが技術力など論理性(科学的観点)が伴っていませんでした。兵站を軽視するなど統制力も伴わず(業務を統制できず)、兵士の略奪行為や虐殺行為も統制できず(組織を統制できず)、広範囲に悲劇をバラまくことしかできませんでした。そのことが契機となりアジア各地でレジスタンス運動が活発になったので、アクロバティックに日本がアジアを解放したと主張する人もいますが、この主張には無理があります。そもそも日本軍の悪行が各地でレジスタンスを生んだのです。ただ、終戦後、処罰されることを恐れた敗残兵には帰還せずに現地のレジスタンスを支援したものもいました。

日本人は論理的に考えることが苦手で、何かにつけ物事を「統制」するということが出来ない民族だと思います。日本人には管理者に業務や組織を統制するという観点が全くといっていいほどありません。これは戦前から一貫しています。JR西日本の脱線事故や福島の原発事故の原因も管理者が業務を統制できないことに起因しています。物事を俯瞰して統制し、効率的に動かすということが全くと言っていいほどできません。上でも語りましたが、日本人には哲学的視点もまるでありません。つまり本質論がないのです。日本人はこの哲学というのが異常に苦手で、思想的に世界の潮流を起こしたこともないし、世界の潮流に追いついたこともありません。物事の本質把握が大の苦手なのです。現場に責任転嫁して平気でふんぞり返れる人間が管理者として有能とされているおかしな社会なのです。

わたしは、日本人がITやAIが苦手なのは業務や組織を統制することが出来ない職人文化だからだと分析しています。戦時でさえ現場任せ、職人任せというのは本当に異常なほど論理性に欠けています。国家が生き死にを競っているのに現場を職人任せにしていたのです。このような体質にミルグラム効果が加わるので最悪の結果を生み出すのです。上から下まで全ての関係者が無責任なまま物事が進んでいってしまう民族なのです。部下は責任を上へ上へと転化できるのですが、上はその責任をとれるほど有能ではないのです。

最悪なのは、このような論理性の無さに「恥の文化」と「無慈悲さ」が合わさってしまっていることです。つまり、何事もコントロールするということが苦手な上に、異常に無慈悲で、加えて、ミスを隠そうとする性質が合わさっているのです。ベネディクトはこの要因について、日本人は宗教心がないことが原因だと述べています。心に神の戒律を持たないため、自制心を持つことができないのです。神に見られているという意識が働かないのです。
日本人には根底にこのような国民性(無宗教性)があるので、政治家であろうと学者であろうと、行政の指揮命令系統の中にいったん取り込まれてしまうと、同じ日本人に対しても平気で毒のワクチンを勧めてしまえる殺人者になってしまうのではないでしょうか。

このミルグラム効果ですが、現在は組織論に応用されています。(戦後、日本軍やナチスの精神構造を各国が真面目に研究してきました。)恐ろしい話ですが、戦後においても、軍部の精神論だった作戦要務令やらを真面目に企業経営に取り入れた大企業も多かったのです(日本は戦争を総括せず、米国の戦略もあって戦後も戦前と同じ支配構造が引き継がれたことが理由です)。自覚は無かったのかもれませんが、ミルグラム効果が企業経営に応用されてしまったのです。日本企業はミルグラム効果によって道徳の欠如した企業戦士を作り上げ、企業の論理を優先させてマーケットに平気で食品添加物や農薬、それから放射能に汚染された食品をばらまいています。産地偽装された食品や表示義務のないゲノム編集食品も平気でばらまいていますが、このようなことが行われてしまうのには構造的な問題が潜んでいることを理解してほしいと思います。戦後においても戦前の体質が引き継がれてしまったため(支配構造が変わらないため)、戦前と同じ価値観や体質が至る所に散見されます。つまり、日本はある意味でいまでも戦時体制なのです。戦争させるために作られた国家神道も引き継がれてしまった話はすでにしました。

残虐なことを平気で行えるのは「ミルグラム効果」が影響しています。そして、残虐な行為をしてしまえること、それを隠そうとするのには「恥の文化」(無宗教性)が影響しています。日本人は、指揮命令によって平気で倫理や道徳に反することが出来てしまい、簡単にその責任を上司に転嫁できてしまえるのです。一方でその行為自体は恥ずかしい事だという認識があるため隠そうという意識が働くのです。

日本は戦後もこのような恐ろしい企業戦士を作ってきました。ようするに、滅茶苦茶なことをしていつもそれを隠すのです。これは最悪の国民性です。自分の子や孫にまで被害が及んでしまうようなことですら平気でやってしまえる精神構造は異常です。今話してきたように、日本的な文化による洗脳によってこのような精神性が醸成されているのでしょう。もしそうでないなら、最初から脳に異常がある可能性があります。(実は、両面から研究が行われています。社会的共進化については脳科学による研究も進んでいます。服従を強く求められる文化が脳の遺伝的変容をもたした可能性もあります。実は、共進化による脳の遺伝的変異が予想されていたより早く起こることが最近わかり始めています。文化的定着が脳の物理的変容をもたらす事実を知っておく必要があります。取り返しがつかなくなるんです。)

このような日本人の「服従の習慣」や「恥の文化」といった社会心理的、文化的構造は戦前から英米に利用され意図的に改善されることなく今日に至ります。巨視的に見れば、結局、明治以降、戦争マーケティングによって操られ家畜化されたのは末端の兵士だけでなく日本人全員だったのです。わたしは、今日、日本は社会的共進化の人体実験場にされているのではないかと危惧しています。(過去、キツネを使って長期間にわたり共進化の研究が行われましたが、それが今、日本人を使って行われている可能性があるのです。)ただ、この類の話は陰謀論者もしばしば口にしており、わたしは不確かな情報をここで披露してこの記事の信ぴょう性に疑義をもたれても嫌なのでこの話も細部には踏み込みません。とりあえず重要なことは、ベネディクトやアーネスト・サトウが指摘したように、日本人は非常に操られやすい国民性であるということを認識しておくことだと思います。


次に、②宣伝(マーケティング)について語ります。

英国では世界のどの国よりも先に資本主義が発展し、金融システムが整備され市場(マーケット)が形成されました。金融システムが整備されることで株式市場が形成され資本集約型の産業も可能になります。当たり前の話ですが、金融市場の発展と産業の発展と共に、モノが効率的に売り買いされる物品売買市場としてのマーケットも発展しました(魅力的なモノを売ってる会社ほど大きくなるので)。その結果、英国ではモノをどのように売りこむか、という学問としてのマーケティングが発達しました。これも当たり前ですが、金融市場を操作(これもマーケティング)する手法も発達します(中央銀行による金融政策など)。つまり、資本主義の発達は必然的にマーケティングという観点(学問)を発生させるのです。重要なことは、種々の経済活動に対してマクロの視点が出来るということです。

ロイテル(ロイター)は英国の金融市場の情報を配信する通信社でしたので、このマクロな意味での市場というのをよく理解できていたと思います。つまり、情報の重要性と人間の行動心理を操作できることの意味をよく理解できていたということです。何が言いたいかと言うと、資本主義(金融システム)が発展すると、必然的にマーケティングという学問が発展し、通信メディアが発展します。そして、メディアによる市場操作技術も発展するのです。これは非常に重要なことで、つまり、資本主義(自由主義経済)が発展した国ほどメディアを使ったマーケティング技術(操作技術)が発達するのです。要するに、通信メディアを支配した側が勝ちになってしまうのです。現在、世界の三大通信社はAP(アメリカ)、AFP(フランス)、ロイター(イギリス)です。

マーケティングが戦争から発展したと言う人もいますが違います。基本的には、資本主義の発展と当時に生まれたものです。貨幣経済の発達に起因して金融システムが整備されることで必然的に生まれた手法といえます。余談ですが、昨今広く普及している認知バイアスマーケティングは戦争マーケティングから生まれました。行動経済学を応用した最先端のマーケティング手法である認知バイアスマーケティングを生み出したのは、イスラエル軍の情報局で戦争マーケティングを担当していたカーネマンです。恐ろしいマーケティング手法でこれまでの記事でさんざん批判してきましたが、ここでこの話まで踏み込むとかなり脱線になってしまうので割愛します。過去記事を読んでください。マーケティングの本質はいつの時代も同じで、マーケットにおいて対象者をだますこと、あるいは洗脳することです。これに尽きます。


当時日本で行われたマーケティングについて。
私が上で書いた文章を再度引用します。

当時政府が進めていた富国強兵策は大きく二つあります。工業発展と文化改革(思想洗脳)。文化改革は、①日本語改革、②国家神道布教、③優性思想布教(大陸卑下)です。富国強兵というプロパガンダ(マーケティング)は幕末より討幕派により行われましたが、基本的には江戸末期の陽明学の影響を受けています。朱子学が難しすぎて理解できなかった人に対して、陽明学が受け入れられるようになる(ジョン・ロールズ風に言うと、朱子学が社会契約論的正義論、陽明学が功利主義的正義論)。「社会」という概念は頭の悪い人にはイメージしにくいため、功利主義的正義論の方が受け入れられていくのです。(でも、その後、八紘一宇のようなコスモポリタニズム的短絡思想は簡単に受け入れられました)そこを英国が利用したと思われます。英米は、このような二元論的思想対立を巧みに利用して思想洗脳してゆくのが非常に得意なのです。時に保守思想、時に共産思想を利用して対立構造を煽りながら他国に食い込んでいきます。いまもウクライナで同じことをしています。下でもふれますが、当時は、岩倉具視、大久保利通らが功利主義的正義論者で、西郷隆盛らが社会契約論的正義論者でした。②は現人神となった天皇を中心とする新しい日本の国体の布教、③脱亜入欧のような思想の布教です。また下の方で話します。

日本は明治期に対ロシアの人間の盾になるために自ら進んで兵士になり殖産興業を行って軍事国家へと成長しました。そのために、四民平等、国民皆兵、富国強兵、脱亜入欧、日鮮同祖論、八紘一宇、大東亜共栄圏、、、、など様々なプロパガンダが利用されました。全て羅列して一つ一つ説明しても意味がないので、なぜ、そういうプロパガンダが成功したかについて見ていきます。

大アジア主義とは対極にある脱亜論の解説を下に引用しました。わたしは、福沢諭吉は現代で言うところのマーケターだと思います。わたしは、この人は、国民を兵士にするために詭弁で平等を掲げていた側の人だと思っています。四民平等も自由民権思想も、これも同じ話になりますが、本気でそう思って真面目にやってた学者や政治家と、結局戦争ありきで国民を兵士にしたいがために言ってた学者がいました。全体主義者が紛れ込んでいたのです。
なぜなら、明治政府はこのような四民平等というようなプロパガンダを掲げ制度改革もやりましたが、一方で農民を政策的に荘園制に縛り付け、兵士の供給源にしたり、外貨獲得のために「からゆきさん」の輸出を許容しました。これを二枚舌を言わずなんというのでしょうか。この国は女性まで国民皆兵にして売春婦として海外に売り飛ばしたのです。

国民国家を作ったわりに、何を守るべきかなのかまるで分ってないんです。みんな兵士にしてしまったわけですから。要するに市民が勝ち取った国家ではなく、上から与えられた国家なんです。都合よくいい国家を与えられるわけもなく、農民も女性もみんな兵士にされてしまいました。何のための国家かわからないんです。でも、これが近代国家の本質で、結局のところ、国民国家というのは、愛国心を煽って無償で兵士を手に入れるための装置なわけです。

みんな兵士にしてしまって国家として何を守りたいのかさっぱりわからなくなってるわけです。守りたいのは為政者の個人的利益だけなんです。自国の女性をみんな売春婦にしようとしてたんです。信じない人がいるのですが、冗談で言っているのではないです。これも歴史の事実で、日本は都合の悪いことをみんな隠蔽しているんです。(この思想が、実は、その後の従軍慰安婦、そして現代にも通じるJAVとなってゆくのです。日本のアダルトコンテンツの大量流通は意図的に行われている戦略です。そこを見誤ってはいけません。欧米は日本人の女性の裸を利用して、対共産圏、対イスラム圏の資本主義化・民主化を促しているのです。そういうことをほとんどの人がわかっていないのです。戦後、いつまでたっても日本人は奴隷扱いされ、女性の裸が売り物にされているのに、この国の家畜化された男性が問題を認識して奮起することはないのです。)

脱亜論
ヨーロッパを「文明」、アジアを「未開野蛮」とみて、日本はアジア諸国との連帯は考えずに西欧近代文明を積極的に摂取し、西洋列強と同様の道を選択すべきだとする主張。「脱亜入欧」も同じ意味である。欧米列強の圧力下に開国を余儀なくされた日本は、明治維新以降、積極的な文明開化政策を採用し近代化への道を進んだが、欧米文明に対しては賛美、反発の屈折した意識をもつ一方、日本と同じ境遇にあった中国、朝鮮などアジアに対しては、同情、蔑視(べっし)の複雑な意識をもった。こうした意識のなかから、欧米列強の侵略に対し、中国、朝鮮と共同して対処すべきだとするアジア連帯論や、列強に追随せずアジア諸国とは友好を維持して日本独自の道を開くべきだとする小国主義論がおこった。しかし、維新以来の文明開化が成功したとする日本=文明国意識が高まるにつれ、アジア諸国の近代化は期待できないとみるアジア蔑視感も強くなっていった。それはとくに1882年(明治15)以後の軍備拡張、84年の清仏(しんふつ)戦争における清国の敗北、同年の甲申事変による朝鮮開化派の敗退、自由民権運動の衰退という内外情勢の急激な推移とともに国権拡張論が高まる状況のなかで強まっていった。85年3月16日には福沢諭吉(ゆきち)が『時事新報』の社説で「脱亜論」を発表し、「我国は隣国の開明を待て共に亜細亜(アジア)を興すの猶予(ゆうよ)ある可(べか)らず、寧(むし)ろ其伍(そのご)を脱して西洋の文明国と進退を共にし、(略)亜細亜東方の悪友を謝絶する」と論じた。以来、脱亜意識が国民意識をしだいにとらえ、日本人の対アジア認識をリードしていくことになる。

小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)


よく考えてみれば、皆兵士にしようとしてるなんて頭がどうにかしてるとわかるんですが、当時はみんなマーケターの扇動によって騙されました。一番効果的だったのは、「自由と平等」というようなプロパガンダワードでした。実は、これが資本主義が世界中の人々を奴隷にできた仕組みです。つまり、「民主主義」です。金融システム、科学技術、メディアを自由に操れる巨大資本が支配するマーケットで民主主義が成立するわけないでしょう。考えればわかります。だって、人間を洗脳し操作できるわけですから。冗談にもほどがあります。でも、それに気が付いてない人がほとんどなんです。恐ろしいことですよね。

