銚子山・佐紀陵山・浅間山古墳の被葬者

 日葉酢媛を宮内庁の治定どおり佐紀陵山古墳の被葬者と仮定すると、その父は四道将軍の1人として丹波に派遣された丹波道主命であり、銚子山古墳のある丹後半島との関連が浮かび上がります(前回の孝霊天皇/建田勢命説より2,30年、登場人物は新しくなります)。丹波道主命は9代開化天皇の孫ですが、父は10代崇神天皇の兄弟の子、つまりここから傍系へ移りますが、娘の日葉酢媛がいとこの垂仁天皇の妃となったことから再び本家と結びつき、さらに垂仁天皇との間の子はのち景行天皇となるので、日葉酢媛を正妃としてここから再び本家に合流します。正妃が200m級の古墳に葬られたとしても不自然ではないかもしれません。
 となれば規格を一にする銚子山古墳はほぼ自動的に、その父・丹波道主命の墓として確定ではないでしょうか。しかし宮内庁は雲部車塚古墳(兵庫県丹波篠山市)に治定しています。これは5世紀半ばの築造と推定されており、崇神天皇の時代の古墳としては時期が合いません。なお「丹波道主」は人物名ではなく、丹波を治める官職名であり、日本得魂命=丹波道主であるとする説もありますが、そうなると天皇家と海部氏の系図が一体化してしまいます。

銚子山古墳と同規格の古墳分布

 古墳の規格が同一とはどういうことなのか、「網野銚子山古墳の設計と佐紀陵山古墳との比較(岸本直文)」をもとに勉強してみます。観点としては方形の底辺の角度、円形と方形がどの比率の箇所で接合するか、段になっているテラス(踊り場)の高さと数、など細部にわたる判断基準があげられています。古墳は現地の者が思うままに建造するよりも、規格に沿ってつくるほうが難しいだろうという印象を受けました。
 規格を流用するには、設計図としての数種の長さのひもと直角を計る道具を持ち運ぶことが必要です。テラスごとの半径分のひも、円の中央から台形の底辺までのひも、底辺の2角から円に到るまでの長さのひも、といった各種のひもです。古墳の規模を小さくするには、長さを同比率で短くしたひもを用意することになるでしょう。図面はひょっとすると存在せず、技術者間の口承によるものかもしれません。

 さっそく上記論文中の図面をトレースしてみました。銚子山古墳の半面を反転コピーすれば佐紀陵山古墳のできあがり、と思っていたのですが、甘い見込みでした。円の形状、台形との接点等、あらゆるポイントでずれており、思いがけずベジェ曲線操作を修練する時間となりました。空から俯瞰できないのになぜ相似形を建造できたのだろう、古代の土木技術はすごい…という頭がありましたが、けっして幾何学的な精密さを備えていたわけではないことがわかりました。

 各種報告書にP点という用語が頻出するので、どの箇所を指すのか調べてみました。これは前方部の2辺のテラスごとの角を結んだ2本の線が交差する点と、後円部の中心線を前方部の底辺へ垂直にのばした線が交差する点ということでひとまず理解しました。O点というのは後円部の中心点となりますが、テラスごとに真円だったり楕円だったりまちまちであり、最外円の中心点が最内円の中心点と合致しないので、これを最内円の中心点であるものとして、同様にC点はOとPを結んだ線が最外円と交差する点であると理解しておきます。こうした歪みは、現地の地形に由来するやむを得ずのイレギュラーな設計、あるいは施工ミス、後生の崩落など様々な要因で発生したと考えられます。初期の前方後円墳は設計が甘く、纏向古墳群には明確なP点を設定できない古墳も多いとのことです。

 なにしろ全国の古墳総数は約16万。地形や土質等の自然条件に応じて無作為に造営が続けられた結果、偶然に類似する古墳が各地に出現したのでは、という考えもよぎりました。ただし、今回の類似墳の築造時期は4世紀から5世紀にまたがる時期に集まっており、当時の支配者の勢力がおよんだ範囲、氏族のつながり、あるいは有力な技術者の流儀が反映された可能性のほうが高いでしょう。
 その形状については、完璧に整備復元された五色塚古墳の姿を見ればイメージできます。後円部に比べて前方部が小さめであることが特徴かと思います。主格である銚子山古墳もしくは佐紀陵山古墳の被葬者が明らかになれば、芋づる式にこれら類似墳の被葬者が判明する可能性を秘めています。浅間山古墳は崇神天皇の皇子・豊城入彦命の墓ではないかという説があります。「日本書紀」によると豊城入彦命は東国への勢力拡大のため崇神天皇により派遣され、その子孫である上毛野氏、下毛野氏はそれぞれ上毛野国(群馬県)、下毛野国(栃木県)を統治することとなりました。
 豊城入彦命は垂仁天皇の兄で、崇神天皇から見て丹波道主命は甥、日葉酢媛は姪孫にあたります。仮に佐紀陵山古墳=日葉酢媛の比定を前提として据えると、この崇神天皇を中心とする関連人物の中に上記類似墳の被葬者が含まれる可能性が高くなります。浅間山古墳の築造時期は銚子山古墳・佐紀陵山古墳と同様、4世紀半ばから半世紀超の期間と考えられているため、豊城入彦命の父である崇神天皇の治世も4世紀中ごろを軸に設定することができます。

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