中大兄皇子-〈額田王〉-大海人皇子
斉明天皇に才能を見出された美貌の歌人・額田王は,天皇の代理で歌を詠む女官として仕え,斉明天皇の子である大海人皇子(後の天武天皇)と結婚し,十市皇女を産みました(653年?)。額田王の生まれは定かではなく,この結婚は17~23歳のことと思われます。
しかし,額田王はのちに大海人皇子の元を離れ,中大兄皇子(後の天智天皇)の後宮に入りました。結婚からわずか4年後の破局です。657年以降,中大兄皇子が4人の娘を次々と大海人皇子のもとへ嫁がせたのは,額田王を奪ったことへの償いであるという考えもあります。この三者の三角関係を背景として詠まれたと伝えられるのが,中大兄皇子による次の歌です。
香具山は畝傍ををしと耳成と相争ひき 神代よりかくにあるらし古もしかにあれこそ うつせみも妻も争ふらしき(香具山は畝傍山が愛しい[または男らしい])と言って,古い恋仲の耳成山と争った。日本神話の時代からこんなふうであるらしい。昔もそうだからこそ、今の世でも妻を争うらしい。)
一人の女性である香具山を,耳成山と畝傍山の二人の男性が争ったと解釈した場合,額田王をめぐる中大兄皇子と弟である大海人皇子との争いが連想されます。中大兄皇子はこの歌を,白村江の戦いを指揮するため九州北部へ向かう途中の,播磨国印南野を過ぎたときに詠んだと伝えられます。
朝廷において高貴な女性は,天皇の権勢を利用するための道具として用いられていました。中大兄皇子の人物像については,蘇我氏の粛正を見ても,権力を確立するためには手段を選ばない冷徹な性質がうかがえます。しかし上記の歌にはその反面,愛情や嫉妬にとらわれた人間味のある一面も垣間見られます。「神代よりかくにあるらし」の節にある,日本神話中の愛憎とは,次のような物語に当たると思われます。
・嫉妬した兄たちの悪巧みによって何度も殺されかけたオオクニヌシは,先祖のスサノオノミコトがいる地底の根の堅洲国に逃げた。そこでスサノオノミコトの娘スセリビメノミコトと出会い恋に落ちた(「古事記」)。
・先にオオクニヌシと結婚していたヤカミヒメは,オオクニヌシの正妻であるスセリビメを恐れて,産んだ子を「木の俣」にさしはさんで因幡に逃げ帰った(「古事記」)。
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