これが帝国主義時代から現代まで通じる最悪最強の戦争マーケティングなんです。巨大資本が誕生し、各地にあった植民地を飼いならしていくために自由や平等といった概念を植え込むのです。
もちろん、本気でそう思って支配してもらえればうれしい限りなのですが、そうじゃないから問題です。つまり、民主主義は奴隷制度が名前を変えただけの制度なのです。下の記事は参考です。

上に貼った記事で指摘していることは、ようするに、民主主義は奴隷制度だってことです。つまり、自由民権運動ですら、最悪のマーケティングだったのです。この視点はめちゃくちゃ重要です。こういうことを陰謀論だと考えず、真剣に「社会」をシステムとて俯瞰する必要があります。経済現象にしても社会現象にしても、マクロで捉える視点がないと、とてもシンプルな問題なのに日頃全く問題意識を持つことが出来ないのです。事実を陰謀論にしてしまって面白おかしく嘘に変えてしまう人々はかなり問題ですが、単に理解力がなく事実を陰謀論と捉えてしまう側にも問題があります。

マーケティングには大きく三つあります。①商用マーケティング、②戦争マーケティング、そして③グローバルマーケティングです。グローバルマーケティングというのは、複数の国家にまたがる地域支配や世界支配のためのマーケティングです。そのスローガンが自由・平等・平和なのです。このワードが出てきたら警戒レベルは最大でお願いします。わたしは真面目にこのような理想的な社会を夢見ていますが、残念ながら、ほとんどのケースにおいて嘘つきが使うワードとなり果てています。何度も言っていますが、こういうことを真面目に考えている少数の人と、単にプロパガンダとしてしか使ってない大多数の嘘つきがいます。

当時、これを真面目にやってた人を紹介します。
板垣退助。
板垣の欧州視察旅行でのスペンサーとのやりとりが面白いので紹介します。
以下、ウィキペディアの記述をいくつか引用します。

欧州視察旅行

岐阜事件後の11月11日、後藤象二郎と共に横浜を出発して洋行し、政治家のジョルジュ・クレマンソー、文豪ビクトル・ユーゴー、学者のハーバート・スペンサー、ソルボンヌ大学での西園寺公望の恩師にあたるエミール・アコラス(フランス語版)などと会談した。

特に1880~90年代の明治期日本では、スペンサーの著作が数多く翻訳され、「スペンサーの時代」と呼ばれるほどであった。たとえば、1860年の『教育論』は、尺振八の訳で1880年に『斯氏教育論』と題して刊行され、「スペンサーの教育論」として広く知られた。その社会進化論に裏打ちされたスペンサーの自由放任主義や社会有機体説は、当時の日本における自由民権運動の思想的支柱としても迎えられ、数多くの訳書が読まれた。板垣退助は『社会静学』(松島剛訳『社会平権論』)を「民権の教科書」と評している[97]。

1883年、森有礼の斡旋で、板垣退助がスペンサーと会見した時、板垣が「白色人種の語る自由とは、実質としては有色人種を奴隷の如く使役した上に成り立ってる自由であり、これは白人にとって都合の良い欺瞞に満ちた自由である」と発言したことに対して、スペンサーは、「封建制をようやく脱した程度の当時の未だ憲法をも有していない日本が、白人社会と肩を並べて語るには傲慢である」と論を退け、板垣の発言を「空理空論」となじり、尚も反論しようとする板垣の発言を制し「NO、NO、NO…」と席を立ち喧嘩別れのようになる一幕があった。

同年6月22日に帰国。皆がフランスでの華やかな話が聞けるものと集まったが、板垣は鎮痛な面持ちで、フランス流の革命思想および白人社会における「自由」の概念に関して鋭い批判を展開している[98]。

フランスという国は一言でいうならば非常に野蛮な国家である。表向きは自由や平等を標榜しながら、実際には世界中に殖民地を有し、有色人種を使役して平然とし、世界の貴族階級であるかのように振舞っている。かれらが「天は人の上に人を作らず」と唱える自由と平等は、白色人種にだけ都合の良い自由と平等であると言えまいか。私はこのようなことであっては決してならないと考えるのである。私が維新改革を憤然決起して行った理由は、かの国(フランス)に於ける革命主義の如き思想に出でたるものに非ずして、尊皇主義に徹した結果である。しかるに昨今は、西洋の主義に幻惑してこれを崇拝するが如くあるは、最もその間違いの甚しきものと言わざるを得ず。皆これを見誤ること勿れ。
— 板垣退助

しかし、民権家の中には、この考え方に異を唱えフランス流の革命思想を礼讃する一派もあり、結果、板垣らの民権思想と亀裂が生じ、一部の自由党過激派の起こした事件に激怒した板垣によって、自由党は解党することになる。
このような中で、日本では欧米諸国に追いつくよう、社会制度の研究が緊急課題となり1886年には浜野定四郎らの訳によるスペンサーの『政法哲学』が出版されるようになった。

板垣退助の大アジア思想

アメリカに於ける日系人の排斥に憤慨・抗議し、大江卓らと議してアジア人の団結を呼びかけ、白人勢力と対峙するべく決起を促す[113]。

白色人種は有色人種を軽蔑してゐる。有色人種といえば劣等人種のように考えて、まさに奴隷の如くに扱ってゐる。これが、私は本当に残念でならない。有色人種が団結し、優秀な文明を発揮して白色人種と平等な地位に立たねばならぬ。しかし、今の東洋の教育水準では、白色人種の持つ知識や科学の程度に到底太刀打ち出来ない。そこで自分の考えでは、東洋の中心たる支那に一大学校を建設し、印度人でも、南洋人でも蒙古人でも、チベット人やペルシャ人までも包括して、どんどん教育を施し、有色人種をして将来世界を牽引出来得る文明人種に育てあげなければならない。これを行うには先づ日本人がアジアの盟主となり、率先して有色人種を指導せねばならぬ。どうだ一緒に行動しようではないか[113]。
— 板垣退助

社会主義の脅威を予見

大正デモクラシーが流行する中、ロシア革命の影響により過激な社会主義や無政府主義が、進歩的思想として世に蔓延するのを憂い、また彼らが自由主義(リベラリズム)を隠れ蓑にして思想浸透を謀ろうとしている事に激怒し社会主義、共産主義の台頭に警鐘を鳴らした[9]。

私が一君万民、四民平等を理想とするのは、これがわが国の建国時の体制であったからである。ここで言う「平等均一」とは「権利の平等均一」を指すものであって、社会主義者の言う「生活の平等均一」を指すものではない。なぜならば、人間には各自、智愚、強弱、勇怯、勤惰等の違いがある以上、これによって生ずる生活水準は違ってしかるべきであるからである。特権階級のような、人為的な制度はこれを解体することが可能であるが、人格の光よりして出る天賦の才能は、自然に異なって当然で、何者の力によっても絶対にこれを平等均一にすることは出来ない。ところが、社会主義はこの自然の摂理に反して「平等」と「共産」を前提条件としている。ゆえに社会主義の性質の中には「平等主義」と「共産主義」を包含している。けれどもこの「生活上の平等主義」の目指す社会は「個人性」の消滅であり、本来人間が備えている智愚、強弱、勇怯、勤惰などの違いを除去した「絶対無差別主義」であり、切磋琢磨して個性を磨き才能を発揮する競争原理を必要としないため「絶対無競爭主義」となり、また私有財産を認めず、経済の基礎を社会に置き、唯一「労働」を条件として、社会全体の生活を平等均一にさせようとしている。社会主義者は「勞働は神聖にして人間は悉く平等無差別に勞働の結果を収め、平等均一の生活を求むべきものなり」と言うが、もし彼等の言うように全国民の労働の賃金を均一にしたと仮定しよう、本来なら労働の多い少ない、勤勉であるか不真面目であるかによって賃金が変動するものが均一にされたならば、誰が勤勉に働くだろうか。結果として競争原理が働かなくなり、日に日に社会は退歩し、生活の水準は低い処にあつまり、文明の発展、個人の自由は阻害され、自分で考える事すら出来ない動物のように社会主義の牢獄に閉じ込められ、社会全体が愚者の集合体となり、ついにはミイラのような社会となるであろう。このように個人の自由を阻害し、無理やり社会上における生活を平均化させるような社会主義は、自由党の唱える自由主義とは正反対であると私が説く理由である[注釈 2]。
— 『社會主義の脅威』板垣退助著

スペンサーという人物はかなりヤバい人です。
この人物についても、ウィキペディアの記述をいくつか引用します。長くなって申し訳ないのですが、この明治の自由民権運動は非常に重要なのです。それは上でも言った通り、自由と平等をプロパガンダにして日本を奴隷化してきているまさにその歴史的場面だからです。さらにいえば、自由と平等という進歩観念の根拠がダーウィンの論文だったということが重要です。なぜなら、スペンサーの話はインチキなんです。実は、ダーウィンは進化という言葉を使ってないんです。

日本におけるスペンサーの受容

1880~90年代の明治期日本では、スペンサーの著作が数多く翻訳され、「スペンサーの時代」と呼ばれるほどであった。たとえば、1860年の『教育論』は、尺振八の訳で1880年に『斯氏教育論』と題して刊行され、「スペンサーの教育論」として広く知られた。その社会進化論に裏打ちされたスペンサーの自由放任主義や社会有機体説は、当時の日本における自由民権運動の思想的支柱としても迎えられ、数多くの訳書が読まれた。板垣退助は『社会静学』(松島剛訳『社会平権論』)を「民権の教科書」と評している[8]。 1883年、英国公使の森有礼の斡旋で、板垣退がスペンサーと会見した時、板垣が「白色人種の語る自由とは、実質としては有色人種を奴隷の如く使役した上に成り立ってる自由であり、これは白人にとって都合の良い欺瞞に満ちた自由である」と発言したことに対して、スペンサーは、「封建制をようやく脱した程度の当時の未だ憲法をも有していない日本が、白人社会と肩を並べて語るには傲慢である」と論を退け、板垣の発言を「空理空論」となじり、尚も反論しようとする板垣の発言を制し「NO、NO、NO…」と席を立ち喧嘩別れのようになる一幕があった。このようなことがあった事から、日本では欧米諸国に追いつくよう、社会制度の研究が緊急課題となり1886年には浜野定四郎らの訳によるスペンサーの『政法哲学』が出版されるようになった。

スペンサーの愛読者であった哲学者の井上哲次郎は1880年代のドイツ留学中に、晩年身寄りもなくイギリスの地方を転々としていたスペンサーを探し、寄寓先のグラント・アレン宅までわざわざ訪ね、面会の記念に帽子と傘をもらった話を回顧録に残している[9]。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ハーバート・スペンサー

スペンサー

社会進化論は19世紀のハーバート・スペンサーに帰せられる。思想史的に見れば、目的論的自然観そのものは古代ギリシア以来近代に至るまでヨーロッパには古くから見られる。しかし、人間社会が進化する、あるいは自然が変化するという発想はなかった。 しかしラマルクやダーウィンが進化論を唱え、スペンサーの時代にはそれまでの自然観が変わり始めていた。スペンサーは進化を自然(宇宙、生物)のみならず、人間の社会、文化、宗教をも貫く第一原理であると考えた。

スペンサーは進化を一から多への単純から複雑への変化と考えた。 自然は一定した気温でなく寒冷と温暖を作り、平坦な地面でなく山や谷を作り、一つの季節でなく四季を作る。社会も単純な家内工業から複雑化して行き機械工業へと変化する。イギリス帝国が分裂してアメリカが出来る。芸術作品も宗教の形態も何もかもすべて単純から複雑への変化として捉えるのだが、単に雑多になるのではなくより大きなレベルでは秩序をなすと考えるのである。未開から文明への変化は単純から複雑への変化の一つである。その複雑さ、多様性の極致こそが人類社会の到達点であり目指すべき理想の社会である、と考えられた(ホイッグ史観)。従って、こうした社会観に立つあるべき国家像は、自由主義的国家である。このような考え方が当時の啓蒙主義的な気風のなかで広く受け入れられた。

スペンサー以後
社会進化論はスペンサーの自由主義的なものから変質し、適者生存・優勝劣敗という発想から強者の論理となり、帝国主義国による侵略や植民地化を正当化する論理になったとされる。その一方で、共産主義もまた社会進化論のパラダイムに則っていた。現にカール・マルクスは、進化論が唯物史観の着想に寄与したとしてダーウィンに資本論の第一巻を献本している。マルクスは、あくまで社会進化論が資本主義の存続を唱う点と一線を画し、資本主義自体が淘汰されると説いた。

エルンスト・ヘッケルは国家間の競争により、社会が発達していくという内容の社会進化論を唱えた。 ゴルトンは、人為選択(人為淘汰)によって民族の退化を防ぐために劣った遺伝子を持つものを減らし、優れた遺伝子を持つものを増やそうという優生学を提唱した。これは、人種差別・障害者差別の正当化に使われた。日本においては明治時代に加藤弘之・穂積陳重らによって社会進化論が紹介され、優勝劣敗を説く論理として社会思想に大きな影響を与えた。またその自由主義的な性格から、「進歩的思想」として受け止められ、自由民権運動にも影響を与えた。

また本来社会進化論的観点から言及されたものではなかったが、ニーチェ思想が与えた影響も無視できない。ルサンチマン、超人、力への意志といった概念であるが、遺稿『権力への意志』は妹エリーザベトの反ユダヤ主義による恣意的な編纂の面が大きい。これらは後世のナチズムによって原義とは違った解釈がなされ、優生学的政策の他、ドイツの「生存圏」を拡げ維持する理論として展開された。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』社会進化論

それからダーウィン。
いくつか引用します。

チャールズ・ダーウィンの進化論

チャールズ・ダーウィン。自然選択による進化の理論を提案した。
詳細は「自然選択説」を参照
チャールズ・ダーウィンは、1831年から1836年にかけてビーグル号で地球一周する航海をおこなった。航海中に各地の動物相や植物相の違いから種の不変性に疑問を感じ、ライエルの『地質学原理』を読んだ。そして地層と同様、動植物にも変化があり、大陸の変化によって新しい生息地が出来、動物がその変化に適応したのではないかと思った。1838年にマルサスの『人口論』を読み自然選択説を思いついたと自伝には書かれている。ハトの品種改良についての研究でさらに考えがまとまっていった。

