蘇我入鹿の首塚
飛鳥寺の伽藍から西へ数十m移動したところに,かつての西門の跡がありました。644年,この門付近にあった「槻の木の広場」で行われた蹴鞠の場で,中大兄皇子と中臣鎌足が出会いました。皇子が勢い余って靴を飛ばしてしまい,鎌足がその靴を拾って差し出すと,皇子はひざまずいて靴を受け取りました。鎌足は30歳をすぎていましたが中級豪族,皇子はまだ10代でしたが皇位継承者。この所作に鎌足は理想の君主の姿を見いだし,蘇我氏の横暴を訴えるとともに改革の必要を呼びかけました。教科書では,乙巳の変と大化の改新は中大兄皇子が主導したようなイメージで記述されますが,実際には鎌足が画策して実行したクーデタでした。翌年蘇我氏を倒した皇子は,この広場で天皇や臣下とともに大化の改新の幕開けを宣言したということです。
そして,西門跡からさらに西へ進んだところに建つのが,蘇我入鹿の首塚とされる五輪塔です。乙巳の変で暗殺された入鹿の首が飛来したと伝えられる地点です(塔の建立は鎌倉または南北朝時代)。自分の中では長いこと,「槻の木の広場」で乙巳の変が起こったという誤認識がありました。広場から五輪塔までは十数m。靴を飛ばしたという逸話からも皇子の力みなぎる太刀さばきが想像され,逃げる入鹿の体勢によっては首がころころ転がって塚の地点に静止するのはぎりぎりあり得る話かなと思っていたのです。実際には,乙巳の変の現場は飛鳥寺から600m以上南方の飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)でした。
飛鳥宮跡では,岡本宮(舒明天皇),板蓋宮(皇極天皇),後岡本宮(斉明・天智天皇),浄御原宮(天武・持統両天皇)の宮殿跡が4層にわたって出土しています。「万葉集」には天武天皇を称える「大王は神にしませば水鳥のすだく水沼を都と成しつ(大王は神でいらっしゃるので,水鳥が群れ集まる沼地を都に変えてしまった)」という歌が収められていますが,天武天皇以前にすでに3度にわたりこの地に宮殿が造営されていたということは,"沼地"とは浄御原宮以外のどこかの湿地ということになります。このときの旅はレンタル自転車で回ったので,わりと自在に史跡を巡ることができたはずですが,フォルダを調べても飛鳥宮跡の写真は見当たりません。"次の機会には訪れてみたい"という願望が,乙巳の変発生地も訪れたはずだという重層的な勘違いにつながったようです。
645年に飛鳥板蓋宮で行われた朝鮮半島からの使者を迎える儀式の最中に,中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を斬殺しました(乙巳の変)。先ほどの五輪塔の背景に見えるのが,蘇我蝦夷・入鹿父子が権勢を示すために邸宅を構えた甘樫丘です。入鹿の死を知った蝦夷は翌日,丘の裾野にあった邸宅に火を放ち自害しました。 この丘が「日本書紀」に記述される甘樫丘であるということは,古来から確定していたわけではなく,東麓の遺跡で焼けた土壁や建材が発見されたことによって,ここが蝦夷の自害現場,すなわち甘樫丘であると断定されたとのことです。
蘇我入鹿の首が飛鳥板蓋宮から飛鳥寺まで600m余りの距離を飛んできたという伝説は,深い怨念を形容する挿話として,後の時代にも流用されました。10世紀半ば,平将門は重税に苦しむ民衆を助けるため常陸国の国司を倒し,「新皇」を名乗って関東7か国を占領するも,朝敵として追討されました。討ち取られた平将門の首はいったん京都へ運ばれて七条河原でさらされましたが,まもなく関東をめざして飛び立ち,武蔵国豊島郡柴崎村(現在の東京都千代田区大手町,将門塚のある地点)に落下したと伝えられています。