本居宣長の徹底探索

 本居宣長記念館を訪れた際,展示で最も印象に残ったのが「学問は怠けずに続けることが重要だ。学び始めるのが遅かったとか,毎日忙しいとかいってあきらめてはいけない。(うひ山ぶみ)」という言葉で,ふと思い起こしては戒めにしています。機関に属さず受験や論文提出をすることもなく,探訪や思索を重ねることも学問のうちと個人的には考えています。自分も書籍を読んだあとには付箋だらけとなりますが,この「古事記」に書き込まれた膨大な注記と付箋を見ると,古本に出そうなどと思わず直接ページに書き込んだり,もっと大きな付箋を用いるのもいいなと思いました。

古学の入門書「うひ山ぶみ」

 また,生涯に約270冊もの本を書いた本居宣長は「本は出版されねばならない」という言葉を残しており,これにも共感を覚えます。音楽においても同様で,「youtubeであろうライブであろうとどんな形でも,音楽は人の耳に入らなければ意味がない」,つまりスタジオで合わせているだけでは音楽はこの世に存在すらしないと考えますが,多分これと同じような意味でしょう。

大量の書き込みで埋まる「古事記」


 旅については本居宣長はとにかく健脚で,徹底的な探索の姿勢で臨みました。35年かけて「古事記伝」を書き上げたことから,書斎にこもっていたような印象がありましたがとんでもなく,旅の記録を見ると歩いた総距離は伊能忠敬並みではないかというくらいです。訪問前には”よく調べ”,旅中では”よく見て聞き”,帰ってからも”じっくり考えて調べる”,当時は天武・持統の合葬陵と考えられていた見瀬丸山古墳では,横穴石室の中にまで入っています。行燈もなしに手探りでの調査でした。3代天皇安寧陵(御陰井上御陵)を訪れた際は,恐れ多く思いながらも墳丘に登って前方後円墳の形を確認したうえで,案内の者から古墳の構造について説明を受けました。2代天皇綏靖陵でも墳丘に登っています。神武天皇陵を訪れた際は次のように記しています。「四条村の300mほど東の田の中に松,桜それぞれ一本植わった小さな塚がある。神武天皇陵とのことだがとても御陵とは見えない。『古事記』の記述とも合わない。もしかしたら先ほどの綏靖天皇陵が真の神武天皇陵ではないのか」。どうしても実際に墳丘に登って何らかの実感を得たかったのでしょう(両者の比定は幕末に入れ替わりました)。注目すべきは,のちに皇国史観の源とされた人物が,墳丘に上ったり石室に手を入れたりすることを不敬であるとは考えていない点です。
 信仰の対象としての尊重と研究の対象としての興味は両立し,何ら冒涜ではなく,むしろ地中に樹木の根がはびこり石室が水浸しになっている状況こそが見過ごせません(放置=保全ではない)。まして被葬者が定かでない墓を皇族に礼拝させているのはどういうことでしょうか。宮内庁は「皇族がお参りをすることによって,先祖の霊がそこに移るのだ。問題はない」という見解を示したことがありましたが,見当違いの豪族の墓を礼拝させているとすればこれは失礼な話です。「日本書紀」にも陵の取り違えは祟りを招くという記述があり,江戸時代後半には尊王思想の伸張が陵墓調査を後押しました。決して歴代天皇陵のすべてを文化財として発掘せよといっているわけでありません。「初代~25代天皇陵の墳丘の樹木の伐採,石室内の清掃,埋め戻したあとの墳丘の復元」を望みます。奈良県にある前方後円墳の約9割はすでに盗掘されているといわれます。発掘した途端に外気に触れて遺物が腐るから放置せよ,という主張は通じません。まずしなければならない作業は,盗掘の際に石棺のふたが開けっぱなしとなるなど荒れた状況の回復です。もし祭器・副葬品が残っていても復元・鑑定後は博物館所蔵とせず石室に戻します。壁画が発見されたとしてもキトラのように切り出して保存する必要はありません。未盗掘であれば石棺を開けて遺体の鑑定をする必要はありません。ただし墓碑銘の確認は欠かせません。武寧王の墓誌のような世紀の発見があれば,欠落した日本の古代史が整然とした形で姿を現すでしょう。整備後は墳丘に上れる古墳公園などをつくる必要はなく,葺き石を敷き詰めたうえで再び立ち入り禁止にして,これまでどおり皇室の祭祀の場とします。一歩譲って初代~15代まででもかまわないので,50年計画(3年ごとに着手し5年で調査完了,概ね2基を並行進行)で考えてもらいたいです。

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