1858年にアルフレッド・ウォレスがダーウィンに送った手紙に自然選択説と同様の理論が書かれていたことに驚き、自然選択による進化理論を共同で発表したダーウィンはさらに執筆中であった『自然選択』と題された大著の要約をまとめ、1859年11月24日に『種の起源』として出版した。

種の起源』のなかでは、現在の「進化」を指す用語として、あらかじめ内在的に用意された構造の展開出現を意味する"evolution"ではなく、「変更を伴う由来」(Descent with modification)という語を使っている(evolutionの原義については下の項目を参照のこと)。また自然選択(natural selection)、存在し続けるための努力(struggle for existence、現在では通常生存競争と訳される)、そして後の版ではウォレスの提言を受け入れ自然選択をわかりやすく説明する語としてハーバート・スペンサーの適者生存を使用した(生存競争や適者生存は誤解を招きやすいために近年では用いられない)。これらの要因によって環境に適応した形質を獲得した種が分岐し、多様な種が生じると説明した。

ダーウィンの説の重要な部分は、自然淘汰(自然選択)説と呼ばれるものである。それは以下のような形で説明される。
生物がもつ性質は、同種であっても個体間に違いがあり、そのうちの一部は親から子に伝えられたものである。
環境収容力は常に生物の繁殖力よりも小さい。そのため、生まれた子のすべてが生存・繁殖することはなく、性質の違いに応じて次世代に子を残す期待値に差が生じる。つまり有利な形質を持ったものがより多くの子を残す。
それが保存され蓄積されることによって進化が起こる。
生物の地理的分布や、異性間に起きる選択である性選択についても説明した。
当時は DNA や遺伝の仕組みについては知られていなかったので、変異の原因や遺伝についてはうまく説明できなかった。ダーウィンの遺伝理論はパンジェネシス(パンゲン説)と呼ばれ、獲得形質の遺伝や当時主流であった融合遺伝を認めていた。また発生と進化を明確に区別していなかった。
変異はランダムな物であると考えた。ここで言うランダムとは「規則性が全く無い」と言う意味ではない。ダーウィンは変異について確実なことを述べられるような知識を何も持っていなかった。変異がランダムであるとは、変異それ自体には進化の方向性を決める力が内在しないと言う意味である。
進化を進歩とは違うものだと認識し、特定の方向性がない偶然の変異による機械論的なものだとした。
「自然は跳躍しない」という言葉で、進化は漸進的であると主張した。これは「進化は一定速度で進む」事を意味しない。文字通り跳躍的な進化を否定するのみである。進化は小さな遺伝的変異の蓄積によって起きる。その結果として、体節数の変化のような大きな形態的変化が起きる可能性はあるが、目や脳などが一世代でできることはない。
一つあるいは少数の祖先型生物から全生物が誕生した。そして一つの種が二つに分かれる過程を種分化と呼んだが、種分化のメカニズムに関しては深く追求しなかった。
ダーウィンは、進化の概念を多くの観察例や実験による傍証などの実証的成果によって、進化論を仮説の段階から理論にまで高めたのである。

ウォレスは性選択説を認めず非適応的と思われる形質(例えばクジャクの羽)も自然選択で説明しようと試みたが、これは現在の優良遺伝子説に近い説明であった。またウォレスは人間の高い知性や精神的能力は神のような超自然的存在の干渉によるものだと考えた。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』進化論より


自由という概念がスペンサーの社会進化論に基づいていることは重要です。そして、その社会進化論はダーウィンの進化論から来ている。(実は、ダーウィンは進化とは言っていない。)
最近、進化というのは嘘っぱちではないかと言われ始めています。
実のところ人類は退化していて、生態系の破壊者という意味では滅びに向かっている可能性すらあります。下の記事はこの記事とは趣旨が違いますがご参考。

板垣退助は真面目に自由民権運動をやってた感じがしますが、征韓論を主張する一方で大アジア主義を主張したり、場当たり的で感情的な人のように思います。でも、彼はとても重要なことに気が付いていました。
自由民権運動に影響を与えたスペンサーという人の思想は、典型的な西欧中心主義の思想です。彼は生物の環境適応を進歩観念で捉えていた人です。いわゆる傲慢な西欧合理主義者です。あまり頭がよくないと思います。基本がズレているのにこじ付けだけが異常に得意な人は結構いますが、彼もそのタイプです。完全に主観の上に理論構築されているんです。土台が主観なので理論が完全に砂上の楼閣なのです。それに基づいて教育論やら国家論を語っているので手に負えません。こんな頭のおかしい人が一時期注目を浴びていたのは完全に金融資本のマーケティングでしょうね。マックス・ウェーバーと同じで完全に主観に基づいて社会現象を追認評価しているだけです。
考えればわかることです。みなさん、もっと賢くなりましょう。まっとうな顔してトンデモ論を吹聴している人間は多いのです。上で書いた日鮮同祖論のところでもそうだったでしょう?支配(侵略)するための詭弁なんです。ろくでもない人間が欧州にも滅茶苦茶いるのです。板垣は白人にも論理矛盾したアホが多いと気が付いたところは偉かったと思います。でも、結局彼のやった事は日本国民の四民平等という国民皆兵のための家畜化です。人間牧場です。資本主義が必然的に奴隷制度を求める恐ろしいイデオロギーだということに気が付きながら、テクニカルな金融システムの仕組みが分からなかったのでそれを防ぐことができなかったのです。そりゃあ、近代化するのに何でもかんでも西欧に依存してたら一番大事な金融システムは支配されてしまいますよね。
つまり、上手く騙されて金融システムの一番重要な部分を奪われて(メディアも)、民主主義という人間牧場制度を導入してしまい、英国の完全な傀儡国家となったわけです。資本主義と資本主義が必然として求める奴隷制としての民主主義を盲目的に取り入れてしまったことが、日本の終わりを意味していました。

少し余談ですが、時代をもっと下ると、上に紹介したジャレド・ダイアモンドやレヴィ・ストロースなど、西洋合理主義に批判的な学者が出てきます。
西欧はころころ主義主張が変わるので気をつけるべきです。
レヴィ・ストロースの主張を少し紹介します。

彼の問題意識はサルトルの実存主義という主体偏重を批判し、西洋社会における、西洋中心主義に対する批判的意識から出発している。前者に対しては、主体ではなく、主体間の構造こそが重要だと主張し(主体が使う言語は共同体社会によって生み出された構造主義的なものなので、絶対的な主体ではありえない)、後者に対しては、どのような民族においてもその民族独自の構造を持つもので、西洋側の構造でその他の構造に対して優劣をつけることなど無意味だと主張した。

なんのこちゃ分からないと思いますが、ようするに、構造主義の視点から(人類学的手法と言語学的手法を用いて)、西欧中心主義の押し付けを止めなさいと言ったんですね。彼は、文化に優劣はつけられないということを、哲学的な論理性を用いて構造として証明しようとしました。スペンサーと言ってることが真逆なわけです。

マーケティングの話に戻します。

戦争マーケティングの中で、②宣伝マーケティングは、商用マーケティングに近いマーケティングです。当時も今と同じで、通信社、新聞社、雑誌社などのメディアを使って国民を洗脳しました。それに、文人や学者が加担していきました。

当時は大手新聞社含め多くの文人や学者も戦争支持に回りました(大手メディアは外務大臣・青木周蔵の密約以降は実質的にロイテル傘下)。漱石も、あの白樺派も結局は戦争に賛成し、実篤らも戦争に加担しました。なんと実篤は日本文学報国会の幹部に転身。もうめちゃくちゃ。ちなみに藤村もです。なんと戦陣訓の作成に加担しました。政府は文人を使ってスローガン的な訓戒を作り上げていったのです。軍人勅諭もそうです。朱子学をパクって都合よく軍人や国民を縛り、最終的には降伏も許さずみな自害(玉砕)に追い込んでゆきました。儒学者の元田永孚もこれに加担。精神論的な文章を作ったのは文人や儒学者なのです。文芸春秋の創立者である菊池寛も文人として積極的に戦争に加担した人として有名です。

みなさんは今日においても日本人を死地に追い込んだ文人の書いたものを、そういう事実を知らずに楽しそうに読んでるわけです。書かれたものは本人の考えとは別だと言う人もいますが違います。当時の作品はプロパガンダとして書かれたものも多く、大陸を卑下したり、軍人を礼賛したり、売春を賛美したり、よく考えてみるとおかしな記述が散見されます。読むこと自体に反対はしません。ただ、時代背景をきちんと知った上で、注意しながら読むべきだと言っているのです。

ロイター通信社

ユダヤ系ドイツ人のポール・ジュリアス・ロイターはフランスのアヴァス通信社(現フランス通信社)で通信社の経営を研究した後、ロンドンに移り「正確かつ迅速」なニュースの集配で信用を築く。1851年には英仏海峡における海底ケーブルを使ってパリの相場情報、ロンドンの金融情報を各地に配信を開始した。金融街における信用を築き東方への道を開いたロイターは1870年に元の勤務先、及びドイツのヴォルフと市場分割協定を結びAP通信(1892年に発足)が基盤を持つアメリカを除く世界のニュースを3社で独占。この「大同盟」は、APに破られるまでロイターの世界支配の基盤となった。このためテリトリーとなる極東にはアジア・ハイウェイ(上海 - 長崎、ハバロフスク - 長崎)が上陸してすぐに、幹部を派遣して視察している(支局については不明な点が多い)。彼等の目論見どおり日本の新聞社は外信を欲し中国・日本における「ロイテル電」はロイターのドル箱となり、この「宗主国」を富ませていた。

日本との関係では、日清戦争期の1894年7月26日に青木周蔵と密約を交わしている[1][2]。内容は五箇条である。4が契約として曖昧な項目となっている。

1. 青木は、日本政府が公式に発表するニュースをロイターだけに提供する。加えて、日本の近代化を深く理解できる出版物と、政治・軍事に関する特別電報とをロイターへ送るよう日本政府へ働きかける。
2. ロイターは、政治関係電報を公表前に青木に知らせる。国益に関わるものはロイター社独自に集めた情報も与える。
3. 日本政府は毎月50ポンドをロイターに支払う。
4. ロイターは日本の財政と商業の必要に応える。
5. 契約は1894年8月1日から1年間有効とする。

1899年、国内10紙と契約[3]。東京日日新聞、日本新聞、萬朝報、東京朝日新聞、毎日新聞、中央新聞、都新聞、国民新聞、中外商業新報、報知新聞。1901年、電報の漏洩を禁じて12社と契約[4]。ジャパンタイムズ、時事新報社、東京朝日新聞、読売新聞、東京日日新聞、中央新聞、都新聞、報知新聞、萬朝報、国民新聞、日出新聞、日本新聞。

『新聞総覧』大正7年版「株式会社日本電報通信社発展史実」によれば、電通が創立後間もなく倫敦ルートル社と特約を結んでいる。契約時期は不明。

[1]
^ Reuters Archive Record. Archive No. 1/8714059. Location LN238.
[2]
^ 翌年11月1日、伊東巳代治が新契約を締結したが、支払金がほぼ変わらないのに④のようなロイターの負担はなくなった。
Reuters Archive Record. Archive No. 1/8715544. Location LN236

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2022.9.24


新渡戸の「武士道」もそうです。なぜ外国人に日本の宗教を訊かれて武士道なんでしょうか。そんな馬鹿な話はありません。武士道なんて体系化されてないし、最初読んだ時、内容があまりにも薄くて非常に違和感を覚えました。日本の宗教は古来より韓神を中心とした神道です(神仏習合の時代も長くありました)。でも、朝鮮由来の神道では国民国家の建設に都合が悪いからといって神道から韓神やら朝鮮性を排除したのです。それで、いきなり武士道が出てきたわけです。でも、その一方で日鮮同祖を喧伝したり、当時はもう滅茶苦茶一貫性がないわけです。二枚舌だったんです。

上でも述べましたが、結局のところ、明治以降の国家神道は天皇を現人神として(大教宣布詔)韓神を排除しているので、国民国家建設用の新しい神道ということになります。廃仏毀釈が政府の神道国教化政策というのは嘘です。伝統的な神道の布教はなく、新宗教の布教政策なのです。とにかく、国民を兵士にするために、仏教など余計な思想と共に、邪魔になった神道の本来の神である韓神も廃し、新宗教である国家神道のわかりやすい概念として、儒教思想を捻じ曲げた武士道や脱亜論のようなスローガンを吹聴したのです。従順な兵士をつくりあげるためです。

ようするに、それまでも仏教も神道も捨て去ったのです。

新宗教である国家神道を布教し、軍人には捻じ曲げた儒教思想を取り込んだ軍人勅諭を叩き込みました。
政府はマーケティングの重要性を知っていましたので、当時マーケティングのための専門部署を整備してゆきました。下の方にマーケティング部門の変遷をまとめました。

日鮮同祖論の話をしたので、八紘一宇の話もします。
日本は朝鮮侵略を正当化するために日鮮同祖論という詭弁を使いましたが、その後、海外侵略を正当化するために大東亜共栄圏や八紘一宇といったプロパガンダを利用しました。これは、記紀にある神武天皇にまつわる発言をアクロバティックに改変してスローガン化した共産主義的な理念です。
本気で考えているような体で吹聴しているので、当然、真面目に理念に賛同する人がたくさん出てくるわけです。沢山信じる人が出てくるので、(プロパガンダの圧力で)兵士がバンザイ突撃してくれるようになる。虐殺も頻繁に起きました。今のワクチン接種と同じです。社会のために、老人のために、家族のために、というスローガンを掲げると日本人が皆バンザイ突撃をしてしまうのです。いつの時代も同じことをやっていますよね。

こういうことは明らかに国家神道を利用した悪質な戦争マーケティングなので、戦後GHQは神道指令を出して国家神道を禁止しました。同時に、天皇は人間宣言を行い、これにより天皇は現人神ではなくなりました。ただ、すでに上でも語りましたが、実質的に国家神道は戦後も温存されることになりました。日本と朝鮮半島を分断するため、そして、日本を対共産圏の盾とするためです。

何度も言いますが、そもそも神道の伝統的な神様は「韓神」であって神武ではありません。「韓神」はニギハヤヒやスサノオの神様です。神武は全くフィクションで架空の人物です。三笠宮様も言っておられます。
武士道や脱亜論と同じで八紘一宇も新宗教のようなものです。問題は韓神の隠蔽なんです。本来の神様を排除したことで多くの新宗教が生まれたのです。長々と書いている理由は、韓神が国体を堅持する上で本来いかに大事な神様だったかということを言いたいからです。戦後、本来の神様を排除したまま天皇が人間宣言をしてしまったために、新宗教が沢山生まれたのです。戦後も、本来の神様である韓神が、日本と朝鮮半島を分断するために復権しませんでした。これで、この記事の最初あたりの話につながったと思います。平凡社は真面目に国体を考えていると思います。だから、しっかり「韓神」に関する書籍を出しているのです。新宗教がダメだと言ってるのではありません。本来国の軸となるべき神様が排除されフィクションが踏襲されたせいで、必然的にたくさんの新宗教が生まれてしまったという事実を言っているのです。そして、その排除が米国の策謀である可能性がある。日本人自ら新宗教を選ぶならともかく、外国の力によって日本の本来の神が排除されているなら由々しき事です。
神道指令後も天皇が神社の最高神主とされ韓神の形跡は完全に消されてしまいました。最高神主ってなんなのでしょうか。ちょっと知識がなくてわかりません。


このあたりを加筆・修正しています。


政府は「宣教使」という新しい官庁を創立した布教しようとしましたがうまくいかず、情報部が新聞メディア、文人、学者を使ってマーケティングするようになります。
お相撲さんでも国体を武士道と言ってる人が勘違いしています。お相撲さんをプロパガンダに使ってるならやめるべきです。日鮮同祖論にしても大アジア主義にしても神道国教化にしても、すべて二枚舌なのです。

そして、その一方で新しく国語を
韓神に年次の感謝の奉告をしている天皇からしたら、政府のやり方に疑問を持たないわけがない。天皇家の祖神が国家によって排除されるなら、天皇家はたんなるお飾りでしかない。


今もそうです。国家の象徴として、東アジア各国との失われた絆を取り戻そうと頑張ってこられた皇室の想いを軽視し、朝鮮人ヘイトをまき散らしプロレスをやりながら日韓を分断しようとする今日の政府に対して、今上上皇陛下は激怒して退位されたのではないでしょうか?

