飛鳥池工房遺跡と富本銭

 明日香村の酒船石遺跡を訪れたとき,駐車場をはさんで北側に建っていたのが万葉文化館です。2棟ある建物を結ぶ連絡通路の間に飛鳥池工房遺跡が保存されており,ガラス窓越しに見下ろすことができました。これら2棟のいびつな構造については,中庭で遺跡が発見されたのではなく,文化館の建設に当たって遺物が出土したため設計が変更になった,という説明で納得できました。

連絡通路から見た工房跡

 ここには,飛鳥寺の瓦を焼いた窯や,日本最古の銅銭である「富本銭」が鋳造された工房がありました。蘇我氏宗家の時代から藤原京の時代まで長期間にわたって,国のさまざまな施設に品を納めるために設けられた官営工場であり,生産物は金銀銅の装飾品,ガラス玉,仏具,武器など多種にわたります。
 「日本書紀」の天武12年(683年)にみられる「今より以後必ず銅銭を用いよ」という詔の"銅銭"が,一体何を指しているのか,ながらく定かでありませんでしたが,飛鳥池工房遺跡の発見により,これが富本銭である可能性が高くなりました。富本銭は1985年,平城京跡で和同開珎とともに出土したのが最初の発見で,その後,難波宮跡などでも見つかりました。
 1998年に飛鳥池工房遺跡で40枚以上もの富本銭が,3000個におよぶ鋳型,るつぼ,木炭などとともに発見されると,出土した銅の量からその発行量は1万枚をこえるとの推定がなされ,富本銭の地位は単なる「まじない銭」から,天武年間鋳造の貨幣へと急浮上しました。これは,708年発行の和同開珎より20数年さかのぼる,日本最古の貨幣ということになります。ただし,初めて本格的に流通した「通貨」は和同開珎であるという説は未だ根強く,論争が続いています。
 なお,和同開珎は古銭商で数十万円出せば本物が手に入るそうです。古代の,たとえば土器や装飾品といった文化財を私有していれば,盗品の疑いをかけられかねませんが,貨幣の場合は特殊な世界が存在するようです。奈良文化財研究所によると,8世紀当時の和同開珎1枚の価値は現在の7千~8千円くらい,現在も古銭市場における人気は高く,平均相場は20万円とのことです。しかも,最古の貨幣の座を富本銭に譲って以降もその価値は下がらず,20年前に比べ25%ほど上昇しています。一方,出土数が圧倒的に少ない富本銭は古銭商でも取引例がないようです。
 しかし,和同開珎が古銭として取り引きされているのはひとえに出土数が膨大であるとしても,最初に発掘した主体は教育委員会なり公的機関のはずです。どの段階から古銭市場へ流通し始めるのでしょう。あまりに数が多いので一部を放出して財源としているのでしょうか。古銭商のHPなどを見ると,平然と「和同開珎の買取価格」が表示されているのですが,これが「勾玉の買取価格」などとなるとぎょっとします。
 こうした古銭の出所はほとんどが不明であると思われます。古銭商のHPには「日本貨幣商協同組合鑑定書付」とは書いてありますが,出土地まで付されているかどうかは買ってみないとわかりません。××遺跡出土などと記載があれば,文化財保護法などのかねあいで出土地の責任が問われないでしょうか。
 ふだん古墳の盗掘に心を痛めている身としては,こうした遺物の出所には興味がわきます。盗掘犯の目当ては遺物そのものではなく金銭です。遺跡から盗掘された品々は,仲買人に売られ,国内外の収集家の手にわたるといわれます。工芸品のたぐいはコレクターの収集欲を満たすため所有されるほか,骨・貝などの有機物は保管して病気の治療のためけずって服用するといった民間療法(エジプトのミイラ等の例),または逆に呪いをかけるときの呪具として用いられました。コレクターはそれが違法な所有物であることを承知しているので,死後は子に継承されることなく眠ってしまうケースも多いと思われ,たまに屋根裏からとんでもない文化財が発見されたりもします。
 このように,博物館や資料館以外の場所で所有されている文化財には黒い影がつきまとうイメージがあります。なぜ和同開珎ほどの文化財が公然と財テクの手段として売買されているのか,単に"貨幣だから"という理由なのか…これについては謎のままひとまず稿を閉じたいと思います。


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