※そういえば、大嘗祭の時にテレビでは新天皇はアマテラスに奉告するといってました。私はあれ?って思いました。大嘗祭で奉告するのは韓神のはずです。それじゃ、やっぱり韓神がアマテラスなのでしょうか。

1870年2月3日大教宣布詔 天皇を現人神に

明治2年7月8日神祇官内に宣教使を設置 神道儒教を基本とした国民教導

1871年8月29日廃藩置県

明治4年8月8日1871年9月22日)神祇官を神祇省と改める

1872年4月21日教部省設置と宮中祭祀の切り離し、宣教使の廃止 教導職の設置 教導職は半官半民の任命制であり、神官神職僧侶などの宗教家を始め、落語家歌人俳人なども教導職に任命された。結局うまく機能しなかった。

1940年神祇院 設置 敬神思想の普及に努めたが特に目立った成果をあげないまま、神道指令を受けて、1946年(昭和21年)1月31日限りで廃止

1945年 神道指令 覚書は信教の自由の確立と軍国主義の排除、国家神道を廃止、神祇院を解体し政教分離を果たすために出されたものである。

1946年神社本庁設置 。内務省の外局であった神祇院の後継的存在であり[7]宗教法人法に基づく包括宗教法人である。

酔っぱらいすぎて何が言いたいのかよくわからない項目になってしまいました。そろそろまとめに入ります。

結局、日本は欧米帝国主義と戦うために国民国家の建設を急いでいたわけではないんです。日本は明治維新によってすでに英国に乗っ取られてしまっていたんです。明治政府は最初から単にロシアと戦うために富国強兵政策の一貫として思想洗脳(国民国家観の刷り込み)を行っていたということです。ようするに、ロシアと戦うための兵士を無償で確保するための思想洗脳なのです。近代における国民国家建設の理由は、日本に限らず、兵士を無償で確保するのが主目的なのです。ロシアは麦を売りたいだけだったのに、日本は明治の初期から戦争する気満々だったのです。

ここまで記事を読んで来られた方には、国家とはいったい何か?国家主義とは何なのか?ということをもう一度よく考える機会にしていただければ幸いです。そもそもロシアは産業革命を興すための資金を捻出するために麦を売りたかっただけなんです。そのために不凍港を求めて極東に進出してきたんです。ロシアはそもそも侵略目的で極東に出てきたわけではなかったという点を再認識してほしいと思います。世界史の授業でもしっかりと習うポイントです。素直な気持ちで歴史を読み返し、自分なりに真実を見極めようとする姿勢が重要です。過去を見極めることによって現在わたしたちが置かれている立ち位置がより明確に見えてくるはずです。

明治政府は兵士を確保するために敢えて荘園制(農奴制)を温存して政策的に東北の農家を貧乏なままにしました。兵士の供給源としたのです。そのことが金融恐慌と相まって大変な惨状を引き起こし、その後の血盟団事件などに繋がってしまうんです。国民を兵士にするためにわざと貧乏にしておいたのです。女性もわざと売春婦に堕としてたんですよ。みなさん、わざとなんですよ。国家がわざとそういうことをしたんです。そういう事実を知ってほしいと思います。

それから日本は海外から中国人や朝鮮人を強制的に連れてきました。ここでは詳細に踏み入ることはしませんが、これも政府がやったんです。炭鉱夫や建設労働者にするためです。彼らが日本の殖産興業の礎となったんです。アヘン売買や人身売買をする商人(女衒)を育てたのは政府なんです。本当に酷い話です。こういう話をすると嘘だ!と言う人がいるんです。国がそんなことするわけない!って言う人が沢山いるんです。歴史を勉強してないって本当に恐ろしいことだと思います。日本にはちょっと調べればわかることなのに調べない人が本当に沢山います。だからみんなコロナワクチンを打ってしまったんだと思います。歴史を勉強してない上に、何かにつけ自分で調べてみるという習慣がないから政府を信じ切るようになるんだと思います。この記事では戦争の詳細にはあまり踏み込んでないですが、「死の鉄道(Death Railway)」や「ロウムシャ」という言葉は海外でも有名です。日本政府は日本人を奴隷扱いしましたが、海外では外国人を奴隷扱いしてました。

日本は明治から英国の、戦後は米国の傀儡ですが、そもそも日本人の論理性の無さ、統制力の無さ、無慈悲さは異常です。日本人には反省すべきところが沢山あると思います。それから、ベネディクトが指摘した日本人固有の「恥の文化」は恐ろしい狂気を生むということを常に心にとどめておくべきです。上でスペンサーを批判しましたが、戦後庶民としての日本人に自由をもたらしたのは板垣ではなくアメリカです。戦後日本人に家畜並みの自由をもたらしてくれたのは日本政府ではなくアメリカなのです。そのことも理解しておく必要があります。単にアングロサクソニズムを批判するのではなく、我々には自戒の念を持ちながら未来を模索してゆく姿勢が必要だと思います。

明治維新以後、天皇制政府は、農業と農村を重視するかのような農本主義的思想をしばしば振りまいたが、寄生地主制など農村の封建的要素を取り除かず、これを天皇制の一つの経済的基礎として資本主義を発展させた。この半封建的土地所有制下の農村は、低賃金労働者と兵士の豊かな供給源となり、農民は収奪に苦しみ窮乏を続けた。

とくに1927年(昭和2)から繰り返された大恐慌は、農村に壊滅的打撃を与え、なかでも東北、北海道などの寒冷地帯では、飢え死に、凍死、自殺、一家心中などの地獄絵が現出した。

 こうした状況も反映して、昭和初期には、いわゆる昭和維新、国家改造運動と結び付いた農本主義が現れた。権藤成卿(ごんどうせいけい)、橘孝三郎(たちばなこうざぶろう)によって唱えられた農本自治主義である。権藤が1932年の血盟団事件に連座し、橘が同年の五・一五事件に7名の「農民決死隊」を率いて参加、無期懲役の刑に処せられたことから農本自治主義は一躍注目を浴びた。

小学館・日本大百科全書「農本主義」



英米はなぜ隣国と仲良くすることを阻むのか? 

※この項目は先の項目以上に本当にかなり泥酔して書いたグダグダ記事です。これまで上で語ったことの繰り返しが延々続きますので時間の無い方は飛ばしてください。削除も考えたのですが、面白いことも書いていたので結局残しました。

国民を政策的に貧乏にして兵士の供給源にするなんてにわかには信じられないかもしれません。でもそれが歴史の事実なのです。東北の農民を荘園制に縛り付けて意図的に農奴にしていたんです。だから血盟団事件など悲惨な事件が起こったんです。現在もすでに労働者の四割が非正規にされています。これを政府の失敗だと言う人がいるんです。日本が30年成長しなかったのは政策の失敗だと言う人がいます。それは間違いです。わざとです。わざと政策的に成長させなかったんです。冗談で言っているのではないです。

小泉政権時に日本は金融ビックバン(外為法改正など)を契機に国際競争へと舵を切りましたが、日本はこの国際競争を価格競争だと捉えました。その時以来、今日まで長年行ってきているのが円安政策と労働者の非正規化です。白川総裁(日銀総裁)など一部のまともな管理者の時代を除いて、日本は一貫してやるべきことと正反対の金融政策を行ってきてるんです。日本は新興国と国際競争をするのに、その新興国と価格競争しようなんて馬鹿なことをやってきたんです。これは明らかにおかしいわけです。そう思いませんか?明らかにおかしい政策をメディアを使って正しい政策のように吹聴してきたんです。恐ろしいことに、今も日本のメディアはそういう報道をしているんです。

少しだけ細かなことを言いますと、外為レートは本来各国の物価や金利が同じになるよに変動するものですので(ファンダメンタルズに基づいて変動するものですので)、これをテクニカルに操作しても貨幣錯覚を生み出すだけです(逆に実体経済に悪影響を与えるのです)。企業の利益が増えているのは外貨換算上の利益が増えているだけで(見かけ上の利益が増えているだけ)、実体として経済成長してるわけではないんです。ようするに、空洞の論理(インチキ)なのです。幻想を増幅させるだけのいびつな金融政策なんです。長年にわたり多くの国民を低賃金奴隷にしながら貨幣錯覚によってあたかも企業の利益が増えて日本経済が上向いているかのように装ってきたんです。つまり、経済成長に結びつかない経済政策を長年やってきたわけです。企業を甘やかせて努力しないよう骨抜きにしたという表現も可能です。

今行われている経済政策は、戦前、意図的に東北の農民を貧乏なままにしていた経済政策とある意味で同じです。なぜ為政者は今もそんなことをしているのでしょう?なぜ我々は今も貧乏なままにされているのか?そのあたりについてみなさんにも素直な視点で改めて考え直してほしいと思います。年金政策も同じです。あえて脆弱にされています。わざとです。これもにわかには信じがたいと思いますが本当なのです。少し前まで生命保険会社は退職時に3億必要だとかめちゃくちゃなことを言ってました。それが今は2000万まで下がった(笑)。完全に国民の不安を煽ってるわけです。年金不安を煽って低賃金の非正規奴隷が文句を言わず必死に働かざるを得ない状況が作り出されています。年金制度というのは国民を奴隷化するのに非常に有効な制度なんです。

みなさん勘違いがあるんですけどね、今の時代、合法的に奴隷制度を作り出せるんです。何度も言っていますが、「自由と平等」は詭弁です。我々はそういうイデオロギーの中で暮らしているということをしっかりと自覚すべきだと思います。民主主義というシステムは、考える力を失って傍観者になる人が過半を超えた時点で人間牧場になるんです。こういう話しを陰謀論だと考えずに、自分の身の回りの経済現象や社会現象に関心をもって自分で調べてみることが肝要だと思います。なんでも陰謀論として面白おかしく語る人は無能で非常に問題ですが、自分の身の回りのことに関心を持たず何も調べずに聞きなれない話を陰謀論として即座に切り捨てるのも問題です。これまで語ってきたように、日本は都合の悪い事実を徹底的に隠す国です。現代は「分業」が深化して社会の中に目に見えない箇所が非常に増えていますが、自分の知らないこと・分からないことが、誰か他の人によって適切に運営されているという期待を持つのは危険です。面倒な時代ですが、専門外の事にも関心をもって何かにつけ自分で調べる癖をつけておかないと本質を見誤る可能性は高くなると思います。

自分で調べてみることで、日本人は政策的に貧乏にされているだけではないことにも気が付くはずです。日本は農薬使用量世界一、食品添加物使用量世界一、水道の塩素濃度世界一、世界で初めて放射能汚染食品を食べて応援する国です。それから、ワクチン接種率8割となりWHOもCDCもビックファーマも新拠点を設ける国となりました。これはとても名誉なことです。このような国は他に類を見ません。誇らしいと思います。日本には人体実験場としての資格が与えられたのです。何度も言いますが、冗談で言っているのではないです。アングロサクソンはとても頭がいい民族だと思います。ノーベル経済学賞の受賞者のほとんどが米国から出ています。彼らによって余すことなく日本人が有効利用されているんです。骨まで食べてもらえる魚みたいでなんだかうれしいですよね。

なぜ、戦後70年経った今でも日本国民はそのような扱いをされるのでしょう?これがこの項目の本題です。

これまで語ってきたように、日本は明治期に英国の傀儡国家にされてしまい、それ以降、他のアジア諸国との仲を意図的に分断されています。最初はロシアの南下政策を防ぐことが英国の目標でした。今は、対共産圏の防波堤としての役割を担わされているんです。
江戸期から明治期に行われた思想洗脳は(国学の普及、陽明学の普及、武士道精神の普及)、ウクライナのマイダン革命(2013)後におけるナチズムによる思想洗脳とそっくりのです。すでに話したように、明治維新自体がウクライナのマイダン革命と同じ欧米の策謀(クーデタ)でした。つまり、幕府軍と討幕派は意図的に分断させられ、戦争させられたということです。

それから、これも既に何度も話してきましたが、ウクライナと日本は地政学的にに対ロシア南下政策の砦なのです。だから似たような事が起きてしまうのです。学校の世界史で習いますよね。陰謀論じゃないんです。世界史の授業でもしっかりと習うところなんです。問題はまともに世界史を勉強してない人々が陰謀論のように話すことなんです。それによって一般の人々にフィクションのような話しだと認識されてしまうのです。アホが真実を語ると、一般の人々にはこのような話しが事実ではなくフィクションだと認識されてしまうのです。

(追記:2023.6.3)マイダン革命については下の記事をご覧ください(最初の動画)。

長州藩がマセソン商会ら英国の支援で力をつけたのは有名な話です。長崎のグラバー園で有名なグラバー商会はマセソンの日本支部であり、薩長にも幕府軍にも武器を売っていた武器商人なんです(アヘン商社でもあり武器商社でもありました)。日本人を殺し合わせてボロ儲けしたんです。その表の顔が坂本龍馬だったという説があるそうですが、わたしは詳しく知りません。興味のある方は調べてみて下さい。
ちなみに、このような関係は戦後も今も続いています。政治の世界でも経済界でも。明治維新によって日本は完全に支配され、それまでとは全く違う国となってしまったのです。

念のため補足すると、英国も遊びで日本を支配して享楽的に日本人に戦争させたわけではないです。大英帝国としてはロシアの南下をどうしても阻止したかった。黒海から下りてこれなくなったロシアが、次に日本海から下りてこようとしたので阻止しようとしたのです。ロシアは英国のように産業革命を興したくて資金を調達するために麦を売りたかった。だから麦を輸出できるために凍らない港である不凍港が欲しかった。帝国主義国(覇権主義国)の争いに、日本や朝鮮は巻き込まれてしまったのです。

麦を売ってお金に替えたいだけなら交渉の余地はなかったんでしょうか?おそらくあったでしょうね。でも、欧米にはどうしてもロシアを叩き潰したかった勢力があった。巨大資本やそれまでロシアから迫害を受けた人々など、いろんな勢力が混ざり合ってロシアに対して強い敵意を持っていたようです。それで、日本人は思いっきりロシアにぶつけられてしまいました。
※この話、今も同じなんです。今も似たような構図でウクライナで戦争しています。だからしつこく語っているのです。この話は現代に繋がるのです。

今考えると、当時日本で起こったことは全ては必然で、もうどうにもならない時代だったという気もします。戦争に加担してしまった人々が、どうしようもない絶望のなかで仕方なく加担してしまったのだとしたら、気持ちは分からなくもないです。でも、文人が武器をペンに代えて巧みに国民を戦争に誘導したような罪は、許されることではないと思います。

映画「風の谷のナウシカ」の舞台はウクライナです。映画で描かれている風の谷の草原はウクライナの麦畑ですよね。クシャナはロシア人でしょう。おそらく、ピョートル大帝やエカチェリーナ2世の頃に行われた南下政策を描いたのではないかと思います。映画の中でもトルメキアは滅茶苦茶してましたね。ロシアも当時滅茶苦茶してました。結果、農奴の解放が遅れ、貨幣経済が浸透せず(資本集約型の産業が興らず)、工業の発展が遅れたのです。

工業の発展が遅れたのはロシアの自業自得という側面もありますが、ジャレド・ダイアモンドによればすべては地理的要因で、ある意味で運なのだそうです。彼は西欧は単に地理的要因によっていち早く工業化し力を得たと言っています。ようするに、偶然だということです(マックス・ウェーバーとは真逆)。彼は鳥居龍蔵と似てフィールドワークが得意だった人のようで、そのことで真理(摂理)に到達した人のような気がします。

とても怖い事なのですが、文明は偶発的・突発的要因によって発展したり滅んだりするようです。そういう流れの中で、結局人類は徐々に滅びに向かっているような気もします。西欧は地理的要因・偶発的要因により資本主義と科学主義を手に入れたのです。偶然強くなっただけなのに、他の民族よりも優れていると勘違いして、傲慢になってしまい本質において無根拠な科学を究極化させてきました。完全に進歩観念にとらわれてしまったんです。

進歩観念にとらわれた西欧合理主義は、仏教などアジアの自制的な思想と根本において違うものです。アジアの思想は元来、西欧の論理主義(科学主義)とは違い直感把握を重視する思想です。実は、このアジアの直感的な思想や人間の美的感性を重視する思想(カント)が元になって西欧でも実存哲学が生まれ、その実存哲学が今日において構造主義やポスト構造主義など反科学主義を先導する思想に繋がっています。お釈迦様の現象把握から2500年も遅れて、西欧はようやく東洋の思想に追いついたのです。

すこし脱線したので話しを戻します。日韓の関係について。
明治政府は英国の策謀によって起きたクーデタ(明治維新)によって誕生しますが、その後、日本人の中には中国や朝鮮など大陸諸国と共同・協調して欧米の帝国主義に対抗しようという考えの人達も多く現れました。大アジア主義と言います。英国にしてみれば、せっかく、対ロシアの人間の盾にするためにクーデタを起こして日本を支配したのに、大アジア主義という思想によって逆に中国や朝鮮によって日本が取り込まれたら意味がありません。だから、大アジア主義を完膚なきまでに叩き潰しました。その象徴的な事件が「閔妃暗殺事件」でした。大アジア主義をぶっ潰しておきながら、一方で李垠を政略結婚させて、形式上は日本と朝鮮の皇室は親戚という建前を作ったのです。(最終的には廃絶に追い込もうと画策しました。)

つまり、明治期から日韓の関係は分断政策を基本としながら(大アジア主義を阻止しながら)、いざという時だけ協力して対ロシアの人間の盾となるようにもされているわけです。神道ではなく国家神道をでっちあげて布教したことで日本の基本姿勢はかたまっていたんです。明治期から今日まで、分断を基本としながら英米にとって都合の良い時にだけ日韓の関係は改善が図られてきました。

(ここから追記(別で書いた記事を張り付け):2023.6.3)
既に話してきたように、日本と朝鮮は古代においてもともと一つの国でした。学者や政治家はみんな知ってるんです。その思想(日鮮同祖論)を元に強引に併合した経緯もあって、今日、朝鮮の売国奴(親日派)と日本の売国奴がつるんで両国の国民を奴隷のように扱っています。満州閥と言われる血脈です。売国奴同士がプロレスしてるんです。そうさせているのはもちろんアメリカです。プロレスというか相撲なんです。これも上で話しましたが、「相撲」は、日本と朝鮮が戦争をして離れ離れになる切っ掛けを作った古代における大きなイベントを意味しています。学者や政治家はみんな知ってるんです。知らないのはみなさんだけです。

なぜ英米は隣国と相撲をさせるのでしょう?答えは簡単です。
防共の盾でもありますし、仲たがいさせることで武器も売れるし、戦争になれば投資をして利益を得ることができるからです。紛争は英米にとっては単なる投資なんです。言ってる意味わかりますか?
ようするに、資本主義にとって共産主義は必要悪なんです。


英米にとって戦争は投資なのです。
英米というか、資本主義社会にとって戦争は投資なのです。

経済学者の宇沢弘文は、シカゴ大(経済学ではとても権威のある大学)の教授にまで上り詰めた人物でしたが、アメリカの経済学者がベトナム戦争に積極的にコミットする姿に辟易して日本に帰ってきたと言われています。アメリカでは、費用便益分析を使って戦果を計算していたそうです。

費用便益分析というのは、投資判断の際に用いられる意思決定モデルで、ようするに、戦争を投資にみたててコストとベネフィットを計算していたようです。人間の命なんて関係ないんです。でも、これはアメリカ人が悪いというより、資本主義(自由主義)がそういうものだってことなんだろうと思います。アメリカにも当時戦争反対の人は沢山いたわけですから。

ベトナム戦争を思想面から支えていた経済学者がウォルト・ロストウという人物で、テイク・オフ理論で有名です。ロストウは大統領補佐官という立場でベトナム戦争を指揮しました。第二次大戦中には情報局にいた人で、根っからの共産主義(ソ連)嫌いとしても有名です。そのロストウ(米)と日本との政治的関係から、宇沢には圧力がかかることになりました(と思っています)。ロストウは沖縄返還を条件に、日本にベトナム戦争への協力を要求したんです。そしてその裏で日米は、核を沖縄に持ち込めるよう密約を結んでいまいた。

それから、わたしがいつも文句を言っている行動経済学の礎を築いたのがカーネマンという経済学者で、彼の理論が、認知バイアスマーケティングに応用されています。この人も情報局にいた人で、戦争プロパガンダのプロです。行動経済学は戦争マーケティングから生まれた経済学で、だからこそ人間の認知機能の欠陥を調べまくってきた経済学でもあります。昨今のマーケティングが、人間の認識の構造(欠陥)を悪用して行われるのは、こういう経緯があるからです。

わたしは、いつもこのような思想や手法に文句を言っているのですが、それを生み出した経済学者にとりわけ腹を立てているわけではありません。なんていうか、わたしはそういうものが必然として生まれたと思っていますので。ようするに、進歩観念に囚われた資本主義の末路です。このイデオロギーは、戦争すら投資にしてしまうんです。だから、いろんなところで紛争を起こしまくっています。

でもこれ、野菜や果物に農薬をかけまくったり、食品に添加物を入れまくったりしてるのと同じです。他人なんかどうなってもいい、死んでも構わない、というのが資本主義の行き着いた先の答えです。バレなきゃ他人なんて死んでもいいのが資本主義です。アダム・スミスが他者への「共感」を理論構築できなかったからです。わたしたちは、そんなイデオロギーを選択し、その中で生活しているんですよ。そして、そんなイデオロギーが結晶化したのがコロナワクチンです。

アメリカのジャーナリストや鹿先生が言ってることが事実なら、コロナワクチンは他人の生き死にを上手くコントロールしながら金儲けする手法です。でも、この辺りのやり口はフーコーが言ってた通りになったという感じでしょうか。たしかフーコーは、生権力という切り口から、医療の意味を問い直そうとした人でしたよね。そして、大局としてみれば、ボードリャールが言うように、結局、資本主義の行き着いた先の大量消費社会は家畜の檻を自分たちで作ることに切磋琢磨する社会でしかなかった。

ウクライナ戦争に関連して、西側の投資家や投資機関の実名を挙げて批判する人がいますが、本質論で言えば、そういう投資家が一概に悪いというわけではないんでしょうね。資本主義っていうのがそうさせるイデオロギーなんです。ただもちろん、「ルターから今日に至るまで」そういうイデオロギーをもっともらしく流布して、権力を維持しようとしてきたという意味では悪です。でも、「どんな生徒たちだって、人に対してなされた悪とそれへの復讐について学習するようになるもの(オーデン)」では?
(追記おわり)

次の項目でもふれますが、朴正煕のクーデタや、その後の反共思想の刷り込みなど、戦後様々な工作活動が繰り広げられて、今日も三か国は意図的に分断されています。
こういうことは幕末から行われているんです。幕末に幕府軍と討幕軍に分断され、明治期には大アジア主義として極東諸国と協調しないように分断されました。その分断は戦後も今日まで続いているんです。本当に酷いです。日本は朝鮮を侵略してしまいましたが、日本もある意味で被害者です。本質論としては、日本と朝鮮半島は両者ともに被害者であると言えると思います。

※重要なことは、戦前も戦後も、日韓は両国とも、ロシアの南下政策を防ぐための人間の盾とされていることを理解することです。さらに世界に目を向けるなら、共産圏と国境を接するユーラシアの国々ではいたるところで意図的に分断工作が行われて紛争の火種とされていることに気が付くはずです。朝鮮半島では朝鮮戦争によって同じ国の人同士が戦わされました。ベトナムもです。中央アジアや、中東でも。東欧も。民族対立や宗教対立が意図的に煽られて紛争に結び付けられてきました。本当に酷すぎます。英米は世界中で分断工作をやっているんです。分断すると儲かるからです。彼らにとってはそれが投資なのです。仲たがいさせて金儲けしてるんです。これが資本主義の行き着いた先の答えであり正体です。

※もう一つ重要なことは、大局として歴史の流れを見るということです。英米やロシアを単純に悪者にしてはいけません。ここでは英米を悪く語ってますが、彼らに資本主義や科学主義が行き着く先を理解してほしいのです。これはチョムスキーが同じ視点でいつも語り掛けています。ルネサンスやルターの宗教改革が生まれた経緯を知り、貨幣経済(資本主義)が発展した先に必然的に行き着く未来を予想し、破滅を回避する方法を考えることが何よりも重要だと思います。貨幣経済は抑制がなければ今のような世界(金儲けのためなら他人が死ぬことを厭わない価値観)を生んでしまうことは当たり前で必然なのです。プロテスタンティズムはルターがいなくても必ずどこかで発生し、今のような世界を作ったのではないでしょうか。農耕牧畜という計画経済が生まれたときに決まっていたと思います。あるいは、人類が生まれたときに決まっていたのです。いや、もしかしたら、ビックバンによって宇宙が誕生したときに決まっていたのかもしれません。

抽象的な話になってしまったので話しを戻します。
アメリカは基本政策として日韓を意図的に分断してきたのに、ウクライナ戦争に際して日韓に仲良くしろと言っているんです。都合がよすぎですね。わたしたちはまた対ロシアの人間の盾にさせられようとしています。日露戦争がもう一度起こるかもしれない。日本はすでにSWIFT停止を主導してロシアに先制攻撃を仕掛けてしまったんです。みなさん自覚がないようですが、これは本当に大問題なんです。(でも、ロシアはそれが分かっていて、日本の挑発には乗らずなんとか我慢してくれているようにも見えます。)
このような時代だからこそ、上で日韓併合前後の状況をかなり詳しく説明したのです。教訓が多い。過去を今に生かすべきです。
当て馬にされて無駄死にするのは嫌じゃないですか?明治維新後、対ロシア南下政策の盾にされ、そしてまた、今まさに、盾にされようとしている。

戦後、なぜポダム(アメリカの工作員)が日本に原子力発電所を作りまくったかご存じですか?いざとなったら爆破するためです。原子爆弾と同じなんです。ウクライナのサボリージャ原発もそうです。だからウクライナが必死でこの原発を狙っている。プーチンが核兵器を使おとしている!と言って西側は非難していますが、原子力発電所を攻撃するのは核爆弾を撃ち込むのと同じです。核を使おうとしてるのは西側なんです。これを分かってない人が多い。
日本は労働者の4割が意図的に非正規労働者にされて、低賃金でブラック労働を強制されています。自分の事で精一杯で他の事に思いが至らないのは当たり前です。とても巧妙に日本人が衆愚化され、人間の盾とされていることが私は怖い。本当に怖いです。
私がここまで書いてきたことを心にとどめながら、宮崎駿の映画「風の谷のナウシカ」という作品を、いまこそ再度見てほしいです。風の谷の舞台となったウクライナは、今、ロシアに対する当て馬として使われ、国民がどんどん死んでいっています。そういうことが、まもなく日本でも起こるかもしれない。わたしは、もう二度とそういうことが日本で起きてほしくないと思っています。

それから、もう8割の人がワクチンを打ってしまった。
自分の健康に多大な影響を与える可能性のあることですら8割の人は自分でちゃんと調べない。忙しいからしかたないですね。意図的にお笑い番組ばかり見せられて骨抜きにされてしまった。お笑い垂れ流しによる衆愚化政策と同時に進められたのが労働者非正規化政策。みんなバカにされてしまったと感じます。アメリカは中露との戦いをちゃんと想定し、日本を衆愚化してきたんです。いつでも兵士にできるようにです。本当に頭がいいと思います。見習うべきです。中国や韓国は戦後しっかりと敗戦から学びを得ているように感じますが、日本は何をやってるのでしょう。

なぜ歴史の話にワクチンの話をぶっこむのか?
アメリカは国家というより巨大資本の連合体が正体です。金融資本を頂点として、石油・製薬メジャー、農畜産メジャー、軍産複合体などの巨大資本が運営している国です。(アメリカは実は農業国でもあり、化学メーカー含め農畜産メジャーも巨大な権力を持っています。)
敗戦した日本が巨大資本にカモにされるのはある意味で当たり前と言えば当たり前かもしれません。食品添加物や農薬漬けにされた食品や、成長ホルモンでブクブク太った牛や豚を食べさせらるのは必然なのかもしれません。資本主義がマーケットを家畜化していくのは必然です。でも、こういうことをちゃんと考え、声を上げていくのもまた必然。私のようなことを考え、声を上げ始める人間が出てくるのも必然です。だから文句を言わせてもらってます。

母子手帳の中でワクチン接種がスケジューリングされ、盲目的に接種することが当たり前になっているため、みな疑問を抱かなくなっています。大人になっても何も疑問を抱かずに盲目的に毎年多くが定期接種をしている状況。
こういう状況は、日本人の免疫システムを無視したワクチンの押し売の側面があります(すべてではない。ただRNAウイルスは変異しやすく、原則としてワクチンを使うのは要注意なんです(DNAウイルスとRNAウイルスと二種類ある)。

そもそも、人間の免疫機構には未だによくわかってないことが山ほどあるんです。近年ハッキリしてきたことは、免疫にメモリー機能があり(自然免疫にも獲得免疫にも)、過去感染した型、それから新型でも似ている方に対しては、もともと備わっている免疫がかなり有効であるこが分かってきています。そういうこともあって、ワクチンを打って人工的に抗体を操作すると、せっかく持っていたメモリーが阻害されてしまうことがあるのです(抗原原罪と言います。ワクチンによってメモリーが上書きされてしまい、今後その抗体しかできなくなるなど、デメリットが多いのです。)とにかく、そもそもRNAウイルスに対するワクチンは原理的に作ることが非常に難しいことを知っておいてください。基本的に作れないのです。だから、もし作れたと言う人々が現れたら、めちゃくちゃ丁寧に機序を調べる必要があります。

私が書いた参考記事を貼っておきます。一番下の理研のリリースは完全に隠蔽されている情報。ちゃんと声を上げている医師や研究者もいることをしってほしいです。

兵庫県の長尾先生は、8割も打たされたことを第二の敗戦だと言っています。今、まさに戦争が行われていて、どんどん日本人が殺されて行っている状況なのに、ほとんどの人が気が付いていない。わたしはこれをサイレントウォー、サイレントジェノサイドだと言っています。長尾先生はもう完全に敗戦したと言って意気消沈しておられます。でも、諦めたらそこで終わりになってしまいます。
ちょっと余計な話をしすぎたかもしれません。
しかし、戦後の対中露政策という意味で語るなら、このワクチンの話をしないわけにはいかないのです。
ただ、ジブリや神話からワクチンまでつなげるのはやりすぎかもしれません。この辺りの記述は後日削除します。(放置の可能性もあり)

ということで、この項目はこれで終わります。
次に、戦後の分断工作に関連して、補足しておきたいことを語りたいと思います。


戦後の朝鮮半島との関連におけるタブー


この項目は加筆中です。


核開発の闇を追加すること 


朝鮮人に対し犯した三つの大罪。戦後も続く分断工作の中で和解するためのカギ

アメリカは戦後、日本と韓国、日本と北朝鮮、韓国と北朝鮮を意図的に対立させてきました。そうすることによって何重にも対共産圏の砦を作ってきたんです。また、そうすることで利益を得てきたわけです。対立を煽ることで武器が売れますからね。

ただ、韓国の立ち位置は微妙です。かつて日本に侵略され、その後アメリカや国連軍によって同じ国民同士で戦争させられた経緯もあり(朝鮮戦争)、韓国には西側に盲目的に追従することをよしとしない人々も多いのです。戦後日本が韓国財閥を育ててきた経緯もあり財界同士は仲良しですが、韓国は儒教の国で(キリスト教国でもある)そもそも正義を重んじるお国柄です。日本とは違い「罪の文化」なのです。それに、上海協力機構の経済圏(中露印などユーラシアにまたがる経済協力圏)は巨大で無視できない。韓国は歴史的な経緯から建前として西側陣営に所属していますが、西と東の緩衝地帯にある国としてバランスを取りながら外交をしてゆく必要があるのです。そもそも日本やアメリカに振り回されて現在のような境遇におかれていることを理解している国なわけで、最近は明らかにアメリカに追従することをめんどくさく感じているような印象がありました。

そんな状況下でウクライナ戦争が起きました。
ウクライナ戦争が起きた理由はは下の記事の「②「NATOは1ミリも東方拡大しない」と約束したのは事実。」として紹介した動画をご覧ください。伊勢崎氏がその理由を語っています。この項目では在日朝鮮人について語りたいのでウクライナ戦争については語りません。


とても滑稽なのは、NATOが始めた今回の戦争に関し、本来日本と同様に第三者であるはずの韓国が中立でいようとするのが気に入らず、アメリカや西側諸国が一生懸命に韓国を西側に引き入れようとしていることです(紛争の当事者に加えようとしていることです)。バイデンがわざわざ韓国に訪れて媚びを売りまくっていました。そのために日韓のフッ化水素戦争もやめて仲良く知ろと言い出しました。
(※日韓併合前後と同じですね。歴史は繰り返されます。基本として分断しながらも、日鮮同祖という論理を使いました。分断しながら、場合により協調できるようなトリックも仕込んだんです。)

なぜ滑稽なのか?
そもそも戦後一貫して日韓を分断してきたのはアメリカだからです。(日韓の財界同士は基本的に仲良しですので(下で説明します)、分断政策というのは要するにプロレスなのです。両国の国民同士の対立感情を煽っているだけです。政権によって濃淡はありますが、戦後一貫してプロレスを見せられているわけです。)
アメリカは本当に都合がよすぎます。世界中から嫌われるのは当たり前の話です。日頃わざと仲たがいさせて武器を売り込んでくるのに、いざとなったら協力しろと言ってくるわけです。

日韓の分断政策の中でも、特に問題なのが在日朝鮮人(を作り出した政策)だと思います。なによりもまず、「平和条約国籍離脱者」という言葉を知ってください。わたしはこの言葉を取り上げたくてこの記事を書いてきました。なので、ここからは思いっきり文句を書かせてもらいます。

わたしは戦中に日本国籍であった朝鮮人がなぜ戦後国籍をはく奪されたのか最近まで知りませんでした。昨年、ネットで偶然この言葉を知り本当に驚きました。

法務府民事局長という何ら権限をもたない人が勝手に国籍を離脱させるような行政手続きを行ったことを後で最高裁判所が追認したのです。そもそも離脱させる法的根拠がないのになぜ最高裁が追認できたのでしょうか。
本当にぶったまげました。
通常このようなケースでは国籍選択の機会を与えたり二重国籍とするケースが一般的のようです。あたりまえですよね。日本が併合して日本国籍を与えて日本人にしたのになぜ強制的にはく奪したんでしょうか?考えてみればおかしすぎます。
「平和条約国籍離脱者」に関しては、知れば知るほどあまりにも酷い話だと感じました。
結局のところ分断工作なんです。
わざと差別の対象にされたんです。分断工作のためにです。本来なら日本人だった人たちがスケープゴートにされたんです。差別の目が彼らに向くようにしたんでしょう。民族的にも人種的にも日本人と大して変わらない人たちが政策的に差別の対象にされてるわけです。本当に酷いですこれは。
この分断政策は「日鮮同祖論」が隠蔽されてることとセットだと思います。
わたしはこの事実を知ってしまったのでここで声を上げます。
これは知る者の義務だと思います。

ここでもう一度上で紹介した星野の「日鮮同祖論」を引用します。
日本はこの論理で韓国を併合したんです。
「日本人と朝鮮人は言語的にも人種的にも同一である」
と書いてあります。これが韓国併合の根拠なのです。
でもこれ、日本政府にとって都合が悪いので戦後完全に隠蔽されたんです。
そして在日朝鮮人という被差別階級が意図的に作られたのです。酷いです。
こんな重要な事実を完全に隠蔽して学校の教科書にも載せないんです。
いくらなんでも酷すぎませんか?
意図的に被差別階級を作り出してるんです。本当ににぶったまげました。
70年も意図的に被差別階級に堕とされてる人々が身近にいたなんて、、。
日本は「日鮮同祖論」を根拠に併合したんです。なぜ、戦後朝鮮人から日本国籍を剥奪したんでしょう??おかしすぎるでしょこれは。

星野は記紀の研究を通して、1890年の「本邦ノ人種言語ニ付鄙考ヲ述テ世ノ真心愛国者イ質ス」と題する論文において、「皇室は半島の支配者で、半島と列島はもともと一国であり、日本人と朝鮮人は言語的にも人種的にも同一であるゆえ、半島を再び皇室の領土に編入させるのは当然である」と主張した[注 1]。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』日鮮同祖論より抜粋)

日本は明治から戦後にかけて朝鮮に対して大きな誤りを三度犯したと思います。
一度目が侵略です。これは上でも長々と述べました。看板としての日鮮同祖を掲げ、それを根拠に強引に併合してしまった。同じ民族だから併合していいなんて道理があるわけありません。次の引用はこの問題を考える際に参考になると思います。アメリカはハワイを策謀で無理やり併合したのです。詳しくは踏み込みませんが、アメリカは後にその併合を違法だと認めています。アメリカがハワイを併合した事実を知らない人も沢山いますよね。

「植民地支配は違法」が国際常識に

「植民地支配は当時から違法ではないか」という見方もあります。韓国では、日本による植民地支配は「違法に占領されていた」と考えられています。また、ハワイはかつて独立していましたが、1898年にアメリカに併合されてハワイ準州になります。ハワイは「アメリカが合法的に併合したわけではない」と主張しており、1993年11月、アメリカ議会はハワイの併合に至る過程が違法だったと認め、公式に謝罪する両院合同決議を採択しています。

https://biz-journal.jp/2019/07/post_108951.html

それから、二度目が上に記載した「平和条約国籍離脱者」の扱いです。
終戦時に朝鮮人から日本国籍を強制的に取り上げたことです。これは国家犯罪だと思います。とんでもないですよ、政府も司法も本当に。人間ですか本当に?外国人に生活保護を与えることがどうのこうのなんて問題は完全に陽動じゃないですか?本来なら日本人でしょ?わたし、「平和条約国籍離脱者」という言葉を最近知りましたけどね、これは本当に酷いですよ。現在進行形で政府が意図的に身分制度やってるじゃないですか。本当にビビりますこれは。とんでもないですよ、国際社会も、韓国政府もいったい何やってるんですか?韓国からみても、これは日本の厚生省が戦後満州や朝鮮でやった棄民政策と同じじゃないですか?韓国政府も問題ありですねこれは。韓国政府も棄民したんですね。日本はこんなことをしておきながら朝鮮学校に補助金を支給しないとかやってたんですね。開いた口がふさがりません。敢えて作った被差別階級をいじめまわして票に結びつけてるんじゃないですか。本当に人間ですか?本当に信じられません。

そして、三度目が戦後賠償です。
日本は戦後賠償をしていません。賠償したというメディアの報道は嘘です。あくまでも「経済協力金(独立祝い金)」を支払っただけです。それは、日本政府が、日韓併合を合法だと主張しているので、賠償をしてしまうとつじつまが合わなくなるためです。本当に日本は酷いです。しかも、その協力金で漢江の奇跡を起こしたのは、朴正煕政権ではなく、実際は日本と日本企業です。朴正煕政権は日米の傀儡政権でした。そのお金に日本の政治家や企業が群がったのです。日本は経済協力金を韓国に支払ったと言いながら日本企業に還流させたんです。クーデタで樹立した朴正煕政権下で、日本が戦後韓国経済も支配し、韓国財閥を育てたのも実は日本です。だから、韓国経済界と日本経済界は基本的に仲が良かったんです。実は、戦後日韓の経済界の関係は非常に良好なんです。日本が育てたからです。それが壊れたのが上でも少し述べたフッ化水素戦争です。日本の政治家はこれをプロレスとして企画しましたが、フッ化水素戦争は日韓を分断することになった大変な戦争なんです。日本人はフッ化水素戦争にもワクチンによるサイレントウォーにもロシアに仕掛けた金融戦争(SWIFT停止)にもまるで気が付いていない。深刻さにまるで気が付いていないんです。本当にどうなってるんでしょうか、この国の人々は。メディアが戦争だ!と言わなければ戦争は始まらないと思っているようです。

日韓基本条約を締結した当時の外相・椎名悦三郎(しいな・えつさぶろう)が1965年11月19日の国会で、「協定によって韓国に支払った金は、経済協力でありまして、韓国の経済が繁栄する気持を持って、また新しい国の出発を祝うという点において、この経済協力を認めたのでございます」と語り、賠償ではなく“独立祝い金”だったと明言した。

https://dot.asahi.com/wa/2019072100005.html?page=3

事実、3億ドルの性格については椎名悦三郎外相は次のように答弁している。「請求権が経済協力という形に変わったというような考え方を持ち、したがって、経済協力というのは純然たる経済協力でなくて、 これは賠償の意味を持っておるものだというように解釈する人があるのでありますが、法律上は、何らこの間に関係はございません。あくまで有償・無償5億ドルのこの経済協力は、経済協力でありまして、韓国の経済が繁栄するように、そういう気持ちを持って、また、新しい国の出発を祝うという点において、 この経済協力を認めたのでございます」(第50回国会参議院本会議1965年11月19日)有名な「独立祝い金」答弁である。

https://toyokeizai.net/articles/-/247496?page=3

引用を見ていただければわかりますが、日本は賠償をしてないのです。
だから、徴用工や慰安婦に対してちゃんと個人賠償してあげてください。
慰安婦に関しては、国連の委員会から色々言われているとはいえ(国連の委員会は被害者の総意を得てない合意として反故にすべきと勧告)、両国に合意ができたならとりあえずは良かったように思います。ただ、歴史的な事実を隠蔽するのはいけません。この問題は太平洋諸国とそこを植民地にしていた欧米各国にまたがる世界的な問題です。世界中の議会で慰安婦決議が行われて日本が批判された事実なんてまるで日本では報道されないんです。隠蔽することは良い結果を生まないと思います。過去の過ちを教訓にしていくべきです。徴用工も同じです。「死の鉄道」建設などは、世界的には有名な悲劇を象徴する言葉です。
徴用工に関しては保留状態です。強制労働はなかたような口ぶりの政治家が多いですが、そもそも、ユネスコの軍艦島演説で強制労働を認めたのは当時外務大臣だった岸田首相です。ユネスコに約束した「強制労働があった事実の周知」もやらないし、日本は滅茶苦茶ですよ。申請の時は強制労働を認めて、世界遺産になったとたん強制労働を認めたことを翻しました。それで次は佐渡金山なんて本当にもう滅茶苦茶すぎます。酷いです、本当に。人間ですか本当に?約束したことを守らないというのはどういうことなのでしょうか。東アジア全土に被害者がいる問題なのに韓国との分断工作に使って良い結果を生むと思っているのでしょうか?いい加減にしましょう。

三つの大罪ということで長々と書いてきましたが、それぞれ語ってきた問題が巧みに分断工作に使われているということを皆さんは知る必要があります。分断工作に使われているんです。つまりプロレスを見せられているだけ、興行相撲を見せられているだけなんです。感情的にならず冷静に論理的に考えて、英米の策略にはまらないことが肝要だと思います。それが和解のカギとなると思います。


保守とは何か?

真の国体を求めること、でしょう。
西部邁が真正保守を名乗っていたのはそういう意味だと思います。真に正しい国体を堅持することです。

為政者によって歴史は隠蔽されるし、意図的に差別される人々も作り出される。こういうのは悲しいです。やめましょう。
なぜやめるべきかは、上で紹介したジャレド・ダイアモンドを読んでください。わたしの過去記事を読んでください。宮崎駿や上橋菜穂子が作品に込めた意味を知って理解してください。

※この記事がナウシカから入ってるのは、日頃関心のない方にも隠蔽された歴史の事実を知ってほしかったからです。さすがにここまで読んでくださった方は少ないと思いますが、全く知識のない人でも出来るだけ付いてこれるようになるべく平易に書いたつもりです。引用も極力ネットから引きました。もう間もなくこの記事は終わります。ここまで読んでくださってありがとうございます。

為政者による歴史の隠蔽や自己保身的な工作により文明崩壊や経済破綻がもたらされる可能性があるなら、それを止めようとするのが保守です。あたりまえの話です。昨今、ウソ偽りの国体を堅持することが保守だと考えている人が多いですが、洗脳されてないでしょうか?隣国と意図的に仲互いさせる政策が保守なんておかしいと思います。

これも時間があったら読んでみてください。
西部邁はすばらしい人です。しっかりと朝鮮人のことを書いていました。

西部邁「友情 ある半チョッパリとの四十五年」


今上上皇陛下は正確に事実を知ることが必要と言っています。上にも貼りましたが、もう一度下に貼ります。

わたしがこのダラダラと長い文章で歴史から隠された部分ばかり取り上げてきたのは、みなさんと正確な事実を共有したいと思ったからです。
朝鮮人にまつわる隠蔽された歴史を知ることは、日本という国の本当の姿を知ることに繋がると思います。星野によれば日本と朝鮮はもともと一つの国でした。古代に起きた戦争によって離れ離れになりましたが、元々は同じ民族、同じ人種だったのです。その点を度々強調してきました。歴史的な経緯により離れ離れになったとはいえ、元は同じ民族だったのです。その事実が隠蔽され、為政者同士のプロレスによって意図的に仲たがいさせられているんです。本当に酷い話です。同じ民族なら本来仲良くすべきではないでしょうか?プロレスに騙されるべきではないと思います。

歴史修正をしている政治家は自分の利益のためにやってるだけです。分断工作をすることが自分の利益になるからです。対立を煽って票に結び付つけてるんです。そもそも、日本と朝鮮半島の関係における基本政策が分断政策であるため、彼らは単に与えられた役割を演じているという側面もあるのでしょう。

でも、英米に土下座外交することが保守だと思ってるなら頓珍漢過ぎると思います。分断工作によって虐げられている人々も同じ人間なんですよ。アメリカの意のままに動いてプロレスラーを演じるのが保守なのでしょうか?そんなもの保守でも何でもないと思います。だからまともな保守はみな反米保守なんです。親米保守なんてないです。アジア諸国との分断は日本のためになんかなりません。ジャレド・ダイアモンドを読んでください。分断の先にあるのは文明崩壊(経済崩壊)です。感情ではなく冷静に論理で考えるべきではないでしょうか。感情は知らず知らず植え付けらた錯覚です。戦争マーケティングなんです。仲たがいする方向に持っていかれてるだけです。親米保守って日本人を人間の盾にしたい人たちの詭弁だと思います。国民もそのことをちゃんと理解すべきです。

平和条約国籍離脱者ってなんですか?みなさんはこれを知ってるんですか?知ってて差別してきたんですか?だとしたら本当に酷いです。いい加減にしてください。日本は司法も腐ってるんですね。恐ろしい国です。恥を知るべきでしょう。

政治家や学者は今の状況を恥ずかしいと思わないのでしょうか。
嘘つきとして生きる人生に何の意味があるのでしょう?
両国の国民をわざと仲たがいさせて自分の利益にするなんて最低です。
お金や地位や名誉なんて所詮錯覚で本質的に意味のないものです。貨幣錯覚に囚われて空虚な人生を生きると死ぬ間際に後悔しますよ。自分の利益のために虐げられ差別される人々が作られることに今心が痛まないとしても、「自分の死」が目前に迫り虚飾が取り除かれた時に必ず苦しみに追いやった人々の心を想像して後悔することになります。そもそも、そんな自分の姿を子や孫に誇れるのでしょうか?人生において「自分の死」が自覚されたときに最後に自分に残るものは何か?そのことについて考えてほしいと思います。

正確に事実を知り、互いの立場を理解した先に、平和な未来があると思います。わたしたちは正義や論理に基づいて行動できる大人になるべきです。でなければ人生を悔いることになります。それに、日本の子供たちはこれからの時代を生きるんですよ。みなさんも知る者の義務を果たしてください。それが保守です。

天皇陛下日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招へいされた人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。しかし,残念なことに,韓国との交流は,このような交流ばかりではありませんでした。このことを,私どもは忘れてはならないと思います。ワールドカップを控え,両国民の交流が盛んになってきていますが,それが良い方向に向かうためには,両国の人々が,それぞれの国が歩んできた道を,個々の出来事において正確に知ることに努め,個人個人として,互いの立場を理解していくことが大切と考えます。ワールドカップが両国民の協力により滞りなく行われ,このことを通して,両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております。

以上です。



あとがき

この長文記事は二日で書き上げたものです。
泥酔しながら一気に書き上げました。そんな感じで書き上げたので、日本語がめちゃくちゃで、それを今日までダラダラと修正してきました。というか、まだ修正中です。修正するときも泥酔しているので、なかなかこれが、、進まない。

ナウシカがニギハヤヒだというのは私のオリジナルの推論です。どこかで見たり誰から教えてもらった話ではありません。以前からそう思っていたのですが、昨年くらいでしょうか、平和条約国籍離脱者という言葉を知り大変驚きました。その頃から、この二つの事柄は朝鮮人にまつわる歴史の隠蔽であるという意味で共通点があるなと漠然と思っていて、それで、かなり酔っぱらっているときに突然この二つの隠された事実を繋げてみようと思って書きはじめました。

当初、単純に、ナウシカがニギハヤヒだというところから入って、平和条約国籍離脱者に繋げて終わりの予定でしたが、かなり長くなりました。実際に繋げようとすると大変すぎました。この二つのワードを繋げる行為は無謀でした。それに寄り道しすぎました。そもそも自分に歴史の知識が不足しすぎています。特に古代史や祭祀に関する知識が不足しすぎていました。再び勉強してますが、時間がかかりそうです。なので、それまで少しずつ修正が入ると思います(放置の可能性もあり)。

寄り道しすぎた理由の一つに、別で長らく書きかけになっていた芥川龍之介に関する記事を完結させたいという理由がありました。政府が喧伝した日鮮同祖論という侵略ありきの詭弁は、当時、多くの学者や文人を落胆させ絶望に追い込みました。芥川龍之介もその一人だったということはほとんど知られていません。明治の文豪と言われる文人は、本来なら当時の時代背景や政府のプロパガンダとの関係で語らなければいけない人がほとんどなのに、その関係で語られることはありません。日鮮同祖論がタブーだからです。それから、四民平等や国民皆兵というプロパガンダと関連づけて批判的に作品を語ることがタブーだからです。

タブーの事を書いていたら、あれもタブー、これもタブーと、かなり寄り道してしまいました。でも、この平和条約国籍離脱者って本当にひどいです。彼らは法的根拠なく日本国籍をはく奪されたのです。被差別としての朝鮮人や、すでに労働者の4割もいる非正規労働者は、政策として意図的に作り出されています。本当にふざけすぎてます。そのことに怒る人がほとんどいないことが絶望です。そもそも国家が意図的に作り出しているという事実にすら気が付いてない人がほとんどです。戦前も、政府によって農民が意図的に荘園制に縛り付けられ兵士の供給源とされました。国家による政策として貧乏なままにされたんです。でも、当時は気合の入った国士がいて問題に対処しようと立ち上がりました。

この国は腐ってます。歴史も嘘ばかりです。日本の司法は平気で朝鮮人を被差別に堕としてしまったんです。恥ずかしくないのでしょうか。同じ民族なんですよ。同じ民族だからって根拠で併合したんです。酷すぎだと思います、これは。今は国民に毒のワクチンを平気で打たせまくってますし、頭がどうにかしていると思います。私はもう本当にやってられないんです、本当に。

保守って何でしょう?そもそも、この国の国体とは何なのでしょう?
私は、皆さんに根本から再度問うてほしい。そういう想いがあって、この長々まとまりのない文章を書きました。
ちなみに私がキムなのは差別が嫌いだからです。敢えてキムです。これは西部邁氏の「友情」という書籍から着想を得ました。キムさんを差別しないでください。言葉に否定的なイメージを植え付けるのは分断マーケティングです。東アジアで仲よくすることが私たち日本人を良い方向に導くと考えています。

2022.9.22 


修正履歴
2022.9.23 閔妃に関する項目を追加、李垠の説明を少し追加
2022.9.23 金沢庄三郎の説明追加中。八紘一宇や脱亜論など、戦争マーケティングの説明を修正中
2022.9.23 征韓論の項目を追加中
2022.9.23 保守とは何か、の項目 説明追加
2022.9.23 あとがき、に少し追加
2022.9.24 日琉同祖論を追加。富国強兵を追加。鉄の道に説明追加。
2022.9.24 征韓論の項目完成 金沢庄三郎の説明完成 
2022.9.24 日鮮同祖論と修史事業の項目を追加中。征韓論の項目にアーネスト・サトウを追加中
2022.9.25 戦後の朝鮮半島との関連におけるタブーの項目を追加、加筆予定
2022.9.25 日鮮同祖論と修史事業の項目が完成 全体としてのバランスがおかしい 説明や項目の追加をしすぎて色々とおかしくなっている
2022.9.25 ネイチャーのリンクを貼り忘れていたので貼った(2か所)アイアンロードのところと、日鮮同祖論と修史事業の項目
2022.9.25 「ジブリ作品の中の日本神話」に勾玉の説明を追加
2022.9.25 日鮮同祖論と修史事業の項目に宮崎駿の説明を追加、上橋菜穂子の説明を追加
2022.9.25 征韓論の項目に加筆 マセソンと松陰 まだ完成していない
2022.9.25 征韓論の項目に加筆 資本主義の発展と金融資本の成立について、参考として自分の記事のリンクを貼る 2つ
2022.9.27 ジブリ作品の中の日本神話の項目にスサノオの説明を追加。その他、ジブリ作品と神話との関係について、わかりやすく説明を追加。
2022.9.27 久米邦武筆禍事件の記述を修正 三種の神器に重点を置いた(趣旨は変わらず)
2022.9.27 征韓論の項目に加筆 チェンバレン、アストン、パークス、小泉八雲にも言及 
2022.9.27 村上龍の哲学性を少し追加
2022.9.27 日鮮同祖論と修史事業・最後の結論部分を少し追加 歴史の嘘と現代への影響
2022.9.28 英米はなぜ隣国と仲良くすることを阻むのか?の項目の内容に、説明をつけたした(ロシアの南下政策、資本主義が向かう必然性)。原発政策・母子手帳・ワクチンの闇についての記述を追加(これは削除する可能性)
2022.10.6 梅原猛氏の箇所に戦後の状況を少し追加、おかしい日本語を修正。量子力学の話は唐突過ぎるけどまあいいか。→削除(2023.2)
2022.10.7 征韓論の項目を整理、酔っぱらって書いた意味不明な文章が沢山んあったので多数削除、整理した。もう一度チェックが必要。話の筋がまだおかしい。英国と日鮮同祖論という筋が不明瞭。
2022.10.8 戦争マーケティングの項目の③軍略に加筆。山本五十六とロジスティクス、ニューギニアの食人のエピソードなど。
2022.10.8 戦争マーケティングの項目の②宣伝マーケティングの起承転結整理。おかしな日本語修正。板垣退助、スペンサーのあたり、他。
2022.10.10 日鮮同祖論と歴史から消された人類学者・鳥居龍蔵の項目に「満鮮史」の説明を追加
2022.10.19 鉄の道とアルタイ語族の起源の項目にもののけ姫のエピソードを追加(出雲族から技術が伝播したとの説明を追加)
2022.10.19 あとがきに芥川龍之介の記事との関係についての説明を追加
2023.1.28 「ジブリ作品の中の日本神話」のおかしな日本語を修正
2023.1.28 「鉄の道とアルタイ語族の起源」のおかしな日本語を修正
2023.1.29 「日鮮同祖論と歴史から消された人類学者・鳥居龍蔵」のおかしな日本語を修正(おかしなところがありすぎて途中)
2023.2.1 「鉄の道とアルタイ語族の起源」を「鉄の道」と「アルタイ語族の起源」に分けた。鉄の伝来と遼河文明を繋げるのは年代を考慮すると無理筋。おかしな日本語も少し修正
2023.2.14 「日鮮同祖論と修史事業 真実と虚構の対立」のおかしな日本語を修正。戦後の記述に余談が多すぎてまとまりがないので一部脱線しすぎた余談を削除。
2023.2.15 「日鮮同祖論と征韓論」のおかしな日本語を修正(まだ途中)。ナウシカと日鮮同祖論の関係について少しだけ説明を追加。
2023.2.16 引き続き「日鮮同祖論と征韓論」のおかしな日本語を修正(まだ途中)。本筋と関係ない無駄な余談が多いけどわりと面白い。どうするか。
2023.2.17 「日鮮同祖論と征韓論」のおかしな日本語を修正(一応完了)。余談は面白かったので残した(重複している記述だけを削除)
2023.2.17 「韓国併合の闇」のおかしな日本語を修正。閔妃暗殺の歴史的重要性について補足(少しだけ。なぜ毒殺ではなく犯人をハッキリさせたか。)
2023.2.19 「東京大学と人類学」のおかしな日本語を修正。「進化論」と「自由と平等」が宗教という点を補足。人類学者が斥候という表現を少しわかりやすくした。
2023.2.19 「王家のルーツと歴史の隠蔽」のおかしな日本語を修正。ロードス島戦記の記述は唐突過ぎるし関係ないので削除した。
2023.2.19 「資源のない島国は隣国と仲良くすべき」のおかしな日本語を修正。ジャレド・ダイアモンドの著書についての説明が少なすぎたので説明を追加(西欧中心主義から東洋の再評価への流れ。文明崩壊と科学主義の本質。)
2023.2.20 「侵略ありきの知識人と取り込まれた知識人。背後にあった巧妙な戦争マーケティング」のおかしな日本語の修正に取り掛かる。酔った勢いで好き放題書いてる。面白いけど長すぎる。→いまさら大幅削除や改変はしたくない。当時の酔っぱらいの自動記述を尊重して、原文を生かしながらおかしな日本語を修正。言葉足らずのところは少しだけ補足するに留める。というスタンスにする。
2023.2.21 「侵略ありきの知識人と取り込まれた知識人。背後にあった巧妙な戦争マーケティング」を「現代までつながる戦争マーケティング」に変更。マーケティングの話が長すぎるので。共進化の話しを追加した(服従の精神が脳の変容をもたらしたという観点)。自分の最近の記事のリンクをいくつか追加。
2023.3.5 「日鮮同祖論と歴史から消された人類学者・鳥居龍蔵」のおかしな日本語を少し修正。レヴィ・ストロースの記述が唐突過ぎるしいらない。でも、いまさらだしそのままにしておく。
2023.5.2 「現代までつながる戦争マーケティング」のおかしい日本語を整理。自分の他の記事へのリンクを整理する必要あり。関連性の乏しい記事へのリンクはいらない。文章もダラダラ意味不明なところが多い。文章ももっと整理が必要。
2023.5.5 映画「千と千尋の神隠し」の補足を追加。「とてもストレートにニギハヤヒという重要な神様が記憶から隠されている、ということをテーマにしたのだと思います。そのため、敢えてエンタメ性を強調したのかもしれません。」2023.5.11に、日本語を少し修正。
2023.5.5 星野恒の記述がおかしいので修正。星野恒がスサノオ縄文人説を提唱したのではない。国史眼に縄文人要素を加えたのは明治政府。どちらかと言うと、星野と久米はそれに抗った人物。ただ、評価は難しい。
2023.5.5 スサノオ縄文人説に補足を追加。「私の造語です。ネットではこれを主張してる人が今も沢山います。」2023.5.20に再修正。
2023.5.15 神道に縄文人要素の加味という点を少し強調。(修史事業と征韓論の項目で)
2023.5.20 星野の主張をもう一度簡単に整理。朝鮮侵略を積極的に肯定したことを追記。邪馬台国について少しだけ言及。日向系(渡来人)である天皇という記述があったので、渡来人に修正。(修史事業の項目)
2023.5.27 修史事業の項目、おかしな日本語を複数修正。邪馬台国に係る断定的な表現を少し修正。芥川龍之介に関する記載を少し補足。
2023.6.2 「現代までつながる戦争マーケティング」のおかしい日本語を整理。最後の一段を四段程度に加筆。趣旨は変わらず。文中に自分の過去記事をいくつか追加。
2023.6.3 「英米はなぜ隣国と仲良くすることを阻むのか?」のおかしい日本語を整理。補足説明を少し追加。ワクチンの話は結局消さなかった。酔っぱらいが書いた超越的な文章が割と面白かった。
2023.6.3 「朝鮮人に対し犯した三つの大罪。戦後も続く分断工作の中で和解するためのカギ」のおかしな日本語を少し修正。星野の日鮮同祖論を追加した。
2023.6.3 「保守とは何か?」のおかしな日本語を少し修正。
2023.6.3 「あとがき」のおかしな日本語を少し修正。文章を少し追加。
2024.1.18 「日鮮同祖論と修史事業 真実と虚構の対立」の後半部分、おかしな日本語修正、宮崎駿の説明、くど過ぎにつき一部削除。「日鮮同祖論と征韓論」の年表の体裁を少し整理。
2024.8.23 「出雲族の神、韓神」の神道の本来の神についての説明に、(神道の起源を満州あたりと考え、高御産巣日神が本来の神だと主張する学者もいる)を追加。noteで教えていただきました。
2024.8.24 「ジブリ作品の中の日本神話」を読み返し、縄文人が固有日本人であるかのように書かれていると感じたので、補足として(※オロチ族の素性については様々な説があるが、ツングース系の一民族とする説もあり、これが仮に事実なら、明治政府は意図せずに朝鮮要素を付加してしまった、と考えることもできる。)と加入した。→ 削除 →「日鮮同祖論と修史事業 真実と虚構の対立」の三種の神器の説明に移動。
2024.8.24 「出雲族の神、韓神」の古神道の説明が誤解を招く。(人類学的に神道の古代形態を指す場合は、古神道とは言わず原始神道という言葉を用いる。)を加入。
2024.12.29 「日鮮同祖論と修史事業 真実と虚構の対立」の邪馬台国に関する記述の部分に、(邪馬台国と大和政権の連続性を指摘する論もある)を加入し、連続性がある可能性を若干強調しておいた。noteでこの点を指摘している方が数名いらっしゃって参考にさせていただきました。ただ、私の勉強不足で、現時点でこの連続性の中身を上手く説明できない(連続性という言葉が適切なのかもよくわからない)。自分で説明できるようになったらまた補足する予定です。
2025.1.2 「出雲族の神、韓神」の高御産巣日神の説明を少し補足した。→『(韓神の解釈については諸説あるようなのですが、神道の本来の神様について、神道の起源を満州あたりと考え、高御産巣日神(タカミムスヒ)という神様が本来の神だと主張する学者もいます。この場合、スサノオとニギハヤヒは高句麗系で、スサノオとタカミムスヒを同一視する見解もあります。ちなみに、タカミムスヒ信仰は満州族に古くから伝わる高木信仰に由来している可能性があるそうで(ツングース系のシャーマニズム)、この話は、古代朝鮮王朝の建国神話との関係性も指摘されていようです(雷神による建国説)
。この論を主張する学者の多くは、どこかの時点で政治的意図によってタカミムスヒからアマテラスへ神のすげ替えが起きたと考えているようです。)』noteで教えていただきました。
2025.1.3 「日鮮同祖論と修史事業 真実と虚構の対立」の邪馬台国に関する記述の部分を大幅に修正。取り消し線にしてあるところは私の見立てが間違えていた箇所。
『ちなみに、今日、邪馬台国論争が盛んに喧伝されていますが、邪馬台国は日本の国体とは基本的に関係ないと捉えた方が良いと思います。そもそも朝鮮人が畿内に建国していた国というのが事実のようです。鍵は古代朝鮮語で万葉集などの文献を再解釈することにあるそうです(なんと万葉集は古代朝鮮語で解釈すると隠れた意味が読み取れる(李寧煕「もう一つの万葉集」)。)つまり、邪馬台国が大和政権の前身です(無論、諸説あり)。卑弥呼をツングース系のシャーマンだったと考える学者もおり、そもそも邪馬台国が縄文系ではなく朝鮮系の国だったと考えると筋が通ります(ちなみに、鳥居もこの点を指摘している)。従って、邪馬台国を縄文系のように印象操作しているのは、国家神道を補強するために国民の錯誤を利用しようとしているのだと思います(いや、そもそも縄文人にも朝鮮系がいたと考えた方がよいのかもしれません)。詳細については様々な説があり議論が残るところですが、史実としては、どうやら、邪馬台国がそもそも朝鮮系だったようです(と言っても、実際には、アイヌ人も含め複数のルートから日本に渡来してきた民族同士がゆるやかに合わさった混成国家(共同体)だったのだろうと思います(鳥居は縄文系としてインドネジアンとインドシナ民族を挙げている))。』
この修正に合わせて、すぐ下の鳥居と金沢についての記載を少し補足した。その下の芥川の記載が唐突で長いので整理(駆逐→征服に)。
2025.1.4 「日鮮同祖論と修史事業 真実と虚構の対立」の戦後についての記述を整理。共劣化についての見解を追記(共同幻想論をブルデューで説明)
2025.1.11 アマテラスはアマテルという伽羅系の王族だったらしい。ニニギ、神武は南方系。伽羅系は神道の神話体系とは別系統か。とりあえず気が付いた範囲で修正。記事が長すぎるので気が付いた範囲だけ。韓神はもともとはアマテラスではない。タカミムスヒからアマテラスへ神のすげ替えが起きたのは、大和王権が天皇制を整備した際か。
2025.1.12 「日鮮同祖論と修史事業 真実と虚構の対立」の終わりあたりのフッ化水素戦争の記載はあまりに唐突なので削除。
アマテラスが伽羅系の王族だったというのは本当なのか。日向系は南方系。いや、ガンジス川ルートと、中国経由台湾ルートがあった?鳥居がしつこく取り組んでいた南方ルートの解明は、、これを目的としていたのか。NHKの言ってたことは字づらとしては正しかった?このあたりは今後の課題。下の記載は取り消し線にしておく。
NHKは天皇の祖先はアマテラスだと言っています。アマテラスは神話上の神様です。いまだに日本では神様が国を作ったと言っていて、それが国史なのです。国史がニニギの天孫降臨神話から始まるのもどうかと思いますが、アマテラスは出雲族の神様であって日向族の神様ではないです。
トルメキアの侵攻が発端となってオームの大移動が起きたのはこれだったのか、、今すべてがつながった。が、調査中。
2025.1.14 満鮮史の記載を拡充。稲葉岩吉の「満鮮不可分論」を追記。次の項目との話のつながりが変になった。→「日鮮同祖論と修史事業 真実と虚構の対立」の記載を前項に合わせて補足。趣旨は変わらず。
2025.1.15 神武は実際は三笠宮様が言ったとおりなのか。実際にはニニギが東征?「日鮮同祖論と修史事業 真実と虚構の対立」を少し修正、ルサンチマン思想を追記
2025.1.16 満鮮史が長くなったので大項目とした→「日鮮同祖論と満鮮史 満鮮不可分論とは何か」。満鮮史を修正。朝鮮史における古代史消去と鳥居との関係について補足。「日鮮同祖論と修史事業 真実と虚構の対立」を少し修正。私にはアマテラスが問うているような気がするんです、アマテラスとは何者かと
2025.1.24 「韓国併合の闇」を読み直し、李垠の政略結婚と日鮮同祖論との関係を若干補足。『李垠(りぎん)の政略結婚は、日鮮同祖論と同じ線上にあった政策だという理解が大切です。そういう意味で、この出来事も、本来教科書が無視できるような出来事ではないのです。』
2025.1.25 「東京大学と人類学」にマリノフスキの機能主義の説明を追記した。『ついでなのでこの話もしておきますが、この地域をフィールドワークの対象にして、進歩観念に囚われていた欧米の人類学に「機能主義」という観点をもたらしたのが人類学者のマリノフスキという人物です(『西太平洋の遠洋航海者』(1922)で有名)。この人は現地の島々で行われていたクラ交易という交換スタイルや呪術(神性)をベースにした「互酬的な関係(つながり)」を観察することで、地域の人々が利益よりも関係性(つながり)を重視して生活していることに気が付いたのです。私なりに言えば、要するに、生態系の維持を重視し敢えて進化しないような生き方を選んでいるということです。つまり機能主義の機能というのは進化させないような互酬的な関係性を成立させるための各要素のことを意味しています。当時の欧米人にはこのような生活態度が非常に驚きだったようで、この観点が西欧の文化人類学に大きな転機をもたらし、「社会進化論」(スペンサーが有名。また後で説明します)へのアンチテーゼとなってゆきます(機能主義という考えが後にモースの「贈与論」に繋がってゆき、そしてこの「贈与論」がレヴィ・ストロースに影響を与え、ソシュールの記号概念が導入され構造主義が生まれることになります。)
「王家のルーツと歴史の隠蔽」のなんだかくどい文章を少し削除し整理。
2025.1.16 「日鮮同祖論と満鮮史 満鮮不可分論とは何か」の記載が言葉足らずで誤解を招くので補足した。『(檀紀(前2333年開始)は皇紀(前660年)よりも千年以上も古いのです)。(ちなみに桓檀神話は桓因(インドラ)の子である桓雄と熊女との間に生まれた檀君(王倹)による建国神話ですが、インドラとスサノオを同一視したり、この檀君をスサノオと考える主張もあるそうです。そういう意味で日本がスサノオを檀君と考えたのは完全な間違いではなく、記紀の記載に合わせて檀君を日本のスサノオと言ったのが間違いなのです。檀君がスサノオである可能性はあるのです。)』